今日は、小寺 義兄のお証しを感謝します。私たちは岩沼で5年間MSR+のボランティアの働きをさせていただいていますが、義くんが、岩沼の地を愛し、MSR+に常駐する時に、岩沼市民になって、ついに、今年は、岩沼市役所の職員に合格して、岩沼に定住することになりました。そのような、義くんの姿が地域の人に信頼され、MSR+の働きも5年で一区切りをという話もありましたが、今年から、ボランティア中心の働きから、宣教の働きへ力を入れようとMSR+2の働きが始まりました。
ぜひ、義君とMSR+の働きのためにお祈りをお願いします。
あの東日本大震災の時、多くの人が津波によって亡くなりました。ある人は、自分の家族や親戚を失いました。また、ある人は、目の前で、近所の人が亡くなったのを見たそうです。そして、5年経った今でも、あの日のことを思い出して、苦しんでいる人がいます。人が亡くなるということは、本当に大きな悲しみです。
けれども、私たちに永遠の命を与えて下さる方がおられるのです。誰でしょう。イエス様です。イエス様だけが、私たちに永遠の命を与えてくださるお方です。
イエス様はこうおっしゃいました。今日の中心御言葉は、25節です
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
今日は、イエス様がとっても愛していたラザロが死んでしまった時のお話しです。
ユダヤのベタニヤという村に、マルタとマリアとラザロという、3人の姉兄が住んでいました。イエス様はこの3人を、とっても愛しておられ、近くに行った時は、いつもこの家によって、一緒に食事をしたり、お話しをしたりして過ごしていました。
ある日のことです。大変なことが起きました。弟のラザロが重い病気になってしまったのです。マルタとマリヤは、「イエス様だったら直して下さるに違いない。」と思って、使いの者をイエス様の所に送りました。「イエス様すぐに来てください。ラザロが病気で死にそうです。」ところが、イエス様は、こうおっしゃいました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)
その後で、イエス様はどうされたでしょうか?
弟子たちは、きっと、すぐにマルタやマリアがいるベタニヤに向かうだろうと思いました。ところが、イエス様は、それから2日間も、その場所にとどまられたのです。そうしているうちに、ラザロの病気は、どんどん悪くなり、とうとう、死んでしまったのです。
イエス様が、ベタニヤ村にやっと付いた時には、ラザロが死んで、もう4日も経っていました。そこには、ラザロの死を悲しんで、大勢の人々が集まっていました。
マルタは、イエス様が来られると、「どうして、もっと早く来て下さらなかったのですか?イエス様が、ここにいてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに」と言いました。
するとイエス様は、マルタに言いました。「あなたの兄弟は、生き返ります。」
マルタは、そう言われても、すぐには信じられませんでした。そこで、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。
すると、イエス様は、こう言われました。今日の中心の御言葉です。25節
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・このことを信じるか。」
すると、マルタは、「はい、あなたを信じています。」と言いました。
イエス様が、マリアの所に行くと、マリアはイエス様の足元にひざまずいて、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」 と言って泣きました。そして、それを見ていたユダヤ人たちも泣きました。みんなが泣いている姿を見て、イエス様も、涙を流されたのです。
それから、イエス様は、大勢の村人と一緒に、ラザロのお墓までやって来ました。お墓は洞窟になっていて、入り口は大きな石でふさがれていました。
そのお墓を見たイエス様は、どうなさったでしょうか?
