聖書の中には、いろいろな動物が出てきます。どんな動物を知っていますか。
ヘビ、犬、ロバ、ジャッカル(狼)、ライオン、熊、羊、やぎ、鳩、カラス、豚、
その中で、新約聖書の中で、新約聖書の中で一番多く出てくる動物は何だと思いますか。それは羊です。イエス様がおられた時代には、イスラエルの国に、羊の世話をする羊飼いが大勢いました。今日は、その羊飼いの話です。
今日の中心の御言葉は、11節です。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
羊は、とても弱い動物です。それに、道に迷いやすい動物なので、誰かに守ってもらをなれけば生きていけません。誰か守ってくれる人がいないと、オオカミに襲われたり、どろぼうに盗まれたりするのです。
だから、羊飼いの仕事は、本当に大変です。朝は、羊たちの名前を一匹一匹呼んで、囲いから出します。羊飼いは、羊の名前をみんな知っているのです。それから、羊たちを草原に連れて行って、おいしい草をお腹いっぱい食べさせます。そして、夕方になると家まで連れて帰るのです。
夜も、野原にいなければならない時は、寝ないで、羊の番をします。オオカミやどろぼうが近寄って来ないように、一晩中たき火をして、羊たちを守るのです。
ルカ15:1~8
ある羊飼いが100匹の羊を飼っていました。羊飼いが、いつものように羊を数えると、95、96、97、98、99・・・・・。あれ、一匹足りません。よく見ると、いないのは、メー子です。さぁ大変です。羊飼いは、羊たちを安全なところに連れて行くと、つえを持って、迷子の羊を探しに行きました。「メー子。メー子」いくら呼んでも、メー子の姿は見当たりません。羊飼いは、谷の方へと、降りて行きました。もし、足を滑らせたら、ガケに真っ逆さまです。それでも、羊飼いは、メー子の谷の方へと降りて行きました。
その時です。「メ~」と小さな声が聞こえてきました。間違いなく、メー子です。崖の下に落ちて、動けなくなっていたのです。羊飼いは、羊をしっかりと抱き上げると、元の道を引き返しました。
イエス様は「わたしは良い羊飼いです。」とおっしゃいました。そのように、良い羊飼いに飼われた羊は幸せです。
けれども、この聖書には、悪い羊飼いのことも書いています。悪い羊飼いは、お金で雇われた羊飼いです。この悪い羊飼いは、羊を愛する事も、心を込めてお世話をすることもしません。ただ、お金が欲しいだけです。だから、オオカミが襲ってきたり、危険なことが起こると、羊を放り出して、真っ先に逃げてしまうのです。
そんな、羊飼いに飼われた羊は、かわいそうです。
この御言葉から、3つのことをお話ししたいと思います。
(1)良い羊飼いは、羊のために命を捨てる
11節
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
イエス様は、「わたしは良い羊飼いである。」とおっしゃいました。
もしメー子を、羊飼いが、自分が危ないからと言って、メー子を捜さなかったら、どうなっていたでしょうか?メー子は、谷底で死んでしまうか、オオカミに食べられていたかも知れません。けれども、良い羊飼いは、命がけで、羊を捜したのです。
ある羊飼いは、羊を囲いの中に全部入れると、門の所に寝るそうです。それは、オオカミや獣が襲ってきた時に、最初に通るのが、入り口の門の所だからです。オオカミや獣が襲ってきた時、羊飼いは命がけで、戦って、羊を守ります。
そして、中には、羊のために命を捨てる羊飼いもたいたそうです。
旧約聖書の時代、人が罪を犯すと、小羊がほふられて、祭壇でそれをささげなければなりませんでした。それと、同じように、罪のない神の子である、イエス様が、私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨ててくださったのです。
イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 とおっしゃいました。その御言葉通り、私たちの罪のために十字架で命を捨ててくださいました。そのイエス様の十字架の愛によって、イエス様を信じるだけで、私たちの罪は赦され、神の子となり、永遠の命が与えられたのです。その「良い羊飼いである。」イエス様を羊飼いとして、素晴らしい人生を歩ませていただきましょう。
(2)羊飼いの声を聞くこと
14節
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
羊飼いが、羊のことを良く知っているように、羊も、羊飼いの声を聞き分けることが出来ます。羊飼いが、羊を呼ぶと、羊は羊飼いに従ってついてきます。決してほかの人には着いていかないのです。
私たちも同じです。私たちは、良い羊飼いであるイエス様の声を聞いて従って行きましょう。それでは、どうすれば、イエス様の声を聞き分けることが出来るのでしょうか。
それは、まず週の初めに、礼拝をささげることです。ここで、イエス様を主として礼拝をささげている、私たちを神様は必ず祝福してくださいます。
また、聖書の御言葉をいつも聞いて、その御言葉に従っていくことです。神様は、御言葉をもって私たちを導いてくださいます。
