イスラエルの民は、シナイ山のふもとに宿営しました。その時に、神様はモーセをシナイ山に呼んで、十戒を与えられたのです。
十戒は、二枚の石の板に刻まれました。前半は、神様と人との関係について、後半は、人と人との関係の戒めが書かれています。
招詞で読んでいただきましたが、マタイ23:36~39でイエス様は、この戒めを『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と『隣人を自分のように愛しなさい。』という二つの言葉で表しています。今日は、この後半の、『隣人を自分のように愛しなさい。』という後半の部分です。
今日の中心の御言葉は、12節です。
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
出エジプト20には、モーセの十戒が書かれていますが、一戒から四戒までは、神様に対する人間の戒めが書かれています。そして、今日読んでいただいた、六戒から十戒には、人間の人間に対する戒めが書かれています。
ある人は、第五戒めは、両者の架け橋であると言っています。
私は、神学校の時、旧約神学を島 隆三先生に教えていただきましたが、島先生はちょうどこの十戒の授業の前の日に、お風呂に入りながら、十戒について考えておられたそうです。風呂のタイルを眺めていると、縦のタイルと横のタイルがありますが、縦のタイルは、一戒から五戒めで、横の戒めは、五戒めから十戒で、五戒が縦と横で重なっているように見えたそうです。十戒は、二枚の石の板に書かれましたが、その二枚が、重なる場所が、この五戒の意味だと教えて下さいました。
今日は、この御言葉を中心に、モーセの十戒の後半の部分から御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)あなたの父母を敬え(五戒)
「あなたの父母を敬え。」 とありますが、この戒めは天のお父様に対する戒めでもあり、肉親の父母に対する戒めでもあるからです。
あのタイルをのことを考えてください。縦のタイルのように、人が神様から愛され、神様を愛する時、横のタイルのように人を愛すことが出来るのです。
天の父なる神様は、私たちを一方的な愛で愛してくださっています。同じように、産まれたばかりの赤ちゃんは、何もすることが出来ませんが、両親は、かけがえのない大切な存在として、惜しまずに我が子を愛します。
そのように、愛されて今があるのですから、私たちも、両親に従い、敬わなければならないのです。両親を敬う者には、「主が与えられる土地に長生きができる。」と祝福が約束されています。
エフェソ6:1~3(P359)
「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。」
当時、神様の祝福が、長生きをすることや、子どもが多く与えられることに現されていました。
私たちが、神様からの愛に満たされて、両親を愛していく時、心の中に、神と人とに従順で、敬い、忍耐強く、寛容な心が養われていくのです。
アフリカ宣教で有名なリビングストンは、母がジール語(スコットランドの方言)を最も理解できるので、その言葉で、聖書を読んで聞かせたいばかりに、自ら進んで、ジール語を学んで、母親に聖書を読んで聞かれてあげたそうです。
そのように、私たちも、神様が私たちを愛してくださっている愛で、父と母を愛する者とさせていただきましょう。
(2)殺してはならない。(六戒)
人間というのは、恐ろしい事に、互いに殺し合う歴史を繰り返してきました。今は、バングラデシュでテロが起こり、大変なことになっていますが、新聞やニュースで、毎日、戦争や殺人事件の全くない日を見出すことが難しいほどです。
しかし、聖書は「殺してはならない。」とはっきり命じています。それは、人間が神の形に造られていて、人間の命は尊いものだからです。
ですから、人間は、他の人の命も、また自分の命もどんなことがあっても奪うことは、許されないのです。神様だけが、人に命を与え、人の命の終わらせる権威を持っておられるお方です。
神様は、一人ひとりをかけがえのない大切な存在として造られ、愛しておられます。そして、一人ひとりに目的をもっておられます。人を殺すということは、その人に対する目的をすべて奪ってしまうことになってしまう大変な罪です。
新約聖書で、イエス様は、更に進んで、この律法にはもっと深い意味があることを教えておられます。
マタイ5:21~22
「21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
イエス様は、他人に対して、「腹を立てる者」「ばかという者」は、すべて殺人犯と等しく、裁かれるというのです。その聖書の光に照らされる時、誰が、主の前に立つことができるでしょうか。聖い神様の御前では、すべての人が罪人なのです。
(3)姦淫してはならない(七戒)
神様は、人間を造られる時に、「男と女に造られ」祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と言われました。ですから、夫婦が結婚して子どもを産むということは、神様から与えられた素晴らしい祝福です。
しかし、創世記2:24には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」 と書かれています。結婚とは、一人の人が父母を離れて、一人の妻と結ばれ、二人が一体となることです。
