今週の金曜日に、山形刑務所で、教誨師の総会が行われました。山形刑務所では、イエス様の愛を伝えるために、毎週「キリスト教の集会」行われています。
私が、山形に来て、最初の頃、山形六日町教会の神崎先生に誘われて、山形刑務所のクリスマス会に出席しました。
真っ暗な、体育館に、100人位の人が集まっていましたが、その一人一人に、ろうそくを配って、前の人から、ろうそくの光りを灯して、全員にろうそくの灯が広がっていきました。
すると、暗い体育館が、明るくなって、イエス様が「世の光」として来られた事を、感じて、感動したことを、今でも忘れることが出来ません。
今は、受刑者が多くなり、犯罪も重くなったので、ローソクの火を灯すことは出来ませんが、山形刑務所の人たちが「世の光」である、イエス様を、暗い受刑者の人たちの心の中に迎えて、輝いて生きて欲しいと心から願っています。
今日の中心の御言葉は、3~5節です。
「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
ある日、弟子たちが道を歩いていると、道ばたで物乞いをしている目の見えない人がいました。
その目の見えない人を見た弟子たちが、イエス様に質問をしました。
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
当時は、体に障害がある人は、神様に犯した罪の罰を受けていると考えられていたのです。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。それが、今日の中心の御言葉です。3節
「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
こうおっしゃってから、イエス様は、地面につばをはいて、泥でこねて、その目の見えない人の目に塗りました。そして、「シロアムの池で洗いなさい。」とおっしゃいました。
「いったいどういうことだろう。」とその人は不思議に思いましたが、イエス様が言われた通りに従おうと、シロアムの池に目を洗いに行きました。
するとどうでしょう。生まれて初めて、周りの景色がはっきりと見えるようになったのです。
答えは、②この男の人は、町の人たちに、「イエス様が、私の目を見えるようにしてくださいました。」と伝えたのです。
大喜びで歩いているその人を見て、近所の人たちはびっくりしてしまいました。中には「そっくりだけど、別の人だよ。」と言う人までいました。それくらい、信じられないようなことが起こったのです。けれども、目を治していただいた人は、「私ですよ。目が見えなくて、物乞いをしていた、あの私ですよ。」とはっきりと言いました。何が起こったのかを聞く人たちに、イエス様がしてくださったことを、全部説明をしました。
その人を知っている人たちは、みんな「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」 と言って驚きました。「どうして、見えるようになったのですか。」と聞くと、その男の人は「イエスという方の、言われる通りにしたら、見えるようになったのです。」と自分の起こったことを話しました。
あの目の見えない人は、イエス様を信じて、イエス様の言われるとおりしました。すると、目が見えるよう担った時、その喜びを町中の人たちに伝えました。
私たちも、イエス様を信じて、光の中を歩ませていただきましょう。そして、イエス様の事を喜びをもって、多くの人たちに伝えましょう。
この御言葉から、2つのことをお話ししたいと思います。
(1)わたしは世の光である
4~5節
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
イエス様は、生まれつき目の見えなかった人の目に、どろを塗って、「シロアムの池に行って、洗うように」と言いました。その男の人がその御言葉通りに従って、目を洗うと、目が見えるようになりました。
一度も見たことの世界が、見えるようになったのです。真っ暗な世界が、光りに変わったのです。喜びに満たされた、その男の人は、イエス様の事を、町の人やファリサイ人にも伝えました。
そして、それは、ただ、目が見えるようになっただけではなく、暗い心に光りが与えられたことを現しています。
私たちの心の中が、どんなに暗くても、「わたしは光りである」とおっしゃるイエス様を信じて、イエス様を心の中にお迎えするなら、神様は、必ず、私たちの暗い心を明るく照らしてくださるのです。
ある村に一人の魚を捕る漁師がいました。気性は荒く、決して弱音を吐くような人ではありませんでした。
