みなさんようこそお越し下さいました。今、召天者の御名前が呼ばれました。後で「思い出を語る会」が持たれ、その時にいろいろなお話しを伺うことが出ると思いますが、お一人一人の御名前を伺いながら、その信仰の姿を思い起こしています。
今日の召天者記念礼拝を前にして、先週の月曜日に、國井成実ちゃんの納骨式が行われました。もうすぐ、出産という時に心臓が止まり、2011年2月5日に出産した時にはもう命がありませんでした。次の日に、告別式が行われ、天国に召されていったのです。
何の言葉もかけようが無く、ただ、一緒に涙することしか出来ませんでした。しかし、しばらくして私は、神様は誰よりも成実ちゃんを愛されて、すぐに御側に引き寄せられたのだと思いました。
イエス様は、私たちの事を愛しておられます。それも、私たちの罪のために十字架で命与えて下さるほどに愛しておられるのです。そればかりか、死と罪に打ち勝ち、私たちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。
成実ちゃんや、先程読み上げられた方々とやがて再会できる恵みを覚えて、私たちも最後までイエス・キリストを信じる信仰の旅路をしっかりと歩ませていただきましょう。
この15章は復活の賛歌とも呼ばれる素晴らしい聖書の箇所です。そして、Ⅰコリント15:50~58を読んでいただきましたが、この箇所は、その復活のクライマックスと言っていいほど、復活によって与えられる素晴らしい恵みが語られ、その恵みに感謝して、「主の業に常に励みなさい。」と勧められているところです。
今日の中心の御言葉は、57~58節です。
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 」
神様は、主イエス・キリストの十字架と復活によって私達に勝利を与えてくださいました。ですから、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。」というのです。
では、その勝利とは、どのような勝利でしょうか?
(1)主の再臨の希望
私達、ホーリネス派には、四重の福音という教えがあります。それは、新生、聖化、神癒、再臨という教えです。
私達は、イエス・キリストを救い主と信じて新しく生まれ変わりました。それが「新生」の恵みです。
そして、私達の心に聖霊が満たされる時、私達はイエス・キリストに似た聖潔られたものとされていきます。それを「聖化」と言います。それは、私達に与えられた霊的な恵みですが、神様の恵みはそこにとどまりません。
イエス様は、霊的な救いだけでなく、肉体をも癒やしてくださるお方です。聖書の中には、イエス様によって癒やされた人のことがたくさん書かれていますが、イエス様は今でも、私たちを癒やすことの出来るお方です。
イエス様は、天に帰られる時、再び来られると約束されました。その約束通り、主は再びこの地上に来られるのです。主の「再臨」の時がやって来るのです。その時には、イエス・キリストを信じる者は、天に引き上げられ、栄光に満ちた復活の体が与えられ、永遠に神様と共に住まうことが出来るのです。
50節をご覧ください。
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」
私達の体は、衰えて滅んでしまいます。ですから、このままでは神の国に入る事は出来ません。
日本人の平均寿命は、2016年の調べで男性は80,79歳、女性87,5歳です。ですから、長く生きたとしても100歳を越えるのは難しいかも知れません。
ところが、わたしたちクリスチャンは、主の再臨の時、霊的な救いだけではなく、肉体まで、完全な救いをいただくことができるのです。
20節をご覧ください。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」とあります。
キリストの復活は、やがてイエス・キリストを信じる者が復活する事の保証です。
そして、復活する時には、今の肉体と同じ体によみがえるのではなく、復活した時には、復活の栄光の体が与えられるのです。復活の栄光の体とは、どのような体でしょうか。
それは、イエス様のよみがえりの姿のことを考えるとわかります。
イエス様が、三日の後よみがえられた時、弟子たちは、迫害を恐れて、息を潜めていました。そのに、イエス様が入ってこられましたが、その時は入口から入ってこられたのではありませんでした。戸にはしっかりとカギがかけられていましたが、部屋の中に入り、弟子たちの真ん中に立たれたのです。それは、幽霊のような姿ではありません。
よみがえりのイエス様は、この後、弟子たちと共に食事をし、疑い深いトマスには、十字架のクギ後を差し出しました。そのお体は、この世の次元に捕らわれない栄光の体です。そして、その体は、病気になる事はありません。また、罪を犯す事も、死ぬ事もないのです。
51~53節でパウロは、この神の神秘を語っています。
「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」
イエス・キリストが再び、ラッパの音と共に天から降ってこられる時、わたしたちは瞬く間に、「朽ちるべきものが、朽ちないものを着て、死ぬべきものが死なないものを着る」のです。
