出エジプト記20:22~契約の書が書かれていて、日々の生活の中で神様に従うべき事が、事細かに書かれています。新共同訳聖書では、聖書の表題に番号が書かれていますが、今日は、出エジプト23:1~13節にある(11)~(15)までの所から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は、12節です。
「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」
この御言葉を中心に、出エジプト23:1~13を3つの分けて御言葉を取り次ぎます。
(1)裁判における正しい定め
「1 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。2 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。:3 また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」
この律法は、裁判に関するものです。裁判での証人は、悪人からの圧力があったとしても、その圧力に屈すること無く、真実を証言しなければなりません。また、多数の者からの圧力があったとしても、真実を証言すべきです。
また、弱い人をかばって、真実を曲げるようなことがあってはなりません。
もちろん、弱い人へのあわれみの心は大切です。聖書は一貫して、弱い人への配慮を教えています。だからと言って、弱い人が罪を犯しているのに、それを曲げてしまうようなことがあってはならないというのです。証人は、真実を語らなければならないのです。
そして、8節には、賄賂をもらうことも厳しく禁じられています。
「あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。」
このモーセの時代から、賄賂があったのかと思うと、人間の罪深さを知らされます。賄賂は、人の正しい判断を鈍らせてしまうからです。
神様は、正しい裁きを行われる方です。だから、悪人からの圧力があったとしても正しい裁きをしなければなりません。また、弱い人の裁きを行う時にも、情に流されて、弱い人をかばって、真実を曲げるようなことがあってはなりません。もちろん、賄賂をもらうような事があってはならないのです。
神様は、正しい裁きを行う、聖なるお方だからです。私たちは、最後にこの聖なるお方の前に立って、最後の審判を受けなければならないのです。
ユダヤ人のラビが大病にかかり、死を宣告された時に、彼は大泣きしました。弟子たちが驚いてその理由を聞くと、
「わたしがこの世の王者の前に出るのであったら、彼は、今日はあって明日を知らぬ身だから、その怒りも、ほんのつかの間に過ぎない。あるいは、彼のために刑務所に入れられたとしても、永遠にそこにとどまるわけではない。たとい殺されたからといって、ただ肉の命のことである。
しかし、わたしが王の王なる神の御前に出る時、彼の御怒りに触れたならば、誰がこれを解いてくれるであろう。彼がもしわたしを刑務所に入れたならば、わたしはいつまでもそこにとどめられるだろう。そして、彼がもしわたしを殺したならば、わたしは限りなく殺されなければならない。それを思えば、わたしが泣くのは当然のことではないか。」と答えたというのです。
そのように、人による一時的なこの世の裁きではなく、神による最後の審判をくだされる日がやって来るのです。神様は、私たちのすべてを見ておられます、ですから、ここに記されているように、いつ、どこで、だれに見られても良いように、正しい生活をさせていただきましょう。
(2)動物に対する正しい定め
4~5節には、動物に対しても、真実を尽くすようにとの命令が書かれています。
「4 あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。5 もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」
敵の家畜であっても、その家畜が道に迷っているならば、その持ち主の元に返すこと、また敵ののろばが、荷物の下に倒れているのを見つけたら、その敵と共にそのろばも助けてやりなさいというのです。
そのように聖書には、敵をも愛する愛が、命じられています。
箴言25:21~22(P1024)
「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。22 こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」
イエス様はマタイ5:43~44(P8)でこうおっしゃっておられます。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
