今日は、礼拝が終わって、2時から新会堂の定礎式が行われます。その定礎式の時に聖書と一緒に、10年後の希望をみなさんに書いていただいて、それを講壇の下に置いて、10年後に開きたいと思っています。後で、紙をお渡ししますので、書いて下さい。
そして、いよいよ、新会堂の工事が始まります。完成するのは3月中旬で、いよいよ4月からは、新会堂で礼拝をする事になります。
一つ一つの行事が、この会堂で行われる最後になると思うと、ジーンと感じるものがありますし、来年完成する新会堂のことを考えると、ワクワクしてきます。
新会堂の工事は、ちゃんとスケジュールがあって、完成する日も決まっていますが、救い主を待っていたユダヤ人たちは、それがいつのことなのか、その「時」については知らされていませんでした。ずっと長い間、救い主が来られるのを待ち望んでいたのです。
そして、ついに約束され、待ち望まれていたメシヤの誕生の時が、いよいよやってきました。そのイエス様が産まれる前に、その準備をするために、一人の男の子が生まれました。それが、今日出てくるバプテスマのヨハネです。
この夫婦は誰でしょう。バプテスマのヨハネのお父さんとお母さんです。
ユダの町に、ザカリヤという祭司が住んでいました。ザカリヤにはエリサベトという名前の奥さんがいて、二人とも神様を信じる正しい人でした。
ところが、この二人には、一つだけ悲しいことがありました。残念なことに、子どもがいませんでした。「赤ちゃんをください。」と神様に何度もお祈りをしましたが、子どもが生まれないまま、おじいさんとおばあさんになってしまいました。
ある日、神殿でザカリヤは特別な仕事をする事になりました。良いにおいの香をたいて、お祈りをするのです。ザカリヤは、救い主が来られることを知っていましたから、「救い主が早く来られますように」と祈っていました。
その時です。ザカリヤは、「あっ」と驚いてしまいました。天使が表れたのです。天使は、ザカリヤに話しかけました。
「恐がらなくても大丈夫です。神様が赤ちゃんをくださいます。奥さんのエリサベトは、赤ちゃんを産むでしょう。その子に「ヨハネ」という名前をつけなさい。その子は、大きくなったら、救い主のことをみんなに知らせる人になります。」
ザカリヤは驚いてしまいました。
「私も、エリサベトもこんなに年を取っているのに、子どもなんて生まれるはずがない。」とザカリヤはどうしても信じることが出来ませんでした。
すると、天使が言いました。
「あなたは、私の言葉を信じないので、あなたは赤ちゃんが生まれるまで、口が利けなくなります。」
言われた通り、ザカリヤは何も話せなくなってしまいました。
それから、しばらくすると、天使が行った通り、元気な男の子が生まれました。エリサベトは大喜び、でも、ザカリヤはまだ口が聞けませんでした。
赤ちゃんが産まれると、親戚の人や近所の人たちがお祝いに集まりました。「おめでとう」「かわいいね」とみんなも大喜びです。
ところで、この赤ちゃんの名前は何にするのかな。するとある人が「ザカリヤの子どもだからザカリヤがいいよ。」と言いました。すると、エリサベトは「いいえ」と言いました。「この子の名前はヨハネです。」
天使が行った事を覚えていたのです。「どうしてですか。男の子は、お父さんの名前をもらうのが普通なのに。」そう言うと、みんなが、ザカリヤの顔を見つめました。
さて、ザカリヤは、話せないので板に名前を書くことにしました。さて、何と書いたでしょうか。
ザカリヤは、板を持って来て、その板に「その子の名前は、ヨハネ」と書きました。すると、不思議なことにザカリヤは口が利けるようになっのです。そして、心から感謝して、神様を賛美したのです。
大人になったヨハネは、イエス様が神様のお働きを始める前に、「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言って、みんなの心が、イエス様の方に向くように準備をしました。ヨハネの話しを聞いて、神様を信じた人は、ヨルダン川でバプテスマを受けました。それで、ヨハネは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるようになりました。
ずっと昔から、救い主の誕生を計画しておられた神様は、何年も何年も準備をされて、イエス様が産まれるようにしてくださったのです。
このお話しから、2つのことをお話ししたいと思います。
(1)神様を賛美し始めたザカリア
63~64節
「父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」
ザカリヤは、約10ヶ月の間、口を聞くことは出来ませんでしたが、子供が与えられた時、天使が告げたとおり「ヨハネ」と板に書くと、たちまち口が開きました。その時に、最初に口から出た言葉は、神様への賛美でした。
賛美こそ、ひとり子を与えてくださった神様にふさわしいものです。わたしたちも、ザカリアのように心から、主を賛美しましょう。
世界的なピアニストに、アメリカのバイロン・ジャニスという人がいます。
