私には、忘れられないクリスマスがあります。それは、山形に来て間もない頃でしたが、山形六日町教会の神崎先生に声をかけていただいて、山形刑務所のクリスマス会に行った時のことです。暗い講堂に、受刑者の方々がたくさん集まっていました。その一人一人がろうそくを手にして、「きよしこの夜」を歌いながら、全体ろうそくの火が、渡されていったのです。
すると、暗い講堂が、ろうそくの火で輝き、「まことの光」として来てくださった、イエス様の御臨在を感じて、深く感動したのです。
来週の土曜日に、刑務所のクリスマス会が行われます。最近は、長期受刑者も増えて、ろうそくの火を灯すことはできなくなっていたのですが、先日、東北教誨師研修大会の食事の席で、刑務所長さんとたまたま隣になり、そのことを話しましたら、「それはもう一度やってみましょう。」ということになり、今年は、全員にという訳にはいきませんが、壇上の私たちと、受刑者の代表の方が四人で、アドベントクランツのろうそくに火を灯すことになりました。ぜひ、都合のつく方は、ご参加いただきたいと思います。
アドベント第3週を迎えました。
今、皆さんの目の前にも蝋燭の火がついています。これは、イエス様が私たちの暗い世界の中に「まことの光」として来て下さったことを表しています。たとえどんなに闇が深くても、光がそこに灯されるならば暗闇は消え去ります。それと同じように、今皆さんの心の中がどんなに暗くても、「まことての光」として来てくださったイエス・キリストは、その暗闇を取り除くことが出来るのです。
今日の中心の御言葉は、1節です。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
このイザヤ書の書かれた時代は紀元前700年ころと言われていますが、この1節に、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」とあるように暗黒の時代でした。
イスラエルでは、紀元前1000年頃にソロモン王がイスラエルを治めていましたが、そのソロモン王が死んでから、イスラエルの民はレハブアムの時代にヤロブアムが反乱を起こし、イスラエルが北イスラエルと南ユダという二つの国に分かれてしまったのです。
そして、このころからイスラエルの国は神様から離れてしまったのです。イスラエルが神様の愛から離れてしまった結果どうなったでしょうか。
まず、イスラエルは宗教的に堕落してしまいました。イスラエルは真の神を離れ、木や石で造った偶像を拝むようになりました。
次に道徳的にの退廃してしまいました。政治が悪いので、いくら働いても生活が楽になりません。やけになった人達は平気で盗みを働いたり、姦淫の罪を犯したり、殺し合いもするようになってしまいました。
そして、いつ 敵が攻めて来て滅ぼされるかもしれないという政治的不安もありました。
イスラエルは宗教的にも道徳的にも政治的にも不安定な、まさに暗黒の時代でした。
けれどもイザヤは1節でこのように預言しています。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
彼らはまさに「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」でありましたが、そのようなイスラエルの民に「大いなる光」与えられるというのです。
そして、この「大いなる光」はイエス・キリストによって与えられるのです。
それは、5節を読むと解ります。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」
この聖書の中から3つのことをお話ししたいと思います
(1)救い主は、「ひとりのみどりご」として来られた
「ひとりのみどりご」というのは、「えい児」生まれたばかりの赤ちゃんのことです。今、山形南部教会は、ベビーブームを迎えて、次々に赤ちゃんが生まれようとしています。イスラエルの待ち望んでいた救い主が、そのような「ひとりの生まれたばかりの赤ちゃんとして生まれる」というのです。
