今年は、赤ちゃんの誕生の嬉しい知らせが続いています。
7月6日に富沢裕美さんに、長男亮太君が誕生しました。そして8月26日に、那須家に次男賛(たすく)君が誕生しました。そして、先週の火曜日10月6日に、川上悟兄の次男望君に、長女が誕生しました。赤ちゃんの誕生は、家族にとっても、教会にとっても、周りの人たちにとっても大きな喜びです。
私たちには、誰にでも誕生日があります。そして、私たちクリスチャンには、もう一つの誕生日があります。それは、イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わった霊の誕生日です。
Ⅱコリント5:17
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。イエス・キリストに結ばれた時、私たちは新しく生まれ変わったのです。
今日の聖書の箇所は、過ぎ越しの出来事がモーセによって預言されているところですが、1~2節には、イスラエルの民がこよみを改めて、神の国民として新しい暦を定めて記念とすることが命じられています。
1~2節をご覧下さい。
「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」
それまでの暦では、1年はチスリの月(現在の9~10月)から始まりました。ところが、出エジプトが起こったのは、アビブの月(現在の3~4月)の月でしたこの記念すべき月が、正月として、年の定にしなさいと命じられたのです。
イスラエルの民が救われた、過ぎ越しの災いが起こった日から、イスラエルでは、2つの暦を用いるようになりました。民事に関することには、今まで通りチスリの暦が用いられ、宗教に関する事には、アビブの暦が用いられるようになったのです。
そのような、記念すべき過ぎ越しの出来事から、今日は主の御声を聞かせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は、13節です。
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
今日は、この御言葉を中心に、3つの事をお話ししたいと思います。
(1)過ぎ越しのために小羊を用意すること
3節
「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。」
イスラエルの民は、過ぎ越しの祭りを守るために、家ごとに小羊を一匹取って屠ることを命じられました。
この小羊というのは、新約聖書では、キリストを現すものです、バプテスマのヨハネはイエス様が来られるのを見て、ヨハネ1:29で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
と言っています。
そして、出エジプト12:5には「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。」 と書かれています。
そのことがⅠペトロ1:18~19にはこう書かれています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(P429)。イエス様こそが、私たちの罪の身代わりに十字架で、傷のない神の小羊として命を捨ててくださった救い主です。
家のあるじは、正月の10日に小羊をとって14日まで守って、その日の夕暮れに小羊をほふって、出エジプト12:7では「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」ことを命じられています。これは、キリストが罪人の救いのために流された、血潮を現しています。
イザヤ書53:5にその事が預言されています。(P1149)
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
神の子であり、傷のない小羊、イエス様こそが、私たちの救い主なのです。
ある牧師がカナダの小さな町でメッセージを終えて帰ろうとすると、40歳くらいの男性ががっくりと肩を落として、教会に入ってきました。そして、「今、病院で3週間の命だと言われました。前にイエス・キリストのことを聞いたことがあったので、教会に来てみました。」と言いました。
牧師は、聖書を開いて福音を伝えました。そして、「解りましたか」と聞くと「頭では解りましたが、それだけです。」と応えるのです。
牧師は、聖霊に導かれて、帰りの飛行機をキャンセルして、この男性と時を過ごしました。しかし、何度御言葉を開いて、福音を語っても「頭では解りましたが、何も変わりません。」と応えます。
牧師は、もう一度ヨハネによる福音書3章16節を読んで、声に出して読むようにと言いました。「もう何度も読みましたよ。」と言いましたが、とりあえず読み始めました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ここまで、読んだ時に、彼は息を詰まらせて、叫んだのです。
「私の罪は、イエス・キリストの十字架の血できよめられたんだ!イエス様が私のために死んでくださったんだ!永遠の命をいただいたんだ!」
イエス様の血潮こそが、彼の罪をきよめるということが、聖霊の働きによって解ったのです。こうして。彼は小羊の血による救いを受け取ったのです。
イスラエルの民は、その血を自分の家の二本のかもいに塗って、自分の信仰をすべての人に明らかにしました。同じように、私たちも、イエス・キリストの十字架の血潮によって救われて、その恵みを信仰を証しする者とさせていただきましょう。