まず、すでに信仰をもって死んだ人々が、霊の体に復活し、それから、その時まで生き残っているものが、瞬間的に霊の体に変えられ、イエス様のもとへ携えあげられるのです。
ですから、キリスト者には、死んでから復活する人と、死なないで生きたまま栄光の体に変えられる人がいるのです。
死ぬことなく、天国にいくということは、常識では考えられないことですが、聖書の中には、死ぬことなく天に召された人の事が書かれています。
一人は、エノクです。創世記5:24(P7)には、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」 と書かれています。また、エノクについてヘブライ人への手紙11:5にはこう書かれています。
「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」
もう一人は、エリヤです。
主は、預言者エリヤを竜巻に乗せたまま天にあげられたのです。
Ⅱ列王記2:11(P578)
「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。」と書かれています。
この記事を読む時に、エノクやエリアを神様がどんなに愛しておられたのかということを思わされます。
しかし、それはエノクやエリヤという特別な人たちだけに与えられた特権ではありません。主の再臨の時、その日まで生き残っているすべてのクリスチャンが、栄光の体に変えられて、主のもとに携えあげられるのです。何という恵みでしょうか。
(2)神の賜う勝利
そして、その時に54~55節の御言葉が成就するのです。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」
この「」の御言葉は、イザヤ書25:8の御言葉の引用です。そこには、
「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」とあります。
聖書の御言葉は、必ず成就するのです。主の再臨の時、イエス・キリストを信じる私達に、ここに預言されている「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」という、勝利が与えられるのです。
その勝利は、罪と律法に対する勝利です。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」とあります。イエス・キリストは私達の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。イエス様が十字架で死んで下さった事によって、私達の罪が全て赦され、律法を完成して下さったのです。だから、私達にはイエス・キリストの十字架によって、もうすでに勝利が与えられているのです。
しかし、この地上では、わたしたちは肉体をもって生きていますから、弱さがあり、足りなさがあり、時には失敗をしてしまいます。
ところが、再臨の時には、その救いの業が完全に完成するのです。わたしたちは罪と律法に対する勝利を、神様から賜り、主の元に携えあげられるのです。何という祝福、何という恵みでしょう。それも、私達には何の価値も資格もないのに、ただ一方的な神様の恵みによって与えられるのです。
先程、召天者の御名前が読み上げられましたが、そのお一人お一人が、イエス・キリストの十字架と復活によって、永遠の命が与えられたのです。そして、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちもやがて、天国で再会することが出来るのです。なんという恵みでしょうか。
そこで、パウロは57節で、 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」と心からの感謝を勧めているのです。
私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえられた勝利の主に心から感謝しましょう。
(3)主の業に常に励みなさい
58節
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
パウロは、「わたしの愛する兄弟たち、」と心からの親しみを込めて、こう勧めています。
「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
「動かされないようにしっかり立ち、」というのは、永遠の希望をいだいて、しっかりとこの地上の生活を踏みしめて信仰生活をしなさいということです。
そして、続いてパウロは「主の業に常に励みなさい。」と勧めています。口語訳聖書では「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」と訳されています。
コリントの教会は、いつも議論にばかり走る傾向がありました。
それは、日本も同じではないでしょうか。
ある牧師が、「韓国は祈る教会、アメリカは賛美する教会、ドイツは考える教会、そして日本は議論する教会だ」と言っていました。よく言い当てているなと思いましたが、私達は、本当に全力で主のわざに励んでいるでしょうか。議論ばかりをして、愛の行いやキリストの愛を伝えることをおろそかにしていないでしょうか。