そして、いつもお祈りをして、イエス様とお話しをする事です。そうすればイエス様の声を聞き分けることが出来るのです。
ロンドンの町にトムという男の子がいました。
トムは生まれつき足に障害を持ち、歩いたことが一度もありませんでした。両親とは死に別れ、おばあさんの家に預けられていたのです。彼の部屋は屋根裏の小部屋で、孤独に打ちひしがれそうになっていました。
そんなある日、彼の友人が訪ねて来て、仕事が成功したから何かをプレゼントしたいと言うので、「それなら聖書が欲しい」と頼みました。聖書を手にしたトムは、読めば読むほど神の愛がわかり、じっとしていられなくなりました。「聖書には『みことばを宣べ伝えなさい』と書かれてある。僕にも何かできないだろうか……」
そのとき良い考えがひらめきました。彼のベッドはちょうど窓際です。彼は毎日みことばを紙に書き、それを窓から落とすことにしたのです。そんなある日のこと、ひとりの紳士がトムを訪ねて来ました。
「私はなまぬるいクリスチャンだった。君が書いたみことばを読んだとき、このままではいけないと悟った。私はこれから田舎に帰り、心を入れ替えて神様のために働こうと思う。」
それからも、そのトムのみことばの手紙をとおして救われる魂が起こされました。
やがてトムの病状は悪化し、天に召されました。しかし、トムの窓から落としたみことばは、今も神の愛を人々に語り継いでいるのです。
聖書の御言葉は、今も、イエス様の言葉を語り続けています。
礼拝をささげ、聖書を読み、お祈りをして、イエス様の御声に聞き従い、私たちもトムのように聖書の言葉を伝える人になりましょう。
(3)囲いの外にいる羊を導く
16節
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
イエス様は、ユダヤ人達を救うためだけに「命を捨てられた」のではなく、異邦人もすべての人が救われるために十字架で命を捨ててくださったのです。その十字架の贖いによって、私達が主にあって一つになることを望んでおられるのです。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」
この御言葉を私達の教会にあてはめるとどうでしょうか。
イエス様は、この教会という囲いの中にいるクリスチャンだけの羊飼いではありません。囲いの外、教会の外の人々をも十字架で命を捨ててくださるほどに愛しておられ、招いておられるのです。
私達は、そのイエス様の心を、心にしなければならないのではないでしょうか。
私達の「囲いの外」には、迷える羊がたくさんいます。その羊に、真の羊飼いであられるイエス様をお伝えしましょう。
そのようにして、教会という囲いが、どんどん広がっていって、最後には、この囲いがすべて取り除かれて、「キリスト・イエスにあって、我らはみな一つ。」と言えるような世界が来たらどんなに素晴らしいだろうかと思います。
オンヌリ教会宣教チームが、いよいよ今週水曜日に来られます。今年も、路傍伝道やチラシ配布が行われる予定です。都合の付く方は、御協力ください。
韓国のある教会に、とても伝道に熱心な兄弟がいました。毎週、礼拝が終わると、チラシを持って、路傍伝道に行って、チラシ配布を行うのです。
ところが、ある日曜日、礼拝後、雨が降り始めました。そして、その人も体調が悪かったので、今日は中止にする事にしました。
すると、その時に、その人の息子が、「お父さんがやらないなら、ぼくがやるよ。」と言って、チラシを持って、出かけて行きました。路傍伝道をしようと思いましたが、どしゃ降りでできません。そこで、一軒、一軒訪ねてチラシを配ることにしました。
ある家を訪ねた時です。ピンホーンと鳴らすと、一人のお婆さんが出てきました。その子どもは、「神様は、あなたのことを愛しておられます。ぜひ、教会に来てください。」と言って、チラシをわたしました。
そのようにして、チラシを配った次の週の日曜日です。何と、あのお婆さんが、礼拝にきたのです。そして、礼拝が終わった後で、みんなの前で証しをしました。
「私は、この通り随分年を取りました。去年夫も失ってしまい、孤独で、さびしくて私も夫の所に行きたい、死んでしまいたいと思って、ロープと椅子を用意していたのです。その時に、ピンポーンと言う呼び鈴が鳴って、玄関に行ってみると、かわいい坊やがいるではありませんか。その坊やが、「神様はあなたを愛しています。教会に来てください。」と笑顔で誘ってくれたのです。その時に、私は神様の愛が解りました。私は一人ではありません。これから、神様の愛を求めて、教会にきたいと思います。」
一人の男の子が、一枚のチラシが、一人の大切な命を救ったのです。
教会の囲いの外にいた、お婆さんが、教会の囲いの中に入ってこられたのです。この男の子にとっても、教会にとっても大きな喜びでした。そして、何よりも、天では神様の喜びがありました。
私たちも、この男の子のように、囲いの外にいる人たちに、素晴らしい福音を伝えましょう。そして、囲いの中で、共に主を喜び、礼拝をする者とさせていただきましょう。
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