(2)小羊をほふって食べること
8~9節
「そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。9 肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。」
イスラエルの人々は、小羊の血を、入り口の二本の柱とかもいに塗るだけではなく、その夜、その肉を火に焼いて食べたのです。
これは、私たちが、外に向かってイエス・キリストを証しするだけではなく、私たちの心の中に、小羊であられるイエス・キリストをお迎えして、イエス様の品性に似たものとなることを意味しています。
ヨハネ6:53(P176)
「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」と書かれている通り、イエス・キリストを心の中にお迎えして、イエス様に似た者と造り変えていただきましょう。
過ぎ越しを迎える大切な事が2つ書かれています。
①純粋な心です
8節に「そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」とあります。
イスラエルの民は、その小羊を食べる時に、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べました。酵母を入れないパンというのは、異なる動機を交えない、純粋な心を表します。
そして、苦菜を添えて食べるというのは、謙遜な悔い改めの心を意味します。
詩編51:19にこう書かれています。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」
私たちの心をさぐっていただき、純粋な動機をいただき、砕けた悔いた心で主に仕える、キリストに似た器と造り変えていただきましょう。
②急いで食べること
更に、歴史的な第一回の過ぎ越しの小羊を食べる時に、急いで食べることを命じられています。11節
「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。」
それは、いつ出発する命令が神様から出ても、準備ができているようにするためでした。11節に「これが主の過越である。」と書かれています。それは、小羊のいけにえの血を見て、神様がその家に対してさばきをくだされずに、その家を過ぎ越されるからです。
再臨の主は必ず来られます。そして、 「その日、その時は、だれも知らない。」(マタイ24:36)と書かれています。私たちは、主をお迎えする準備はできているでしょうか。
過ぎ越しのことを聞いたイスラエルの民が、急いでパンを食べたように、私たちも急いでイエス様を心の中にお迎えして、再臨の主をお迎えする備えをさせていただきましょう。
神様は、その夜に、人とすべての家畜の初子を打たれました。ファラオも家畜もエジプトでは、神聖視されていました。そのすべての初子が打たれることによって、それらの偽りの神々の無力さが暴露されることになります。まさに、これはエジプトのさばきの時でありました。
しかし、13節にはこう書かれています。
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
自分の家の二本の柱とかもいに小羊の血を塗っておくならば、神様は、その血を見て過ぎ越されるので、その家は滅びの災いから守られたのです。
神様のさばきからイスラエルの民を守ったのは、小羊の血でありました。イスラエルの民は、アブラハムの子孫だからという理由で救われたのではありませんでした。
エジプト人も同じように柱とかもいに小羊の血を塗っておくならば、さばきを免れることが出来たからです。また、誰も割礼を受けているからとか、信仰者として全力を尽くしたからとか、善人であるからとか、正直者であるからという理由で救われたのではありません。人間のどんな功績も、神様のさばきの前には、わたしたちを救うことはできないのです。
13節
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
この時、小羊の血が鴨居と二本の柱に塗られている家は、災いが過ぎ越したように、私たちは、ただ、イエス・キリストの十字架の血潮によってのみ救われるのです。
日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(1946年5月〜1948年11月)、いわゆる東京裁判が行われました。ほとんどの国民は「こんな戦争に追い込んだのはあの軍部のせいだ」と、戦犯に対して冷たい態度を取りました。
しかし、そのような中、この戦犯たちに心を砕いて仕えた宣教師たちがいました。しかも、その多くはアメリカの宣教師たちでした。そのうちの一人に、アイリーン・ウェブスター・スミスという女性がいます。
ある時、彼女が家庭集会をしていると、西澤さんという女性が来てこう言いました。
「私の夫は巣鴨の拘置所に捕らえられていて、戦犯として裁かれようとしています。恐らく彼は死刑になると思いますが、どうぞ彼にイエス・キリストの福音を伝えて罪の赦しを得、完全な平安を持つことができるようにし、天国で再会する希望を与えてください」
戦犯たちには月に1回、30分だけ家族のみが会うことができるというルールがありました。マッカーサーから彼女は特別許可をもらい、面会の機会を得、厳重な監視の中、西澤氏にイエス・キリストの福音を語ったのでした。
