今日、今野 忍姉のお証しを心から、感謝します。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒16:31とありますが、この御言葉のとおり、小関文雄さんに与えられた信仰が、家族全体に与えられ、礼拝に家族揃って来られることが、教会の祝福でした。
そして、今日の説教題は「本国は天にあります」とさせていただきましたが、やがて天の御国で再会できる恵みと祝福を覚えたいと思います。
今日は、召天者記念礼拝です。先程、お読みした方々は、信仰の戦いを立派に戦い抜いて天国に行かれた方々です。私達は、この方々の信仰を偲び、私達も最後まで、イエス・キリストを信じる信仰を全うさせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は20節です。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
今日の聖書の箇所には、キリスト者の姿が、競技場で汗を流しながら目標に向かって一生懸命に走っている競技者の姿にたとえられています。この聖書の箇所から3つのことをお話ししたいと思います。
(1)競技者としてのクリスチャンの姿
パウロの時代のギリシャでは、スポーツが盛んでした。そこで、パウロは信仰生活をスポーツにたとえて教えようとしているのです。
そこで、私達も競技者の姿とキリスト者の信仰生活の信仰の姿にたとえて考えてみましょう。
①スタートからゴールを目指して
それでは、私達はどのようにしてキリスト者としてのスタートラインに着くことが出来るのでしょうか。それは、自分の努力や難行苦行によって得られるものではありません。ただ、イエス・キリストの十字架を信じるだけで、キリスト者としてのスタートラインに着くことが出来るのです。
イエス・キリストは、私達の罪の身代わりに十字架で命を捨ててくださいました。そして、あの十字架の贖いによって完成してくださったのです。ですから、私達は、そのイエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで、私達は救われて、クリスチャンとしてのスタートラインに着くことができるのです。
よく、バプテスマ準備講座をお勧めすると、もっと、聖書を学んでからとか、もっとクリスチャンらしい生活が出来るようになってから、もっと、もっとと言われる方がいらっしゃいます。しかし、そんな事を言っていたらいつまで経ってもクリスチャンになることはできません。
ありのままで良いのです。罪があるままで良いのです。そのまま、イエス様を信じるだけで、クリスチャンになることが出来るのです。バプテスマというのは、スタートラインに着くことなのです。ぜひ、イエス・キリストを信じて素晴らしい人生を歩み出して下さい。
スタートのピストルが響き渡ると、選手はゴールを目指して走り出します。キリスト者も同じように、はっきりとした目標があります。
それは第一に死者の中から、復活に達することです。天国が、私たちのゴールです。
10~11節
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
言い換えれば、天国が私達の目標です。またイエス・キリストの再臨の日に神様の御前に立つことが目標なのです。
この中で、まだ信仰を持っていらっしゃらない方がおられるでしょうか。もし、いらっしゃるならば、ぜひ、イエス・キリストを信じてください。その信仰がキリスト者のスタートです。召天者の方々が、イエス・キリストを信じる信仰を持たれて、最後までその信仰を全うされたように、イエス・キリストを信じて信仰のスタートに立っていただきたいと思います。
②上に召してくださる栄冠
14節
「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
当時、ギリシャの競技場での勝者には、オリーブの冠が与えられました。勝者はその冠をかぶらせてもらう時、今までの全ての苦労を忘れて、心からの喜びに溢れたのではないでしょうか。
しかし、そのオリーブの冠は、やがては朽ちてしまいます。しかし、神様は、決して朽ちない、また義の冠という賞を与えて下さるのです。
それでは、神の栄冠を得るためにどのような走り方をしなければならないのでしょうか。そのことが13節に書かれています。
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、」
ここに「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、」とあるように、後ろのものを忘れ、前のものに全身をむけることが大切なのです。
出エジプトの際に、イスラエルの民は試みにあってくじけてしまい、昔を懐かしがってつぶやいてしまいました。
しかし、私達にはそのようなことがあってはならないのです。ただ最善を成してくださる神様を信じて、後ろをふり向かずに、前向きに生きるのです。
次ぎに「なすべきことはただ一つ、」と13節にあります。
競技者は、自分が勝つためには、一つのことに集中します。
私達は、永遠に朽ちることのない賞を得るために、聖霊に助けによって、自らを制し、自我に打ち勝って、競技者のように汗を流しながら信仰生活に励みましょう。そのような信仰の戦いの中で、クリスチャンは成長し、聖潔られ、成長していくのです。
先日のリビングライフに、韓国のプロ野球選手のイ・ビョンギュ選手のことが書かれていました。彼は、2013年、39歳で、指名打者部門ゴールデングラブ賞を受賞しました。最高齢の現役選手として、受賞したことで有名になりましたが、そのインタビューの時に、このような話しをしたそうです。
彼は、目を保護するために、テレビを観るのを我慢し、スマートフォンを使用することも最低限にしていたそうです。それは、小さなボールを打つためには、視力を維持しなければならないからです。
今の時代、テレビやスマートフォンなしに生きて入れるのかと思いますが、彼には、それが出来たのです。なぜなら、彼には、夢があったからです。スタジアムの大観衆の前で、ヒットを打って、英雄になるという夢があったからです。だから、彼は毎日の生活の中を節制することが出来たのです。