シャニスは、幼い頃に交通事故に遭い、指の感覚を失いました。左の中指だけが動き、右手は全く使えない状態でした。ジャニスに「あなたの手はもう一生使えない」と言われました。普通の人なら落ち込んでしまって立ち上がることは出来なかったかも知れません。
しかし、ジャニスは自分の心の中で、使えない手を見たのではなく、神様が必ずいやしてくださると信じて、自分がピアノを弾く姿を心の中に描いて、祈り続けました。
「神様、私が手を使ってピアノを弾けるようにしてください!」
その祈りを神様が聞いてくださって、奇蹟を起こしてくださったのです。やがて、彼は、大統領のホワイトハウスでもピアノを弾くような世界的なピアニストになったのです。
「どのようにしてこの困難を克服したのですか?」とある人が質問をしたそうです。すると、彼はこのように答えました。
「熱心に祈ると、 神様が私に奇蹟をなしてくださるという信仰が生まれ、それを信じました。問題は私の力では克服することができませんが、ただ祈って神様におゆだねた時、神様がすべての問題を解決してくださり、成し遂げてくださったのです。私はそれが信仰だと思います」
ザカリヤは、自分の口が利けなくなっても、あの時、天使から伝えられたことを忘れませんでした。そして、子どもが与えられた時、御言葉通りに「その子の名は、ザカリヤ」と板に書いたのです。その時、口が利けるようになり、心からの賛美をささげたのです。
64節
「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」
神様は、時が来れば、必ず御言葉を実現してくださるお方です。
ザカリアは、口が開くとすぐに、神様を賛美しました。私達も、御言葉通りに救い主を与えてくださった神様を信じましょう。
そして、心からの賛美と喜びを持って、今年も素晴らしいクリスマスをお迎えしましょう。
(2)イエス様を証しをしたヨハネ
ヨハネ1:6~7
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」
ザカリヤとエリサベトの間に生まれたヨハネは、イエス様の事を紹介して、イエス様こそが救い主ですと証しするために生まれたのです。
今年の11月23日は、何十年に一度のスーパームーンの日でした。教会から帰る途中、新会堂によって、橋の上からスーパームーンを見ました。そして、7階のアパートに上がって見ようとドキドキしながら上がっていきましたが、月は雲に覆われて、見ることが出来ませんでした。
イエス様とヨハネの関係は、太陽と月のような関係です。太陽は、自分で輝いていますが、月は、そのままでは、輝くことが出来ません。けれども、太陽の光を反射させると、スーパームーンのように美しく輝くことが出来るのです。私たちもヨハネのように、イエス様が救い主です。とイエス様を証して、イエス様の光を輝かしていきたいと思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチは有名な画家です。
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中で最も有名な作品が『最後の晩餐』です。『最後の晩餐』は、何度も重ねて描かれた作品で、そのことが、NHKの特集でも放送されていました。
この絵はイエス様が真ん中に座って、両側に6人ずつ弟子が座り、最後の晩餐の姿を描いたものです。
実は彼は、初めに描いた絵を消してしまいました。それは非常にきれいに描かれていましたが、専門家と友人を呼んでその絵を見せると、すべての人がこう言ったのです。
「ああ美しい〜! 最高にすばらしい絵だ! 特にイエス様が手に持っている銀の杯が光輝いている!あまりにも美しくて、言葉で表現することができない」
このように、誰もがイエス様の手にある銀の杯を誉めたのです。
ダ・ヴィンチはその言葉を聞くと、顔を真っ赤にして絵を全部消してしまいました。
「こんな絵をどうして描いてしまったのだろうか! イエス様に目が行くべきなのに、銀の杯に目が留まってしまうとは! 銀の杯を見せるためにこの絵を描いたのではないのだ!」
こうして彼は初めの絵を消してしまい、今度は銀の杯は目につかないように描きました。
その結果、イエス様の御顔に人々の目が引き寄せられるようになったのです。ダ・ヴィンチはイエス様の栄光を求めました。『最後の晩餐』を主にささげたのです。
ですから、神様がこの作品を通して、ダ・ヴィンチを有名にされたのです!
私たちも自身が誉められないように警戒すべきです。
なぜなら、私たちの人生はすべてにおいてイエス様を讃えるために生かされているからです。
ヨハネ1:6~7
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」
私たちも、自分が褒め称えられるためではなく、救い主イエス様が褒め称えられるように、私たちを主の証し人として用いていただきましょう。
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