どうして、救い主が、「みどりご」として生まれたのでしょうか。神様には何でもできないことはありません。ですから、さっそうと白馬に乗った王子様のような姿でこの世に来られることも出来たはずです。それなのに、なぜ、「ひとりのみどりご」としてこの地上に来られたのでしょうか。
それは、何も出来ない、弱い私たちのことを知ってくださるためでした。
赤ちゃんは、自分では何も出来ません。食べることも飲むことも出来ません。一人でトイレに行くことも、一人で寝ることも出来なくて眠たくなると泣き出してしまいます。
ただ、赤ちゃんは、お父さんやお母さんを信頼して生かされていくのです。
そんな、何も出来ない、私たちの弱さを知ってくださるために、イエス様は、「赤ちゃんになってくださったのです。
ヘブライ人への手紙4章15~16節
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
イエス様は、私たちのすべての弱さをご存じのお方です。そして、わたしたちがどのような試練に合うようなことがあっても、イエス様は、全ての試練を経験されたお方なのです。
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」 とあるように、私たちは、赤ちゃんのように神様を信頼して御手の中で憩うことが出来るのです。
このイエス様が、一緒にいてくださるなら、たとえ私たちがどんなに弱くても、また、どんなに大きな苦しみが襲ってきても大丈夫なのです。なぜなら、イエス様が全てを知っていて下さるからです。
アメリカのローランド・ヘイズ(Roland Hayes)は、深い信仰を持つクリスチャン・シンガーとして有名です。しかし若いときは黒人だということで、たくさんの苦しみを経験しました。
彼はある日、ドイツのベルリンで独唱会を開くことになり、多くの人々が集まってきました。彼らは名前だけを見て来たので、彼が黒人であるとは知りませんでした。
そして、いざ彼が舞台に出て行くと、ドイツ人たちは立ち上がって座布団を放り投げ、
「私たちは黒人の歌は聞かない!」と叫んだのです。
「出て行け! 荷物をまとめてアメリカに帰れ!白人だと思っていたのに、なぜ黒人がここに来て歌を歌うのか!」と。
彼はあまりにも大きなショックを受けました。人種差別され、涙がとめどなく出ました。
彼は「もう歌わずに帰ろう!」と思い、幕の後ろに入りました。すると、目の前に幻が見えたのです。
じっと見ると、何とイエス様がピラトの庭に立っていました。そして、多くの群衆がイエス様に向かって、「十字架につけよ!十字架につけよ!」とありとあらゆる偽りを言いながら、イエス様を訴えていました。彼らはイエス様に唾を吐きかけていました。イエス様の髪の毛は目茶苦茶になり、全身は傷だらけでした。
それでも主は黙って頭を垂れて恥辱に耐えているのです。その姿が幻として見えました。
すると、その時に聖霊のささやきを聞いたのです。
「見よ、主もあのような苦しみに遭ったのに、あなたはこの苦しみに遭わないと言うのか?あなたも有名でなかったなら苦しみに遭わなくてよかったのに、なぜ有名な歌手になったのか?だから、当然この苦しみを味わわなければならない!」
「主よ、分かりました!」
このように聖霊の御声を聞いた彼は、泣きながら舞台に出て行きました。大衆が暴言を叫んでいる中、泣きながら彼は歌を歌いました。ただ歌うだけでも感動するのに、泣きながら歌う姿を見て、多くの人々が、非常に大きな感動を覚えたのです。聴衆はすぐに静かになって、ローランド・ヘイズの歌に耳を傾けました。
そして、その歌が終わるや否や、少し前には敷物を投げて帰れと言っていた人々が皆立ち上がり、拍手喝采をしたのです。
彼は、一度は黒人差別をする会衆を前に、絶望してしまいました。しかし、「もう歌わない」と心に決め、幕の後ろに引き下がるその苦しみの中で、イエス様の幻を見たのです!
イエス様が侮辱され、後ろ指を差されても言い返さず、頭を垂れて立っている姿を見て、勇気と力を得たのです!私たちも苦しみに遭った時、それに屈することなく、苦しみを通られたイエス様を覚えるなら、主の力をいただくのです。主はその人を必ず助けてくださいます。天と地の全ての権威を持たれたイエス様が、私たちと共におられるからです!
