先生の弟は、ベトナムに単身赴任で一人でいますが、弟には、大切なかわいい相棒がいました。ファーという20歳になる犬です。
今回、日本に帰ってきた時も、ファーのためにおむつや、ドッグフードをたくさん買って帰りました。
ところが、このファーが先週の水曜日に死んでしまったのです。弟は本当に悲しくて、人間のようにちゃんと葬儀をして、土葬をしたそうです。弟にとって、ファーは家族の一員だったのです。
まして、自分の家族が死んでしまうことは、本当に悲しく、辛いことです。
ベタニヤ村のラザロが重い病気になりました。お姉さんのマルタとマリアは、心配でたまりません。
「イエス様に来ていただきましょう。ラザロの病気を癒やすことが出来るのは、イエス様しかいらっしゃらないわ。」二人は急いで、使いを送って、イエス様にその事を知らせました。
イエス様が弟子たちと一緒にいる時に、使いの人がやって来ました。
「イエス様大変です。ラザロが病気で、死にそうです。早く直してあげてください。」
さて、イエス様はどうされたでしょうか。
イエス様は、すぐには、ラザロの所に行かなかったのです。そして、ラザロはとうとう死んでしまったのです。
イエス様が、ベタニアに着いた時、ラザロはお墓の中に入れられてもう、4日も経っていました。
マルタは、イエス様を村の入り口の所まで迎えに出てきて、「イエス様。もしあなたがここにいて下さったら、ラザロは死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神様にお願いすることは何でもかなえてくださると、私は信じています。」と言いました。
するとイエス様はこうおっしゃいました。
25~26節
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
すると、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 と答えました。
しばらくすると、マリヤもやって来ました。マリヤはイエス様の足元にひれ伏して言いました、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」
ラザロのお墓に案内されたイエス様は、そこで涙を流されました。それを見ていたユダヤ人は、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」 と言いました。ところが、中には 「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という人もいました。
イエス様は、ラザロのお墓に行きました。さて、ラザロの墓には、何が置いてあったでしょうか?
ラザロのお墓には、大きな石が置いてありました。イエス様は、その石を見ると、「その石を取りのけなさい」と言いました。それを聞いたマルタが言いました。
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」 するとイエス様はおっしゃいました。
、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」
みんなでお墓の石を動かすと、イエス様は、天を見上げて神様にお祈りをしました。それから、大きな声で叫びました。
「ラザロ、出て来なさい」 するとどうなったでしょう。
死んだはずのラザロが、顔や手にきれをまいたまま、お墓の中から出てきたのです。それを見た人は、イエス様が人の命まで支配しておられる神様だと言うことを信じました。
どんな人でも、いつかは死んでしまいますが、イエス様を信じる人は、永遠の命をいただく事が出来ます。そして、天国で、ずっとイエス様と一緒に暮らすことが出来るのです。
この御言葉から、二つのことをお話ししたいと思います。
(1)その石を取りのけなさい。
ラザロは死んで、もう4日も経っていました。もう死んでしまって、においはするし、くさりかけていました。そんな人が、生き返る何て常識では信じることはできません。
この時、マルタは「四日も経っていますから、もうにおいます。」と言って、いくらイエス様でも、無理でしょうと、心の中に不信仰という石がふさいでいました。
マリヤもイエス様が来られた時に、「イエス様。もしあなたがここにいて下さったら、ラザロは死ななかったでしょうに。」と言ってしまいました。いくらイエス様でも、死んでしまったらもう駄目でしょうと思ったのです。
私たちにも、そのような不信仰という石がないでしょうか。神には何でもできないことはありません。そのことは、私たちは頭では良く知っています。けれども、その悲しみや苦しみがあまりに大きすぎる時、いくら神様でも、これは無理でしょうと不信仰の石が、私たちの心をふさいでしまうのです。
しかし、イエス様は、そのような私たちに、「その石を取りのけなさい」 不信仰という石を取りのけなさいと言われるのです。
