今日は、合田正司兄の証しを聞くことが出来、感謝しています。合田くんは、早天に毎朝のように来て、祈りと御言葉で一日を始めておられます。
私も、早天で祈りますが、合田くんは、その前に一人で会堂に行き、神様と一対一で祈りをささげ、賛美をして、二階に上がって、早天で祈るのです。その合田くんの祈祷のリクエストで一番多いのが、職場の人に神様の愛を伝えることが出来るように、良き証し人となけるようにという祈りです。その神様と人とを愛する思いが、合田くんの信仰を支えているのだと思います。
今年の年間聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)です。私たちも神様と人とを愛し、愛のきずなで結ばれて、良き証し人として用いていただきたいと思います。
今日は、ヨハネの第一の手紙を読んでいただきましたがこの手紙は、イエス・キリストの十二弟子の一人のヨハネが書いたものです。
そして、このヨハネの第一の手紙は愛の書簡と呼ばれ愛の教えで満ちています。また、これを書いたヨハネは愛の教えを説いただけではなく実際に愛を行う人でありました。 今日は、このヨハネの手紙を書いた、ヨハネと言う人を通して愛について考えてみたいと思います。
今日の中心の御言葉は10節です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
今朝は、Ⅰヨハネ4:7~12を読んでいただきましたが、「ここに愛がある」という題で、3つに分けて御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)愛することのない者は神を知らない
7~8節
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
7節に「愛は神から出るもので」とあります。
本当の愛は、神様だけにあります。そして、私たちは、その神様に繋がっていなければ、本当の意味で愛し合うことはできないのです。
8節に「愛することのない者は神を知りません。」とあります。
ここで最初にヨハネと言う弟子についてお話したいことは、このヨハネは最初から愛の人ではなかったということです。
oマルコによる福音書1章19~20節にヨハネがイエス様の弟子とされた時のことが記されています。
ある日、ヨハネはゼベダイの子ヤコブといっしょに漁のための網を繕っていました。するとそこへ福音を語りながらガリラヤに来られたイエス様が通りかかられたのです。そして、イエス様が2人をお招きになると2人はすぐにイエス様に従っていきました。 この時にヨハネは父のゼベダイや雇い人、そして自分の生活の手段である船までそこにおいてイエス様に従っていきました。そして、この時以来、ヨハネは一生イエス様に従い続けることになるのです。このようにして、ヨハネはイエス様に従う決心して、
新しい人生を歩みだしました。
しかし、それですぐにヨハネは愛の人に変えられたわけではありませんでした。漁師らしい気性が残っていましたし、自分勝手なところもありました。
oマルコによる福音書3章17節(P65)にこのヨハネのあだ名が記されています。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲスすなわち、雷の子らという名を付けられた。」
イエス様がつけられたあだ名はボアネルゲ「雷の子」というあだ名でした。ヨハネは最初は愛の人とはほど遠い「雷の子」と言うあだ名がつけられたのです。
ヨハネは、イエス様に「ボアネルゲス」「雷の子」というあだ名をつけられますが、このあだ名の通り最初はとても短気な人でした。
そして、ヨハネは「雷の子」と言われる通りの失敗をしてしまったのです。そのことが、ルカによる福音書9章51~59節に記されています。
イエス様が十字架におかかりになる少し前にエルサレムに向かって旅をされました。その途中でサマリヤの町に寄ろうとされましたが、そのサマリヤの人々は、イエス様とイエス様の弟子たちを受け入れようとはしませんでした。その時いっしょにいたヨハネは短気をおこしてしまったのです。
ヨハネは非常に怒って「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」
と言いました。ヨハネは自分たちが受け入れてもらえないことがわかると、「あんなやつは焼き殺してしまいましょう」と怒りを爆発させてしまったのです。このように、ヨハネは短気で怒りっぽい性格の持ち主でした。
oまた、ヨハネは自分さえ良ければ、それで良いという自己中心の心がありました。そのことをマルコによる福音書10章37節(P82)を見ると良くわかります。
ヨハネは、ある日兄弟のヤコブといっしょにイエス様のところに行き、こうお願いしたのです。
「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
ここでヨハネは、イエス様が栄光の座につかれるときに、兄弟のヤコブとわたしをイエス様の次に偉い、左と右につかせてくださいと言っているのです。ヨハネは他の弟子たちを押し退けてでも、自分だけは高い地位につきたいという自分勝手な自己中心の望みを持っていたのです。
わたしたちはどうでしょうか。このヨハネのように短気で怒りっぽい性格や、自己中心の心がないでしょうか。