性の関係は、この御言葉のように夫婦の間だけで祝福されるもので、婚前交渉や、結婚後の配偶者以外の性行為は、すべて神様の御前に、姦淫の罪となるのです。
イエス様は、この律法に対しても、更に深い意味が含まれていることを語っておられます。
「27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
イエス様は、「みだらな思いで他人の妻を見る者は」「すでに心の中で姦淫の罪を犯したのである。」とおっしゃいました。
私の神学校の先輩のK先生は、大学時代に友人に誘われて、教会に行くようになりました。教会では、あたたかく迎えて下さり、教会に毎週のように通うようになりました。
ところが、ある日、あなたは罪人であることを認めますか?と聞かれて大変ショックを受けました。K先生は、とてもやさしく温和な方です。それに、国立大学の医学部で勉強していましたから大変優秀で、誰からも羨望の目で見られていました。
そのk先生が、罪人だと言われたのです。勿論、それまでに警察に捕まるようなことはしたことがありません。道徳的にも正しい道を歩んできました。「私は、罪人ではない。」とどうしても自分の罪を認めることが出来なかったのです。
ところが、ある日、マタイ5:27の御言葉を読んだのです。
「27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
この御言葉に照らされた時に、自分は本当に罪人だということが示されたのです。そして、罪を告白して、イエス・キリストを信じた時、十字架の血潮によって罪が赦されたと、心の中に何とも言えない平安が与えられたのです。
そして、医者になって人の病気を癒やすことも大切な事ですが、それよりも素晴らしい人の心を癒やす牧師になろうと献身をして、医師免許を取ってから、すべてを献げて、神学校に入り、今、牧師をしておられます。
イエス・キリストの十字架だけが、人を救い、人の罪を聖め、人に永遠の命を与えるのです。
今は、本当に誘惑のあふれた時代です。そのような時代だからこそ、私たちクリスチャンは、特に気を付けて、イエス・キリストの十字架の血潮によって聖い歩みをして、神様の祝福の中を歩ませていただきましょう。
Ⅱテモテ2:21~22(P393)
「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。22 若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
ここには、自分を聖める者を、尊い働きのために、主が用いてくださることが約束されています。
ヨセフは、ポテファルの妻から執拗な誘惑を受けますが、その誘惑を退けました。その結果、牢屋に入れられることになってしまいますが、最後には、エジプトを支配する者となって、神様に用いられたのです。
神様は、聖い器を用いられます。私たちも、情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求め、正義と信仰と愛と平和を追い求めて、神様に用いられる器とさせていただきましょう。
(4) 盗んではならない。(八戒)
「盗んではならない。」とありますが、それは、いくつかの段階に分けることが出来ると思います。
第一は、他人のものであると知っていながら、意識的に盗む場合があります。泥棒、すり、万引き、詐欺などです。
第二は、他人のものを借りっぱなしで忘れてしまい、返さない場合があります。私たちの机の中に、借りっぱなしで、返していない本や、CD等はないでしょうか。他人からの借り物は、他人のものです。返して償わなければならないのです。
三番目は、神様のものを盗む罪です。
ヨシュア記7章には、アカンの罪について書かれています。イスラエルがエリコの町を陥落したとき、神様は、すべてのものを滅ぼしつくすように命じられました。ところが、アカンは、どうしても欲しいものがあり、それを隠して持ち帰ったのです。そのことを知った、神様は、アカンを裁かれ殺されてしまいます。
また、マラキ書では、十分の一の捧げものをする者には、天の窓を開いて祝福を与えると書かれていますが、その前に、十分の一の捧げないのは、神のものを盗んでいると書かれています。なぜ、神様は、そのように厳しく、言われるのでしょうか。それは、すべてのものが、神様から与えられたものだからです。
クリスチャンにとって、必要なものは、すべて神様が与えて下さいます。ですから、私たちは、すべてを神様のお献げして、他人のものを盗む生き方ではなく、むしろ他人に与える生き方をさせていただきましょう。
(5)隣人に関して偽証してはならない。(九戒)
「隣人に関して偽証してはならない。」というのは、法廷で使われる言葉ですが、分かりやすく言うならば、「ウソをついてはいけない。」ということです。日本では、ウソも方便という言葉があるように、偽りを言うことが、軽く考えられてきました。
しかし、高校時代、キリスト教独立学園の創設者、鈴木弼吉先生から、ウソというのは、他の罪の3倍の罪を含んでいると教えられました。
まず、ウソをつくということは、ウソをつかなければならないような悪いことをしているからです。悪いことをしていなければ、ウソをつく必要はないのです。
次に、ウソをつくという罪です。正しいことを偽って語ることは大きな罪です。
そして、三番目は、そのウソを隠すために、罪を犯したり、偽りを続けていくという罪です。