このように、自分の敵を愛するという素晴らしい教えが、旧約聖書の時代から新約聖書にいたるまで、貫かれているのです。
昔、群馬県前橋市で、大火事が起こりました。
その時、4人の男たちが「住吉屋(すみよしや)が火元である」と警察に証言したのです。住吉屋の主人、宮内文作(みやうちぶんさく)さんは、「自分は家にいたから出火していない」と答えましたが、警察は信じてくれません。幸い、近所の女の子の証言によって有罪を免れたものの、うわさを信じる町の人々によって、町を追われてしまったのです。
宮内さんの心は収まりません。「あの4人のために、人生はめちゃくちゃになった」と憎しみと恨みでいっぱいでした。
そんな時、笛木角太郎(ふえきかくたろう)という伝道者が彼を訪ねて来ました。
「今度のことは、大変でしたね。私は何の援助もできませんが」と言って、彼に1冊の聖書を渡しました。その日から、宮内さんは聖書を読み始めました。読んでいるうちに、イエス様の言葉と、その生き方に感動しました。「恨みを持ち続けながら生きるのも一生、それを赦して心軽やかに生きるのも一生」と、宮内さんは徐々に4人の人たちを赦せるようになってきたのです。
それから14年たったある日のことです。「会いたがっている人がいる」と言われて病院に行くと、危篤状態のおばあさんがいました。そしてこう言ったのです。
「死ぬ前どうしても、あなたに伝えたいのです。14年前の火事は、あなたの隣に住んでいた人に恨みがあって、私が火をつけたのです。あなたにはひどいことしました。あなたに謝らなくては、死にきれません」
宮内さんはこう答えました。
「おばあさん。あの事件のおかげで、私はイエス様の恵みの世界、赦しの世界、愛の世界を知ることができました。今は心が平安で、細々とだが孤児院で子どもたちの世話をさせていただいています。 あなたのおかげで導かれたと言っても、過言ではありません。だから、今ではむしろ、感謝しています」
宮内さんはそのおばあさんに、イエス・キリストが自分たちのために、十字架で身代わりに死んでくださったことを話しました。すると、おばあさんはイエス様を信じたのです。そして、穏やかに天に召されていったのです。
もう一度4~5節をご覧ください。
「4 あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。5 もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」
神様は、敵に対しても、また、敵の家畜に対しても愛を現すように命じられています。神様の愛が、わたしを救い、人を造り変えるのです。
一番目に、裁判における正しい定めについてお話をしました。神様は、分け隔てをなさらない、聖く正しいお方です。
二番目に、動物における定めを通して、敵や敵の家畜に対する愛についてお話ししました。神様の愛は、敵だけではなく、敵の家畜にまで及ぶ、完全な愛です。その愛が、イエス・キリストの十字架に現されています。
神様は、どんなに小さな罪も許されず、罪に対しては必ず裁かれる、聖いお方です。
しかし、それと同時に、すべての罪を赦される愛のお方です。一方では、罪を赦されない義のお方、もう一方ではすべての罪を赦す愛のお方、それは、正反対のような気がしますが、その神様の義と、愛が一つになる恵みの場所が、イエス・キリストの十字架です。私たちの心の中には罪があります。そして、「罪の支払う報酬は死です。」とあるように罪の罰を受けなければなりません。しかし、その全人類のすべての罪の罰を、あの十字架で負ってくださり、十字架で命を捨てて下さったのです。その十字架に、私たちに対する愛が明らかにされたのです。
パウロはローマの信徒への手紙5:8~9で、神の義と愛についてこう言っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
クリスチャンの詩人、八木重吉がイエス・キリストについてこう言っています。
「イエスという人は、時々、非常に、無理な、到底人間に出来ぬようなことを人に要求しているように見えます。それについて、わたしは長い間疑いがはれなかった。
しかし、だんだんわかってくるようです。つまり、イエス様は、右の手に光を持ち、左の手に救いをもっていられたのだと思います。右の手で、わたしをすっかり照らして、わたしらに自分の(罪深い)底を見させ、自分とはこんな(に罪深い)ものだということを知らせ、それから、右の手で救いをとってくださる。『汝の信仰、汝を救えり』という言葉が味わえるのだと信じます。・・・」
神様は、イエス様の十字架によって義と愛を一つにして、私たちを救ってくださったのです。その祝福に感謝して恵みの中を歩ませていただきましょう。
(3)安息日と安息の年
10~11節には、安息年についてのことが書かれています。