こんな性格がなければいいのに。けれども自分ではどうすることもできないということがないでしょうか。
しかし、イエス様はそのような自分ではどうすることもできないような生まれながらにして持っている古い性質を全く造り変える事のできるお方なのです。
(2)十字架で愛を現された神
10節にこう書かれています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神様の愛は、神の独り子であるイエス・キリストによって明らかにされました。そして、その愛が最もはっきりと現されたのが、イエス・キリストの十字架です。10節に
「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」
とあります。
「いけにえ」というのは、旧約の時代、罪を犯した人の代わりに傷のないきよい小羊が祭壇で全焼のいけにえとしてささげられたのです。その小羊のようにイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さったのです。
イエス・キリストが十字架にかかられた時、イエス様を愛する人はほとんどいませんでした。弟子たちは、イエス様を裏切って逃げ、ファリサイ人や律法学者たちは、イエス様にいばらの冠をかぶらせ、石を投げ、むち打ち、十字架につけたのです。
しかし、イエス・キリストは、そのような自分を裏切った者、また、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれたのです。
イエス・キリストは、自分を十字架につけ、あざけっている人々を前に、こう祈られました。
ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエス・キリストは、自分を十字架につけた人々のために、とりなしの祈りをされたのです。そして、それは当時のユダヤ人たちだけのものではありません。全人類の罪のためにあの十字架上でとりなしの祈りをされたのです。
「ここに愛があります。」
ヨハネは短気で怒りっぽく、自己中心の人でしたが、彼を根本から変える大きな出来事が起こったのです。
それはイエス様があのカルバリの十字架につけられたときのことです。
イエス様が十字架に架かられたとき弟子たちはイエス様を裏切って逃げていきましたが、このヨハネだけは、4人の女達と一緒に十字架の側にいました。けれども、ヨハネも十字架を前にして何もすることができなかったのです。その時に、イエス様は、イエス様の母マリヤとヨハネとがそこにおられるのをご覧になってこういわれました。
(ヨハネ19章26~27節)をお開き下さい。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
イエス様は、十字架上の大変な苦しみのなかでも、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」と母マリヤとヨハネの事をいたわり、互いに愛し合うことを勧められたのです。この時、ヨハネはイエス様がどんなに自分のことを愛して下さっているかを感じたにちがいありません。
イエス様の十字架にこそ、神様の限り無い愛が現されています。イエス様は私たちを救って下さるために、十字架に架かって下さったのです。命を与えて下さるほどに私たちの事を愛しておられるのです。
先週の木曜日に、「罪人の友」主イエス・キリスト教会の進藤龍也先生が、山形刑務所でお話しをしてくださいました。先生は1970年に、埼玉県蕨市でお生まれになりましたが、幼い頃から手の付けられないようなワルだったそうです。そして、高校時代に喧嘩をして、学校を退学になってしまいました。18歳の時に暴力団にスカウトされて、暴食団に入り、28歳の時には、組長代理にまで、登り詰めました。ところが、覚醒剤のやり過ぎて、暴力団から波紋状態になり、行く場を失ってしまいました。
ところが、3回目の服役中に、ある米沢のクリスチャンの女性から、聖書が差し入れられました。ワラをもすがるような思いで、聖書を読んでいると、自分が罪人であることがよく分かりました。そして、そんな私のためにイエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったと知った時、涙が止まりませんでした。進藤先生は、キリストの愛によって造り変えられたのです。
出所して、暴力団から完全に足を洗い、神学校に行きました。そして、2年生の時に今の「罪人の友」主イエス・キリスト教会の開拓伝道に導かれ、今の教会を建てあげられました。特に刑務所伝道や、出所しても行き場のない人たちのために、日本だけではなく、世界中を飛び回って伝道しておられます。キリストの愛が、進藤先生を、愛の器に造り変えたのです。
今回は、使命(ビジョン)を持つことの大切さについて、話してくださいました。先生が刑務所で救われた時、これからの人生は、自分のように刑務所で苦しんでいる人に福音を伝えるという使命が与えらたそうです。そして、「この使命があったからこそ、どんな苦しみも乗り越えて、今があるのです。こんな、前科七犯の私、入れ墨が入って、どうしようもない私でさえ、人生をやり直すことが出来たのですから・・・。みなさんは初犯でしょ、初犯のみなさんだったら、必ず人生をやり直すことが出来ます。」と語られました。すると、そこにいた受刑者の方々は、涙を流して聞いておられました。