絶対にイエス様がよみがえられたなんてウソだと、心のかたくなな、弁護士がいました。その弁護士が、キリスト教の信仰に反対する本を書こうとしました。そこで、聖書を読み始めたのです。ところが、聖書を読めば読むほど、聖書の素晴らしさが解ったのです。特に、イエス様がよみがえったなんてでたらめだと思っていたのですが、調べれば調べるほど、イエス様が復活された証拠がたくさんあることが解ったのです。そして、とうとう、その弁護士さんは、イエス様を信じました。そして、その弁護士さんは、イエス様がよみがえられたという本を書いて、そのことを証しています。
弁護士さんが、どんなに調べてもイエス様がよみがえられたということは、疑いようのない事実でした。
イエス様は、私たちに「その石を取りのけなさい。」とおっしゃいます。イエス様は、死んだラザロを生き返らせてくださるお方です。なぜなら、イエス様御自身が、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、罪と死に打ち勝って、よみがえられたお方だからです。
不信仰という石を取り除いて、心から十字架にかかられ、よみがえられたイエス様を信じましょう。
(2)わたしは復活であり、命である。
25~26節
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。そして、それで終わりではありませんでした。死に打ち勝ち、罪の打ち勝って三日の後によみがえられて、今も生きておられるのです。
そして、そのイエス様は、イエス様を信じる私たちにも、罪と死に打ち勝つ力を与えて下さるのです。
先生の親友の田渕誠一君の証しをしたいと思います。
誠一君のお父さんと、お母さんはクリスチャンだったので、連れられてキリスト教の集会に行っていました。高校は、基督教独立学園に行き、そこで、毎日讃美歌を歌い、聖書を読んで、イエス様を信じるようになりました。大学は、北海道の酪農大学で獣医学科で勉強をして、獣医になりました。
大学を卒業して、山形県の飯豊町で牛のお医者さんになりました。結婚をして、大介君、健介君、花子ちゃんの3人の子どもが与えられ、幸せに暮らしていました。23年前の8月26日のことです。いつものように、3人のこともを抱き上げて、「行ってきます。」と言って出かけたのですが、牛の世話をしている時に、頭がものすごく痛くなって、救急車で病院に運ばれました。ところが、誠一君は蜘蛛膜下出血で、病院に運ばれた時には、もう手遅れで、天国に召されたのです。
葬儀はキリスト教式で行われました。私は牧師休暇で北九州に帰っていたのですが、すぐに山形に帰って、葬儀の司式をさせていただきました。飯豊町の体育館に、200人以上の人たちが集まっていましたが、そこで、今日の聖書の箇所、ヨハネ11:25を読みました。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
「イエス様が十字架にかかって、3日の後によみがえられたように、田渕誠一君もイエス様を信じて、天国に行ったのです。」と、飯豊町の人たちに、イエス様の福音を伝えることが出来たのです。
その葬儀の挨拶で、奥さんが挨拶をされました。「私はこれまで、明日は今日という延長上にあると思っていました。しかし、夫の死ということを通して、そうではないということを知りました。今日からは与えられた一日一日を精一杯生きていきたいと思います。」
Ⅱコリント6:2に「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。・・・今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と書かれています。私たちの人生は、いつまで続くか解りません。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。今こそ、イエス様を信じて、永遠の命の約束をいただきましょう。
田渕誠一君が亡くなって23年経った、今年の8月26日です。先週もお話をしましたが、今度は田渕誠一君のお父さんの亨治さんが、84歳で天国に召されました。亡くなったのが一日違いです。そして、前夜式は28日、告別式は29日まったく同じ日に、行われました。
なんだか、二人が天国で、待ち合わせをしていたかのように感じました。その葬儀でも、ヨハネ11:25を読みました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」誠一君のお父さんも信仰の歩みを立派に走り抜いて、天国に召されたのです。
25~26節
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。そして、死と罪にに打ち勝って、復活されたのです。ですから、イエス様だけが、私たちに永遠の命を与えてくださるお方です。死んだラザロをよみがえらせたイエス様は、私たちにも永遠の命を与えてくださるお方です。
私たちの心の中に不信仰という石があるなら、それを取り除いて、心からイエス様の十字架と復活を信じましょう。そして、私たちも永遠の命の約束をいただいて、素晴らしい人生を歩ませていただきましょう。
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