「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。」
六年間土地を耕して自分の土地に種を蒔いて、産物を取り、七年目にはそれを休ませて、貧しい人や野の獣に食べさせるということは、今のように、肥料を入れずに、自然のまま土地を用いていたモーセの時代には、賢いやり方だったようです。
六年間使った土地は、七年目には休ませなければなりませんでした。その年には畑に種を蒔くことも、ぶどうの枝を下ろすことも、落ち穂から生えた者を借り入れることも禁じられていました。それは、民の貧しい人々と野の獣に、畑にある物を食べさせるため、また土地と労働者を休ませるためでした。
そして、12~13節には安息日の定めが書かれています。
「12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。」
神様は、十戒で安息日を定めておられます。出エジプト記20:8~11(P126)
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
安息日というのは、神様が天地創造の後、7日目に安息されたこと、また、神様がイスラエルをエジプトから救い出されたこと(申命記23:25)を記念して定められた律法です。イスラエルでは、現在の金曜日の午後6時から土曜日の午後6時までをさしています。
この愛息日は、全ての仕事を休んで、天地万物を造られ、イスラエルの民を救ってくださった神様を愛し、礼拝する日です。
20:8には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」と書かれています。聖別せよというのは、神様のために特別に大切な日にしなさいという意味です。神様は、安息日を、礼拝する特別な日として定められて、天地創造をされ、私たちを救ってくださった神様を喜び祝うことを望んでおられるのです。
ウェストミンスターの小教理問答の、最初の質問は「人のおもな目的は何ですか」という質問です。その答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」です。「私たちが、神を喜ぶこと」が、人生の大きな目的であるというのです。「喜ぶ」ということには、休息をとってリフレッシュして与えられる喜びです。
私たちは、私たちを造ってくださった神様を心から礼拝することによって、本当の自分を取り戻し、豊かな安らぎと休息が与えられるのです。
私たちは、この日を体を休めるだけなく、神様の前に出て、心を休ませます。
一週間、神様が守ってくださったことに、心からの感謝をささげます。そして、神様の御言葉に静かに耳を傾けます。
すると、神様がどんなに自分のことを愛してくださっているかが分かり、次の一週間に向かって新しい力が湧いてくるのです。それが、神様が私たちに与えてくださる祝福です。神様は、私たちを祝福しようと、待っておられるのです。
使徒ヨハネにはたくさんの伝説がありますが、その中にこのような話があります。
愛の人ヨハネと呼ばれた十二弟子の一人のヨハネは、晩年子供たちを大切にし、愛したようです。
ある日、ヨハネが、聖日に子供たちを相手に遊んでいました。すると、それを見ていたある訪問者が、「キリストの使徒たる者が、聖日にそのようなことをしていて良いのですか。」とヨハネに言いました。すると、ヨハネはとんだ邪魔者が入ってきたと言うような顔をしてこういったそうです。
「王の手にある弓でも、時々つるをはずさなければ、弾力を失って役に立たなくなってしうものです。同じように、人も時々その張りつめた気をゆるめて、無邪気に安息する必要があるのです。」
どうか、安息日に、主と豊かな交わりをして、たくさんの祝福をいただいてください。そして、神様からの安息をいただいて、一週間の歩みへと遣わされて下さい。
安息日が、そのような安息の日、祝福の日であることを心から祈ります。
ウィリアム・ブースは、安息日の守り方についてこのように語っています。
第一、その日は自ら不必要な仕事を休み、他人にも同じように休ませること
第二、その日には、公においても、私的においても、礼拝に時を用いること
第三、その日には、特に他人に親切を行うことに心がけ、兄弟姉妹の霊と肉のために心 を尽くすこと
このようにして、神様を愛し、人を愛して、安息日を過ごすことを主は願っておられます。
聖日は、主が定められた日です。神様のもとで肉体的にも霊的にも豊かな安らぎをいただきましょう。
また、私たちを造り、私たちを救ってくださった神様に心からの礼拝を献げましょう。 そして、神様からの愛に満たされて、私たちの隣人を愛し、仕える者とさせていただきましょう。
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