それでは、クリスチャンはどのような生き方をしていけば良いのでしょうか。
エフェソ4:25(P357)
「25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」 と書かれています。
たとえ、この世の中は、偽りだらけであったとしても、私たちは真実を語るのです。なぜなら、神様が、すべてをご存じだからです。
ダビデは、詩編でこう祈っています。
「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。」(詩編141編3節)
もし、偽りを言ってしまったら、罪を悔い改めましょう。イエス様は、その罪のために十字架にかかって下さったのです。そして、十字架の血潮によって、私たちの心と口の言葉を聖めていただきましょう。
(6) 隣人の家を欲してはならない。(十戒)
六番目から九番目の戒めは、隣人に対する、表面に表れる戒めでした。(殺人、姦淫、盗み、偽証)もちろん、これらは、内的な罪も含むものですが、
最後の十戒には、費用面に表れない、内的な罪についてだけ語っています。「隣人の家を欲してはならない。」というむさぼりの罪を禁じているのです。
人間には、他人の内側まで、知ることはできません。ですから、人間の作った法律は、人の内側までも裁くことができません。しかし。この戒めは、人の内側を問題にしているのです。なぜなら、神様は人の内側まですべてご存じの方だからです。この神様だけが、人の内側までも裁くことができるお方なのです。
神様は 「隣人の家を欲してはならない。」 と命じられています。なぜなら、神様は私たちを愛してくださり、必要なすべての物を与えてくださるお方だからです。
イエス様は、山上の説教でこうおっしゃいました。
マタイ6:31~33
「31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
神様は、私たちの必要をご存じで、すべてを必要な時に与えてくださるお方です。ですから、人のものを欲しがるのではなく、今与えられているものを感謝して、神様に従って行きましょう。
私たちは、十戒を学んできましたが、自分の力や努力で、この十戒めをすべて守ることが出来る人は、誰一人いません。すべての人は罪人だからです。神様が十戒を与えられたのは、私たちが律法を守ることが出来ない罪人であるということを示すためでした。
しかし。この十戒をすべて守った方がおられるのです。それは、神の子であられるイエス・キリストただお一人だけです。そして、この完全なお方、神の御子が、私たちの罪のために十字架にかかって下さったのです。その十字架の愛に満たされる時、はじめて、私たちは、十字架の贖いと、神の愛によってこの戒めを守る、聖い者へと変えられていくのです。
キュックリッヒ(1897〜1976年)というドイツ人の婦人宣教師がおられました。
日本での先駆的な保育事業を行いました。戦後間もなく、戦争孤児たちのための孤児院や、また社会福祉施設などを設立されました。
このようにキュックリッヒ宣教師は、日本のキリスト教伝道と幼児教育に多大の貢献をされ、1976年、79歳で昇天するまで、日本を愛し、日本のために、その生涯を捧げ尽くしました。
キュックリッヒ宣教師はなぜそのような生涯を送るようになったのでしょうか?
彼女は牧師の家庭に生まれ育ちましたが、実の母親は彼女が少女時代に亡くなりました。そこで父親はしばらくして、再婚して新しいお母さんがやってきました。新しいお母さんは、何とか幼いキュックリッヒを神様に喜ばれる子どもに育てようと、いろいろな規則を決めて、正しいことと悪いことを教えるために、厳しくしつけました。
けれども、キュックリッヒは、どうしてもそんな新しいお母さんが好きになれませんでした。そのためにことごとく義母に反抗し、嫌がらせをしては困らせるような生活を続けたのです。
ところがある日のことです。彼女がお母さんの部屋の前を通った時に、部屋の中から祈りの声が聞こえてきたのです。しかも、泣きながら祈っているのです。そっと近づいて行って、ドアのところに耳を傾けると、お母さんは、何と自分にことごとく反抗する娘のために、神様にとりなし祈っていたのです。
「この娘の上に豊かな恵みを注いでください。この娘を立派な人間に成長させてください。そしてやがてこの子が、神様のために働く人間になるようにしてください」涙をもって主の前にとりなし祈っていたのです。
それを聞いて、キュックリッヒも泣きました。そしてお母さんに今までのことを心からお詫びしました。
その日から、キュックリッヒの生き方はまったく変わりました。彼女はその生涯を神に捧げて、神に仕える人とへと変えられたのです。キュックリッヒは、厳しいしつけによって、正しい人になることはできませんでしたが、新しいお母さんの愛によって、素晴らしい人へと造り変えられたのです。
十戒を学んできましたが、私たちは自分の力では、これらの戒めを守る言葉出来ません。しかし、そのような私たちの罪のために、この十戒を完全に守られた聖い神の子、イエス様が十字架にかかって下さったのです。このイエス様の十字架の愛だけがわたしたちを造り変え、この戒めを守る聖い器に変えてくださるのです。
このイエス様を信じ、心の中にイエス様をお迎えして、この十戒に現されている、聖い歩みをさせていただきましょう。
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