10節
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
イエス様は、今日もあなたのことを愛しておられます。それも、あなたのために十字架で命を与えて下さるほどに、あなたのことを愛しておられるのです。「ここに愛があります。」十字架の愛に満たしていただいて、神と人とを愛する者へと造り変えていただきましょう。
(3)互いに愛し合いなさい
11節
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
この7~12節の短い聖書の箇所に、互いに愛し合うことが3回も書かれています。
7節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」
11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
12節「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
そして、この愛は、人間の不完全な愛ではなく、アガペーの愛、神様の愛で互いに愛し合うようにと書かれているのです。
互いに愛し合いなさい。と命じられた神様は、私たちに無理な要求をされるお方ではありません。神様を信じ、神様にしっかりと繋がっているならば、神様は、私たちに互いに愛し合う愛、与えて下さるのです。
ちょうど、川に源流から水が流れてくるように、神様の愛が私たちに流れ込んで、私たちも神様の愛を行うことができるようになるのです。
昨日、ホームセンターJOYの創立者であり、キリスト教独立学園高等学校の理事長をしておられた、小関 充さんが召天され、前夜式が東根で行われました。
小関さんは、無教会の敬虔なクリスチャンです。そして、長女の妙子さんは、私のキリスト教独立学園時代の同級生です。
そういったこともあって、私たちが山形に遣わされて間もない頃、キリスト教独立学園の鈴木弼吉先生を連れて、山形南部教会に来てくださったことがありました。また、まだ若かった私のような者を、JOYのクリスマス集会に呼んでくださって、メッセージのために用いてくださった事もありました。その後も、ずっと祈られ、支えられてきましたが、いつも温和で笑顔の絶えない方でした。
その前夜式の、喪主の挨拶の中で、小関さんの思い出を話してくださいました。小関さんは、子どもたちのために、旧約聖書2巻、新約聖書1巻の子供用の部厚い、聖書物語を買ってきたそうです。そして、朝、子どもたちにそれを少しずつ、読み聞かせるのが日課だったそうです。その頃の小関さんは、いつも眉間にしわを寄せて、どちらかというと厳しいお父さんだったそうですが、その聖書物語を子どもたちに読み聞かせる10分か、15分の間は、眉間のしわが消えて、本当に嬉しそうにしておられたそうです。
そして、それは、職場でも同じでした。ホームセンターJOYは、山形県18店舗、宮城県1店舗に成長しましたが、小関さんが社長の頃は、朝礼で、朝早く起きて、店舗を順番に回って、聖書を通して神様の愛を職場の人たちに伝えたそうです。
その小関さんが、娘の妙子さんに、「どうしたら、イエス・キリストの十字架の愛を解りやすく伝えることが出来るんだろうね。」と聞いたことがあったそうです。
その言葉のとおり、小関さんのお話は解りやすく、アルバイトの人たちも、目を輝かせて聞いていたと言っていました。
そして、88歳まで、信仰を全うされて、最後は、家族やお見舞いに来られた方に、「ありがとう。」「ありがとう。」と感謝の言葉が、小関さんの言葉の中でいた番多い言葉になったそうです。そして、病気で声が出なくなった最後の時も、家族やお見舞いに来られた方々に、「ありがとう。」と口を動かして、天に召されて行ったそうです。
一人の人が、救われてキリストの愛に満たされる時、その愛は、多くの人たちに影響を与え、愛の人に変えていくのだと知らされました。
11節
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
有名な話しですが、最後にヨハネの晩年の話しをして終わりたいと思います。
伝説によると12弟子のうちでヨハネが一番長生きをしたそうです。
ヨハネは、年を取ってからもよく教会を訪問したそうですが、講壇に立つと必ず一つのことを言ったそうです。それは「兄弟姉妹、互いに愛し合いましょう」ということです。ヨハネは聖書を書いた人の中でも神学的なすばらしい伝道者です。けれども教会の人が他のもっと神学的な話をして下さいとたのんでも、また講壇に立つと「兄弟姉妹、互いに愛し合いましょう」と繰り返し繰り返し語ったと言われています。
ヨハネは、聖書に精通した人ですが、その聖書を煎じ詰めれば、「愛する兄弟姉妹、互いに愛し合いましょう。」というひと言に尽きたのです。
今年、「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)と年間聖句をいただきました。
イエス・キリストの十字架にこそ、決して変わることのない永遠の愛があります。 この神様の愛に満たしていただいて、私たちも、互いに愛し合い、愛を全うさせていただきましょう。
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