そのように私達に、主は
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と語りかけておられるのです。
今年の6月8日に前任牧師の黒田愛子先生が、92歳で天に召されました。山形南部教会を1959年に開拓され、29年間牧会伝道された、黒田愛子先生は、1924年4月28日誕生され、若い頃小学校の先生をしておられました。結核のため米沢の病院に入院しておられましたが、その時に、米沢興譲教会の牧師田中美男先生が来られたのです。黒田先生は、余命3年と言われ、もう死んでしまいたいと思っていましたが、どうせ死ぬなら、清らかな牧師の姿を見て死のうと思って、その日の集会に出られたのです。その集会で語られた十字架の話しが、黒田先生の心を捕らえたのです。
わたしの罪のために十字架にかかって、三日の後によみがえられたお方がおられる。そのイエス・キリストの福音を聞いた時、心の中にあたたかいものを感じました。それから、その集会に何度も通うようになり、イエス・キリストを心から信じて、1955年5月15日米沢興讓教会で洗礼を受けられその時から生きる希望が与えられたのです。
先生は、病院で出会った夫黒田末松兄と結婚をされましたが、愛する御主人は次の年1956年4月1日に天に召されました。深い悲しみの中にある黒田先生をこのままにしておいてはならないと思った田中美男先生は、黒田先生を、深い悲しみから癒されるために東京の淀橋教会を紹介されたのです。
ところが、何を勘違いしたのか、当時の淀橋教会の牧師小原十三司牧師は、米沢から献身者が送られてきたのだと思い、東京聖書学校に入学させたのです。黒田先生は、そのことを神様の御胸と信じ、真剣に勉強に取り組みました。
そして、東京聖書学校卒業後、1959年に山形に遣わされたのです。小原先生には一つの計算がありました。それは、弾圧の時に散らされていった信徒が集まって、先生を助けてくれると思ったのです。ところが、山形に来てみると、一番頼りにしていた信徒が、どうしてもこの群に集う事が出来ないということが解りました。小原先生は、「もう、帰ろう。」と黒田先生におっしゃいましたが、黒田先生は、わたしは山形に遣わされたのだから、ここで伝道しますとここにとどまる決意をされたそうです。
それからの山形での伝道は、困難なものでした。最初は三畳一間での伝道から始まりました、この美畑町に移ってからも、最初は長屋の六畳二間で、土曜日は土曜学校、日曜日は礼拝のために、一間を片づけて集会が持たれたのです。そのような困難な伝道を、病弱な女性か一人で行うと言うことは、本当に大変だったと思います。
そして、とうとう伝道に行き詰まってどうしようもなくなった時、神様は素晴らしい御業をなさってくださったのです。今はもう天に召された鈴木長右エ門兄が、「先生、教会を建てよう。」と言って、1976年8月に、この会堂が建てられたのです。それは、神様から与えられた、人知をはるかに越えた恵みでした。
先生は、児童伝道に力を入れられ、何人もの子どもたちが救われました。そして、先生が山形を移られて25年も経って、救われる魂が起こされたのも黒田愛子先生の種まきによるものでした。
10月から、教会の前の駐車場をお借りしていますが、その大家さんの奥さんに挨拶に行きましたら、「私は、小学生の頃山形南部教会に行っていました。」と聞いてとても嬉しくなりました。
そのようにして、黒田先生の時代に教会が建て上げられ、御言葉の種蒔きがなされ、教会の土台を黒田先生をはじめ、信仰の先達が作ってこられたのです。
1988年、3月黒田先生は健康上の事もあり、山形南部教会を退かれました。その後、しばらくの休養の後、東京聖書学校で教鞭をとられ、それから2年後、黒田先生は、千葉県の小見川教会に遣わされました。小見川教会で良い働きをされましたが、かつてから病んでおられた病気が悪化し、惜しまれながらも、日本基督教団隠退教職ホーム「信愛荘」に入所されました。その信愛荘でも御言葉を取り次ぐ伝道者として用いられましたが、2016年6月8日、92歳で、立派に57年の伝道生活を全うされて、天に召されたのです。
私たちは、今新会堂建設の途上にあります。その新会堂の土地建物を紹介されたのが、6月5日でした。黒田先生が亡くなる3日前に、この土地建物が紹介されて、黒田先生は天に召されたのです。
黒田愛子先生は、この山形南部全域に福音を伝えようと、山形南部教会(山形南部伝道所)という名前をつけられたと伺いましたが、今新会堂が建てられようとしている白山は山形南部の中心にです。黒田先生が「山形南部の伝道を任せたよ。」とバトンを渡されたように感じています。
57~58節
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 」
神様は、主イエス・キリストの十字架と復活によって私達に勝利を与えてくださいました。私たちも、それぞれ置かれた立場で、その勝利を賜る神様に感謝をして、「動かされないようにしっかり立ち」「全力を尽くして主の業に励む」ものとさせていただきましょう。
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