イエス様は、そのお墓を御覧になると、「その石を取りのけなさい」とおっしゃいました。
すると、マルタは、言いました。「イエス様、もう4日も経っていますから、においがします。」
それを聞くと、イエス様は、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」 とおっしゃいました。
イエス様はお祈りをしました。「神様、いつもわたしのお祈りを聞いてくださってありがとうございます。今ここにいる人たちが、私のことを信じることが出来るように、どうぞラザロを生き返らせてください。」それから、イエス様は大声でおっしゃいました。「ラザロ、出て来なさい」
するとどうなったでしょう。
死んでいたラザロが、顔や手や足にきれを巻いたまま、お墓から出てきたのです。みんなは、「びっくりぽん。」本当に驚いてしまいました。こうして、ここにいたたくさんの人たちが、イエス様を信じました。
この話しから、3つの事をお話ししたいと思います。
(1)イエスは涙を流された
35節
「イエスは涙を流された。」
この御言葉は、新約聖書の1節の中で一番短い一節です。けれども、この一節にイエス様の愛が現されているのです。36節で「ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。」と言っています。
イエス様は、この時、マリアが愛する兄弟ラザロを失ってどんなに悲しんでおられるかをご存じでした。そして、そのマリアの悲しみと寄り添うかのように、イエスは涙を流されたのです。
イエス様は、私たちが、悲しんでいる時、涙を流している時、私たちの悲しみや涙をご存じのお方です。そして、私たちと一緒に涙を流して下さる愛のお方です。
昔、富士山のふもとにある山中湖でYMCAの大学生キャンプが行われました。そこに、聖公会の高瀬恒徳牧師が招かれて、御用をされました。
その時に、参加した学生が、結婚をしました。そして、これから幸せな家庭を築こうとしてたその時に、御主人が急病のために亡くなってしまったのです。
高瀬牧師は、その時、告別式で感話をのべてくださいとお願いされました。ところが、夫を失って、悲しみに沈んでいる、奥さんや家族に対して、慰めることができる言葉はなにもありませんでした。ただ、ひと言だけ、こう話したそうです。
「わたしには、何の慰めの言葉もありません。ただ、皆様と一緒に泣くことしかできません。ただ、一つご紹介したいことがあります。それは、聖書の中に、兄弟が死んで悲しみに沈んでいる遺族を御覧になった主イエス様が、「涙を流された。」と書かれていることです。主イエス様は、悲しむ者のために、共に涙を流しておられるのです。」
それを聞くと、若い未亡人は「先生、それで十分です。ああ、イエス様が共に泣いていて下さる。」と言って、その愛に包まれるように、彼女に平安が訪れたというのです。
「イエスは涙を流された。」イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかろうとしておられました。ですから、この時、誰よりも、愛する兄弟ラザロが死んでしまった、マルタやマリアの気持ちを知って、一緒に涙を流されたのです。
イエス様は、私たちの苦しみや悲しみをすべてご存じのお方です。そして、私たちが涙を流す時、イエス様も一緒に涙を流して下さる愛のお方です。そして、そのイエス様は、悲しみを賛美に、悲しみの涙を、喜びの涙に変えてくださるお方なのです。
(2)その石を取りのけなさい
39節
:「イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。」
イエス様が、お墓に行った時、お墓には、大きな石でふたがしていました。イエス様は、その大きな石を取りのけなさいとおっしゃいました。「大きな石」って何でしょうか。それは、イエス様が、死んだ人を生き返らせることが出来ないという不信仰の石です。
イエス様は、ベタニアに来られた時、マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
イエス様が、すぐに来てくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに。でも、死んでしまったらおしまいです。」とマルタもマリアも思ったのです。それは、二人の心の中に不信仰という、大きな石があったからです。
私たちの心の中に、そのような大きな石が無いでしょうか。「イエス様、あなたには何でもおできになります。でも、これだけは、あなたでも無理でしょう。」 と不信仰の石が、私たちの心の中にありませんか。
イエス様は、「その石を取りのけなさい」とおっしゃいました。そのイエス様は、今日、私たちにも「その不信仰の石を取りのけなさい。」と語りかけておられるのではないでしょうか。
イエス様には、何でもできないことはありません。イエス様は、死んだ人をも生き返らせることの出来るお方ですから、何でもできるお方です。心にある不信仰という石を取り除いて、罪と死に打ち勝たれたイエス様を心から信じ、お従いしていきましょう。
(3)イエス様こそが、復活であり命である
25~26節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」とおっしゃいました。
この御言葉のとおり、イエス様は、十字架にかかられた後、墓の中にほうむられましたが、死に打ち勝ち、罪に打ち勝って、よみがえられたのです。
神の子であるイエス様だけが、罪に打ち勝ち、死に打ち勝ってよみがえられたお方です。そのイエス様を、救い主と信じるだけで、私たちにも永遠の命が与えられるのです。
デーヴィッド・ブレイナードという修道士がいました。彼は、宣教地から病のため自分の国に帰って、ニュージーランドの病院に入院をしました。そこで、死を前にして、友人に手紙を書いたのです。
「わたしは死にそうです。しかし、わたしの心は、死んでいるどころではないのです。わたしは少しの疑いも持っておりません。もし、できるならば一日中、神様を賛美して過ごす事でしょう。わたしの小さな心は、目に見えない御臨在の栄光で、輝いています。そして、わたしの心は、神の喜びで満たされて、感謝に震えているのです。」
と書き残して、輝かしい天国へ召されていったのです。
25~26節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
私たちの罪のために十字架にかかられ、復活されたイエス様は、イエス様を信じる私たちにも永遠の命を与えてくださるお方です。このお方を心から信じて、永遠の命というゴールを目指して、信仰の歩みをさせていただきましょう。
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