「ひとりのみどりご」としてお生まれになられた、イエス様は、私たちの弱さや足りなさ、私たちの苦しみを全部ご存知です。そして、私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様は、三日の後によみがえられた勝利の主です。そのお方が共にいてくださるなら、私たちの弱さや足りなさ、あらゆる苦難に打ち勝って勝利を与えてくださるのです。
ヘブライ人への手紙4章15~16節
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
(2)権威あるお方
5節
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」
「ひとりのみどりご」としてこの地上に来られた救い主は、権威あるお方です。イザヤは 「権威が彼の方にある。」と救い主のことを紹介しています。この権威とは、神様の権威で絶対的、普遍的権威です。
そして、ひとりのみどりごのことが、4つの言葉で紹介されています。
「驚くべき指導者」 と言うのは、英語では、ワンダフルカウンセラーと訳されていますが、すべてを知っておられて、私達を導いて下さるお方という意味です。
私たちには、わからないことがいろいろあります。人生の中でどのような選択をすればいいのか悩むことがあります。けれども、救い主であるイエス様は、私たちを一番良い最善の道に導いてくださる指導者なのです。
二番目は、「力ある方」です。
私たちには出来ないことがたくさんあります。けれども、神様にはできないことはありません。おとめマリアは、まだ、ヨセフと結婚をしていませんでしたが、天使ガブリエルに、聖霊によって、神の御子を身ごもることが伝えられました。それを聞いて、戸惑っているマリアに対して、天使はこう言います。 「神にできないことは何一つない。」 (ルカ1:37)救い主は全能の神様です。
三番目は「永遠の父」です。
救い主は、天のお父様のように限りなき愛をもって愛して下さり。永遠の命を与えて下さるおかたです。
そして四番目は「平和の君」です。
一つは、私たちと神様との関係です。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって下さり、私たちの罪の身代わりに死んで下さいましたが、その十字架によって、私たちと神様との平和を与えて下さったのです。
そして、もう一つは、人と人との平和です。イエス様を信じるなら、私たちの心の中に愛が与えられ、人と人との平和が与えられるのです。
このイザヤが預言した、権威あるお方が、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」としてこの地上に来てくださったのがクリスマスです。
真っ暗な部屋の中に、光を灯すといっぺんにその部屋が明るくなります。それと同じように、この救い主をお迎えする時に、私たちの心がどんなに暗くても私たちの心も輝くのです。
このお方を、賛美と感謝を持ってお迎えしましょう。
(3)万軍の主の熱意
6節
「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
ここには、ダビデを王とするイスラエルの繁栄と、平和の約束が記されています。そして、この御言葉は、新約聖書の光に照らすと、「新しいイスラエル」すなわちイエス・キリストを信じる者に対する祝福と平和の約束です。
神様は、私たちに、本当の祝福と平和を与えてくださるお方です。そして、それは、
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」と預言されています。本当の祝福と平和は、私たちの努力や行いによって得られるのではありません。
ただ、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」のです。
神様は、私たちをとこしえの愛をもって愛しておられます。その主の愛の熱意が、私たちの救いのために神の子であるイエス・キリストをこの地上に遣わしたのです。
そればかりか、私たちの救いのために、十字架で命を捨ててくださったのです。
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」 というこの「成し遂げる」という言葉は、イエス様が十字架上で最後に叫ばれた「成し遂げられた」という言葉と同じです。
ただ、この二つの言葉が違うのは、イザヤ書では「成し遂げられる」と未来形が遣われていますが、十字架上でのイエス様の言葉は「成し遂げられた」と過去形が遣われているところです。イザヤの時代に預言された救いの約束が、イエス・キリストの十字架によって成し遂げられたのです。
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかって命を投げ出してくださいました。その贖いによって救いの業を成し遂げられたのです。それほどまでに、神様は私たちのことを愛しておられるのです。
この「万軍の主の熱意」を思う時、私たちに心からの賛美と感謝が湧き上がるのではないでしょうか。
毎年、ハレルヤコーラスを歌っていますが、今年は祝会でハレルヤコーラスが歌われます。あの有名な「メサイヤ」は、200年ほど前に、イギリスに帰化したヘンデルが作曲したものです。
あの「メサイヤ」の歌詞は友人のジェネンズがキリストに関する聖書の言葉を継ぎ合わせて作ったもので、それにヘンデルが作曲したものです。
ヘンデルは、ある日、徹夜をして、その作曲をしていましたが、朝になってボーイがココアをもってきました。すると、彼は涙を流して一心に五線紙にペンを走らせていたそうです。
その時、ちょうど「彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」というイザヤ書53章3節を歌詞として、あの二部の美しいアルトの独唱曲を書いているところだったというのです。
「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
神様の、私たちに対する熱い愛が、独り子をこの地上に送ったのです。しかも何も出来ない「みどりご」となってくださり、最後には、私たちの罪のために十字架で命を捨てて下さったのです。それほどまでに私たちのことを、熱い愛をもって愛して下さっているのです。この愛を深く思いめぐらし、心からの賛美と感謝をささげましょう。
Ⅰヨハネ3章1節にこう書かれています。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」
このアドベント神様が、私たちをどんなに愛して下さったのかを「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、」を思いめぐらしましょう。
そして、あのヘンデルが涙を流しながらあのメサイヤを作曲したように、私たちも、心からの感謝と賛美を主におささげしようではありませんか。
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