けれども、心の奥では、どこかに本当の安らぎを求めていたのですが、それをどうしても得ることが出来ませんでした。そこで、お酒を飲んでごまかしていました。そして、大漁でお金が入ると、そのお金で賭け事をして、楽しんでいましたが、そこにも本当の喜びはありませんでした。
ある日、我に返って、なんとかしなければ思ったときには、もう遅くて、どうしてもお酒や賭け事から、抜け出すことは出来ませんでした。
そんなある日、この人は、漁をするために出港したのです。ところがその日、天候が崩れ、大変な嵐になってしまいました。そして、嵐のためにエンジンの一部が止まってしまいました。もうだめか、と思ったその時です。岸の方に真っ赤な十字架の光が見えたのです。それは、教会の屋根の上に立てられた十字架でしたが、その光をめざして真っすぐに進んで行ったのです。
彼が、気が付いたとき、教会の中に横たわっていました。教会の人が、海岸に打ち上げられた漁師さんを助けてくれたのです。教会の人たちは、あたたかく迎えてくれ、温かい食べ物を食べさせてくれ、看病をしてくれたのです。
それから、この人は教会に通うようになり、あの嵐の日に見た、十字架の光は、私の罪のためにイエス様が命を捨てて下さった十字架だということを信じて、バプテスマを受けたのです。そして、今までどうしても得られなかった、本当の平安をいただいて、世の光として、イエス様を証しをするようになりました。
人生の嵐の中で、苦しんで来た一人の人が、一本の十字架の光によって救いへと導かれたのです。
イエス様は「わたしは、世にいる間、世の光である。」とおっしゃいました。
私たちの人生も、船の航海に似ています。あるときは、穏やかな凪のときもあれは、嵐の日もあります。そのような中で、私たちを、闇から光りへと導いて下さるのが「まことの光」であるイエス様御自身です。このイエス様をしっかりと見上げ、心から信じて従って行きましょう。
(2)神の栄光が現されるため
弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見て、
「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 と聞かれました。
その時にイエス様は、こう答えられました。3節
「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
私たちが、病気になったり、弱さを持っているのは、私たちが罪を犯したからではありません。その事を通して、神様の栄光が現されるためです。
アメリカの第26代大統領は、セオドア・ルーズベルト大統領です
1858年に、アメリカのニューヨークのある家庭に、一人の男の子が生まれました。その男の子は生まれつき目が悪くて、まっすぐ歩くことが出来ませんでした。それに、ぜんそくで、すぐ前にあるロウソクの火を消すことも出来ませんでした。その男の子が11歳になった時、お父さんがこう言ってあげたそうです。
「愛する息子よ。あなたが持っている障害は障害ではない。もしあなたが全能の神様を心から信じ、いつも信頼して、また、神様の助けがあなたと共にあるならば、かえって、あなたはその障害のゆえに、人々から注目されることが出来る。そして、あなたは歴史に刻まれる軌跡を残す素晴らしい人生を生きることが出来るよ」
この男の子は、素晴らしい信仰者であるお父さんの教えに従って、神様を信頼する信仰者に成長していきました。
そして、23歳で、ニューヨーク州の議会議員になりました。28歳になった時、ニューヨーク市長選挙に出馬し、その後、ニューヨーク州の州知事になりました。そして、アメリカの副総理大臣を経て、アメリカの中で一番暗い時代に大統領になり、国を再建することが出来たのです。
そして、1906年、彼はノーベル平和賞を受賞したのです。
神様は、お父さんが11歳の時に話してくれたように、彼の障害を、神様の栄光を現すために用いてくださったのです。
3節です。
「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
神様は、私たちを愛しておられます。そして、どうして、私だけがこのような、苦しみや悲しみ、悩みを追わなくてはならないのか解らないようなことを通しても、神様の栄光を現してくださるお方です。
その神様を信じ、信頼して、私たちを通して、神様の栄光を現われるのを見せていただきましょう。
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