信仰生活もこれとよく似ています。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、信仰の歩みがスタートしました。そして、再び主とお会いする時、天国を目指して、毎日の生活をしています。そして、主にお会いする時、きよくあるために、喜んで節制して、この世の生活を過ごすのです。
13~14節
「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
さらに12節に
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
とあるように、クリスチャンは、自分の達しているところに従って進むのです。他人と比べて一喜一憂する信仰生活ではなく、神様を見上げて生活をするのです。
イエス・キリストは、罪人であった私達をキリストの十字架に免じて救ってくださいました。そればかりか、三日の後によみがえってくださって、今、私達の心の中に共にいて下さるのです。このイエス・キリストの恵みによって、自我と戦い、聖潔られ、主に仕えていくのです。
そのようにして、私達に与えられている信仰のはせばを、一心に進ませていただきましょう。
(2)わたしたちの本国は天に
20節にそのレースのゴールがはっきりと書かれています。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
パウロは、ここで「わたしたちの本国は天にあります。」と言っています。
この世の国籍や故郷は一時的なものですが、わたしたちの国籍は天にあるのです。なんという特権、なんという祝福でしょうか。
聖書は、天に国籍があるかないかの区別がはっきりとする重大な決定的な日が、必ずやって来ると言っています。その日とは、ある人にとっては、地上の生涯を終えた日であり、またある人にとっては、生きていて経験する主の再臨の日であります。
そして、その日、イエス・キリストを信じるものはパウロが言ったように「わたしたちの本国は天にあります。」と告白し、天の御国に凱旋することが出来るのです。
今日は、講壇の前に写真が並べられていますが、その中に川上長一兄の写真があります。今年でちょうど召天70周年を迎えられたと伺いました。この川上長一兄が最初に信仰を持たれて、この子どもや孫、ひ孫までその信仰が継承されています。今、教会で川上さんと呼ぶと、たくさんの方が手を挙げられるほどです。
また、歌丸憲三郎さんや愛子さんの信仰にどけだけ、励まされ、支えられてきたか分かりません。特に、今年は、歌丸潤さんと、梶原敦子さんのご好意によって、歌丸家の土地建物がささげられ、いよいよ、新会堂建築の弾みが付き、心から感謝しています。
ここには、写真がありませんが、この会堂は、鈴木長右エ門さんによって建てられ、献げられた建物です。今度は、私たちがささげて、新会堂を建てようと大きなビジョンに向かって進んでいます。
そして、国井巌さんとハナさんの信仰と祈りが、今の国井家を支えているのではないでしょうか。私が、国井ハナさんを訪問するといつも小さな、御自分の部屋に通して下さいました。その部屋には、いつも聖書やアパルームというデボーションの本が置いてあり、祈りの香が漂っていました。その祈りによって、今の国井家や教会の祝福があるのだと思います。
そして、今日は、召天者全員のことをお話しする時間がありませんが、先程読み上げられたお一人お一人が、イエス・キリストを信じる信仰を全うされて、天国に凱旋されたのです。
そしてパウロは17節でこう言っています。
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」
パウロは、ここで自分を誇っているのではありません。一方的なイエス・キリストの十字架の贖いによって救われ、福音宣教の戦いに生かされている自分ならってくださいと言っているのです。
そして、それは、今日記念会を行っている、召天者の方々も「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」と同じことをわたしたちに、語りかけているのではないでしょうか。
(3)御自分の栄光ある体と同じ姿に変えてくださる
そして、素晴らしい御言葉が、21節にあります。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
わたしは、いろいろな方の最後に立ち会いましたが、最後は、病気と怪我と戦い抜いて天国へ帰って行かれますから、ほとんどの場合、やせ細ってかわいそうなほどです。
しかし、神様は、天国に行った時には、
「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」というのです。栄光の体とは、どんな体でしょうか。それは、御自分の栄光ある姿と同じ形とありますから、光り輝く最高の体です。この地上でどんな苦しみや試練があっても、天国ではイエス様と同じ栄光の体が与えられるのです。
ある人は、老いのために体が弱ってしまいます。祈祷会の時、歌丸愛子さん、国井ハナさん、村山トミさんが、目が見えなくなってきたことや、耳が遠くなったことを、私たちは「目は香住町、耳は十日町」ですからね、と冗談を言って笑わせて下さったことを思い出します。
また老いだけではなく、ある人は病気のために、また事故や怪我で体が痛めてしまうことがあります。またある人は生まれつき障害をもっておられる方もいらっしゃいます。
しかし、天国に行く時には、イエス様が、御自分の栄光ある体と同じ姿に変えてくださるというのです。なんという素晴らしい約束でしょうか。
この地上で、どのような苦しみや試練があったとしても、天の御国に帰る時「栄光の体」が与えられ、主と顔と顔を合わせてまみゆることが出来るのです。この素晴らしいゴールを目指して、信仰の歩みを全うさせていただきましょう。
最後にもう一度20節を読んでお祈りをしましょう。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
召天者の方々は、信仰の戦いを立派に戦い抜き、本国である天国に帰って行かれました。その信仰の先達にならって、わたしたちも信仰の歩みを最後まで全うさせていただきましょう。
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