「あの十字架の現場で死刑囚も罪を赦され、永遠のいのちを持ったのです。イエス様はあなたの罪のために十字架にかかって、救いを完了させてくださいました。そして3日目によみがえり、今生きてあなたに語ってくださっている方です。誰でもイエス様を信じるなら、永遠のいのちを受けます」
すると西澤氏は、「あなたは私が戦争でどんなことをしてきたか知っていますか。私の両手は血塗られています。私のしたことを知らないので赦しとか、救いとかを簡単に言えるのです」と言いました。
しかし、アイリーンはこう言いました。
「私はあなたが何をしてきたのか知りません。しかし、1つのことだけは知っています。それはイエス・キリストの血潮はすべての罪から私たちをきよめ、神様の前に赦されない罪はありません。キリストの贖いのゆえに、赦されない罪はないのです」
その言葉を聞くと、彼はこのみことばを素直に受け入れ、その場でイエス・キリストを信じました。彼は、生涯最後の面会でイエス・キリストと出会ったのでした。
それを聞いた夫人は「これで主人と天国で再会できます!」と喜んだのです。
13節
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
この時、小羊の血によって、イスラエルの民が災いから救われたように、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さいました。その十字架の血潮によって、私たちの罪は赦され、永遠の命が与えられるのです。
(3)神の言葉を伝えたモーセ(21~28節)
いよいよエジプト人にとって恐るべき災いの時が近づきました。その災いを前にして、モーセはイスラエルの民を集めて、神の言葉を伝えました。
まず、22~23節で
家ごとに羊をで、過ぎ越しの犠牲をささげることを命じられ、その血を一束のヒソプの枝で、かもいと入り口の二本の柱に塗りなさい。」と伝えました。そして、それは、エジプト人を撃つために巡り歩く時に、鴨居と二本の柱を御覧になって、その入り口を過ぎ越して、あなたたちを撃つことがないためであると説明を加えました。
次に、24~25で、その過ぎ越しの祭りをこれから、永遠に守ることを命じられます。
「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。」
それは、神様がエジプトの地から、イスラエルの民を救い出して下さったことを永遠に忘れないためでした。そして、それを、自分の子どもや子孫に語り伝えるように命じられました。26~27節
「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。」
イスラエルの民は、これから後ずっと過ぎ越の祭りを守りながら、偉大な神様の御業を子どもたちに語り伝えたのです。
やがて、イエス様は、この過ぎ越しの夜に、新約時代に生きる私たちのために、新しい聖餐式という聖礼典を定められました。私たちは、この聖餐式を守る度に、イエス・キリストの十字架と復活を覚えて、主の偉大なる救いの御業に感謝を献げるのです。
27~28節
「こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」
モーセの言葉を聞いたイスラエルの民は、ひざまずいて礼拝をし、モーセとアロンの言葉のとおり、準備を始めたのです。私たちも、私たちのために小羊となって十字架で命を捨ててくださったイエス様を、心から礼拝しましょう。
第2次世界大戦が勃発した時、大英帝国の国民は、極度の混乱と絶望の中にいました。そんな中でも、幸いなことに、彼らには信頼できる二人の指導者がいました。一人は有名な政治家のウィンストン・チャーチル卿です。もう一人は、尊敬を集めていた宗教指導者のウィリアム・テンブル主教です。戦争の最中、女王は国民に最も信頼されている二人に、ラジオ演説を依頼しました。絶望の中にいる大英国民の全国民が、ラジオのボリュームを上げて、愛して病まない二人の指導者の演説に耳を傾けました。
「みなさん、今こそ、神を見上げるのです。私たちが今すべきことは、全能なる神の御前に出て、礼拝することです。敬虔にひざまずいて、全能なる神を見上げましょう。」
戦争という非常事態を前にして、二人の話はノンクリスチャンにとっては、非常に抽象的に聞こえたかも知れません。しかし、聖霊がその時、イギリス国民の心に感動を与えました。彼らは、翌日一斉に同じ時刻に全教会の鐘を鳴らすことにしました。教会堂の鐘の音と同時に、全国民の70パーセント以上の人々が教会に集まり、神に礼拝をしました。その礼拝によって国民の心は落ち着きを取り戻して、一つとなり、戦争に対処する国民的勇気が湧き上がったというのです。
27b~28
民はひれ伏して礼拝した。28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」
神様は、最後の初子が殺されるという、絶望的な状況の中でも、二本の柱とかもいに血を塗った家は、お守りくださり、その災いが過ぎ越したのです。それと同じように、私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪許され、神の子とされ、永遠の命があたえられているのです。この神様の御前にひれ伏して、礼拝をささげ、主の御言葉に従って、神様の祝福の中を歩ませていただきましょう。
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