今日は、4:1~17を読んでいただきましたが、この聖書の箇所には、最初と、最後に杖のことが書かれています。
この杖というのは、羊飼いの杖で、モーセは、ミデアンの地で、40年間、羊の群れを導いて来たのです。
そして、この杖は、信仰の杖でもあります。これから先、イスラエルの民を導くのに、この信仰の杖を取って、しるしを行いなさいと命じられるのです。
今日の中心の御言葉は、17節です。
「 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
そして、「この杖を取って」という題で御言葉を取り次ぎます。
3章で、神様は、イスラエルの民の苦しみを知られ、彼らの叫びを聞かれました。そして、イスラエルの民の救いのために、モーセを選ばれたのです。神様はモーセに現れ、神様が奇跡を行って下さるので、イスラエルの民が必ず、エジプトを脱出することも約束されました。
しかし、モーセは、その神様の御声にすぐに従うことは出来ませんでした。理由は、いろいろ挙げることが出来ると思います。
まず、40年前にモーセは、自分の力で同胞を救おうとして、エジプト人を殺して砂の中に埋めてしまうという大失敗をしてしまったのです。そのために、エジプトの地を追われたモーセは、ミデアンの地で40年間、羊飼いとして過ごします。
40年間、羊飼いとして、過ごす中で、過去の王子としての栄光も名誉も財産もすべてを失ってしまいました。人間的に考えると、「すべてを失ってしまった、わたしに何が出来るでしょうか。」と言っても不思議ではないと思います。
そこで、モーセは、神様に3つの質問をしました。
まず第一は、自分自身についての質問でした。3:11
「モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
この質問に対して、神様は3:12で
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」 「あなたが何者であろうと、わたしは必ずあなたと共にいるから大丈夫だ。」と主の臨在の約束をもって答えられました。
そして、二番目は、神の名についての質問でした。13節
「モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
その質問に対しては、14節で
「わたしはある。わたしはあるという者だ」 神様こそが、永遠の昔から永遠の未来まですべてを支配しておられるお方であるという意味の「わたしはあるという者だ。」とその名をお示しになりました。
そして、三番目の質問と答えが、今日の聖書の箇所に書かれています。
三番目の質問が4:1に書かれています。
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのです。
(1)神様が、モーセを遣わされたことを表す3つの奇跡
その質問に対して、神様は、3つの奇跡をもってお答えになります。
①モーセの持っている杖が蛇に変わる奇跡
神様はモーセに「あなたが手に持っているものは何か」と聞かれました。モーセが「杖です」と答えると、「それを地面に投げよ」と命じられました。モーセがその御言葉通り杖を地面に投げると、それが蛇になったので、モーセは飛び上がって驚きました。
次に神様が「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われたので、尾をつかむと、それが、また杖に変わったのです。
FBマイヤーは、この蛇のことをサタンやエジプトの象徴と考えてこう言っています。
「モーセが、主が命じられた通りに勇気を出して行いさえしたら、ファラオを始め彼に従うすべての祭司たち、それにエジプト帝国の全軍団が、このようにモーセの意のままになる。」
この奇跡を見せられて、神様は、モーセにこうおっしゃいました。5節をご覧下さい。
「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」
神様は、この蛇が、モーセの手の中で杖になる奇跡を通して、必ずエジプトに対して勝利を得られるという確信を与えようとされたのです。
②重い皮膚病の奇跡
神様は、続いて2番目の奇跡を起こされます。「あなたの手を、ふところに入れなさい。」モーセが主が言われる通り、手をふところに入れて出してみると、驚いたことに、その手が重い皮膚病にかかっていたのです。
神様が「手をふところに戻すがよい」と言われて、手をふところに戻して出してみると、元の肌に戻っていたのです。
重い皮膚病というのは、奴隷状態にあるイスラエル人を表しています。その重い皮膚病が、元通りになるというのは、イスラエルの民が、そのような時計状態から神様の力によって、イスラエルの民は、元の自由な民として解放されることを意味しています。
そこで、神様は8節でこうおっしゃいます。
「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。」
③ナイル川の水が血に代わる奇跡
杖と、重い皮膚病の二つの奇跡は、イスラエルの民を納得させるには、十分なものでした。しかし、もしそれでもモーセの言うことを信じないならば、第3の奇跡を行うと言われました。
それは、モーセがナイル川から水を汲んで来て、それを乾いた土地に注ぐなら、その水は渇いた土地の上で血に代わるという奇跡です。
エジプトに住む人々にとって、この奇跡は大きな意味を持っていました。ナイル川は、エジプトでは豊作をもたらす、神聖な川であり、神のように礼拝されていました。神様がこの川の水を地に変えられるということは、神様がエジプトの偽りの神を打たれることを意味しています。
神様は、この3つの奇跡を行うことによって、神様御自身がエジプトの軍勢とその神々を打ち砕く力を持っておられるお方であり、ついに、イスラエルの民が解放されることを示されたのです。
この神様が使命を与えて下さるなら、私たちにとって、恐れる必要はありません。神様がすべての敵を打ち砕いて下さるからです。
このような素晴らしい3つの奇跡を与えられたモーセにとって、必要なことは、ただ一つ、この神様の約束に従って立ち上がることでした。
(2)モーセに語るべき言葉を教えてくださる神様
神様は、3つの奇跡を通して、エジプトに対する徹底的な勝利の約束をモーセに与えられました。
しかし、モーセは、それでも神様に従うことが出来ませんでした。
その理由は、自分が雄弁ではないということです。10節
「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」というのは、モーセが雄弁ではなく、とつ弁だと言って、神様の召命を断ろうとします。
モーセは、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」 と神様からの召命を再び、断ってしまいましたが、私がそのような経験をしたように、私たちが、神様から、教会学校の教師や、伝道者として召される時、「私は、口べただから」と言って、断ってしまったことがなかったでしょうか。
しかし、神様は、弱く足りない者を用いて、大きな、素晴らしい御業を行われる方なのです。
神様は、モーセを励まされてこう言われました。11~12節をもう一度ご覧下さい。
「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
「口が重く、舌の重い」とモーセは言って、大切な使命を断りましたが、その口は、誰から与えられたのですか?また、その舌は誰が下さったのでしょう。神様です。その神様が、私たちの口を、私たちの舌を必要としておられ、しかも「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」とおっしゃるのですから、ただ、従えば良いのです。
わたしは大学4年のときに、献身に導かれました。けれどもすぐに神様に従うことができませんでした。自分の弱さや足りなさを考えるととても牧師になることはできないと思いました。
そして、その時はすでに、私が希望していた、社会福祉施設の仕事が内定していましたので、あと半年この御言葉から逃げれば、自分の願い通りになると必死に、神様から逃げようとしていたのです。
何か月間か、こんな愚かなことをしていたのですが、逃げれば逃げるほど御言葉が迫ってきました。
ある朝のことです。デボーションをしている時に、今日のモーセのように、
「自分は、みんなの前に出ると緊張してしまうし、口べたなので牧師になることは出来ません」と祈っていると、今日の聖書の箇所が、その日の日課だったのです。
11~12節をもう一度ご覧下さい。
「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
そのように御言葉が私に語られているという経験を何度もして、献身に導びいてくださった主に心から感謝しています。
「主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」
先週は、ペンテコステを迎えましたが、あの時、二階座敷で「心を合わせて熱心に」祈っていた弟子たちに、炎のような舌が一人ひとりに降った時、弟子たちは、一度も他国の言葉で話したことがなかったのに、あの時は、イエス・キリストの十字架と復活の福音を、そこに集まっていた外国人に、その国の言葉で伝えたのです。
神には、何でもできないことはありません。私たちに、口を与え、舌を与えて下さった神様は、私たちの口や舌を用いて、神様の素晴らしい御業を成してくださるお方なのです。
(3)助け手を与えられた神様
モーセは、この神様の励ましによって、モーセは納得して神様に従ったでしょうか。
そうではありませんでした。モーセは、13節で
「モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と言うのです。
神様は、モーセを励まそうとして、多くの奇跡と約束を与えられました。しかし、モーセはその大切な召命を受け入れることが出来なかったのです。
そこで、神様はモーセに怒りを露わにして、こう提案をされました。
14~15節
「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。」
「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と言うモーセに、彼は、雄弁な兄アロンを助けてとして与えられることを約束されたのです。
この提案によって、ついにモーセは、イスラエルの民を救い出すという召命を受け入れたのです。アロンは、モーセの大きな支えになりました。
二人には、それぞれ役割が決められていました。アロンは兄であるにも関わらず、あくまでも、モーセに仕えることでした。
神様は、まずモーセに語られます。モーセは、その言葉をアロンに伝えます。そして、アロンはその雄弁な言葉で、イスラエルの民に神の言葉を伝えたのです。そのようにして、神様は、モーセに必要な助け手を与えらたのです。
神様は、私たちが、弱さや足りなさを覚える時、御言葉やしるしをを持って、神様が共におられることを教えて下さいます。
それだけでなく、目に見える形で、必要な助け手を与えて下さるのです。
神様は、モーセに、助けてとして、雄弁な兄アロンを与えられたように、必要な時に必要な助け手を与えてくださるお方です。
最後に、神様は、モーセにこうおっしゃいました。17節
「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
神様は、モーセに羊飼いの杖を持って行くように命じられました。この杖というのは、神様の権威を象徴するものです。
「信仰こそ、旅路を導く杖、」と賛美をしました。この杖をもって旅をするということは、神様を信じる信仰を表しています。
今日は、イスラエルの民を救い出す召命を与えられたモーセが、何度もその召命を拒んでしまう姿を見てきましたが、一番大切で神様が望んでおられることは、純粋に、神様を信じる信仰です。その信仰さえあれば、如何なる戦いも、困難も乗り越えて、神様の勝利と救いの御業を見ることが出来るのでする
「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
信仰という杖をしっかりと持って、神様のなさる救いのしるしを見せていただきましょう。
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