教会の花壇に、スイセンとチューリップの花が咲いています。川上義也さんが、去年の秋に花壇を耕して、球根を植えてくださつたのです。
冬の間は、雪置き場になっていて、山のように雪が積まれていましたが、春になると雪が溶けて、ちょうどイースターの日に花を咲かせました。
今日の中心の御言葉はヨハネ20:27です。
「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
今日は、イエス様がよみがえられたイースターです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。そして、お墓の中に葬られましたが、それで終わりではありませんでした。三日目の朝、マグダラのマリアがイエス様のお墓に行くと、お墓の前に置いてあった大きな石が取り除かれて、イエス様はそこにはおられませんでした。イエス様は、よみがえられたのです。
マグダラのマリアは、「私はイエス様にお会いしました。」と弟子たちに伝えました。しかし、弟子たちは、そのことを信じることが出来ませんでした。
その日の夕方のことです。イエス様を十字架につけた人たちが、今度は、自分たちを捕まえに来るのではと、びくびくしていました。そこで、家の戸にはしっかりと、カギをかけて、家の中にとじこもっていました。
ところが、その時に不思議なことが起こったのです。そんな弟子たちの真ん中に、突然イエス様が立たれて、「あなたがたに平安があるように」とおっしゃいました。そして、御自分の両手と、わき腹をお見せになったのです。
そのイエス様の両手には、十字架にかれられたときの、傷あとが残っていました。
イエス様は、本当によみがえられたのです。心の中が悲しみで一杯だった弟子たちは、喜びで一杯になりました。
そんな弟子たちにイエス様は、もう一度「あなたがたに平安があるように」とおっしゃって、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」救い主イエス様の事を、伝える働きを弟子たちにお任せになったのです。
けれども、弟子の中で、一人だけいない人がいました。トマスです。
「私たちは、イエス様にお会いしたよ」と他の弟子たちが伝えても、どうしても信じることが出来ませんでした。そこでトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ってしまいました。
それから、8日後のことです。弟子たちがいる家に、もう一度イエス様が来られました。今度はトマスもそこにいました。イエス様は「平安があなたがたにあるように」と挨拶されると、イエス様は、トマスのところに近づいて、こうおっしゃいました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエス様の手とわき腹には、十字架の釘あとがありました。それを見たトマスは、本当にイエス様がよみがえられたことが解って、心の中に喜びが溢れました。
その時、トマスは、心からイエス様を信じて、「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。するとイエス様は、トマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
とおっしゃいました。
この聖書の御言葉から、2つのことをお話ししたいと思います。
(1)見ないで信じる人
29節
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
復活なさったイエス様は、40日間この地上におられて、弟子たちの見ている前で、神様の元へ帰って行かれました。
だから、私たちは、今トマスのように復活されたイエス様にお会いすることは出来ません。けれども、神様は、私たちがイエス様が救い主である事を信じられるように、聖霊を与えて下さいました。そして、聖書を読むと、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、3日の後によみがえられたことがわかるのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 とイエス様がおっしゃったように、聖書を通して、救い主を信じる人に、神様は罪の赦しと永遠の命を与えて下さるのです。
信仰についてヘブライ11:1にはこう書かれています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
信仰というのは、計算をすることではありません。神様に望んでいることを確信することです。そして、目で見て確認することではありません。また、見えない事実を確認することです。
上大岡キリスト教会・めぐみ保育園のためにお祈りをありがとうございます。
3月31日に、上大岡キリスト教会の引き渡し式が行われました。1年半前に横浜市の上大岡に100坪以上の土地が、教団に献げられました。
早速、上大岡プロジェクト委員会が立ち上げられ、どのような建物がこの土地にふさわしいのかを祈り求めました。上大岡は、横浜の副都心で、子どもたちがたくさんいます。特に、待機児童がたくさんいて、保育園が必要とされていました。
そこで、今までのような人を待っている伝道ではなくて、教会付属の保育園を開いて伝道すれば、毎日子どもたちが来ますし、その背後には家族もいるので、絶好の伝道の場になると考えたのです。
神様からビジョンをいただいたのは良いのですが、目に見える物は、何もありませんでした。保育園を開くにも、どうして開いて良いか解りません。お金もありません。そして、今年の4月開園という計画を立てましたが、その時は大工さんも見つかっていませんでした。
そのように、目に見えるところは、困難なことばかりでしたが、ただ、神様が与えて下さったビジョンだから、必ず成し遂げて下さるという信仰だけで、この業は進められていきました。
そのような中で、去年の秋に横浜市の小規模保育の認可を取得でき、かわかみ設計事務所が、一生懸命に働いて下さって確認申請を取ることが出来ました。大工さんの「菊地組」には、最初は「こんな短期間に建てることは出来ません。」と断られたのですが、社長さんが、去年の12月末に「やりましょう」と決断してくださって、大工さんが一生懸命に働いて3月中に完成することができたのです。
やがて、園長さんや保育士さん、調理師さんなど必要な人が与えられました。
そして、3月31日に、銀行から融資をいただき、その日に支払いを済して、1日の狂いもなく、次の日の4月1日から、めぐみ保育園が開園して、12人のお友だちが通っています。
引き渡しの日、未信者の菊地組の社長さんが「これは、神業です」と言われたのが印象的でしたが、まさに、信仰によって、上大岡キリスト教会・めぐみ保育園が建てあげられたのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 神様は、信じる者を必ず祝福してくださるお方です。
今度は、山形南部教会!と願う者ですが、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と私たちにも語りかけておられるのではないでしょうか。
「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」(詩編81編1節)
信仰を持って素晴らしい神様の大きな祝福に与る者とさせていただきましょう。
(2)わたしの主、わたしの神
20:27で、よみがえりのイエス様がトマスに現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
と言われた時、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。そして、トマスは、その告白通りに、イエス様を「わたしの主、わたしの神」として、イエス様に心から従ったのです。
その後、トマスがどうなったのかははっきりと解りませんが、外典に「トマス行伝」と言うのがあって、そこには、トマスの伝記にあたることが書かれています。
それによると、イエス様が昇天なさった後、弟子たちは、くじを引いて世界のどこに伝道をするかを決めました。そして、トマスがくじを引いたところ、トマスはインドに行くことになりました。
最初、トマスはインドに行くことをことわりました。
「自分は長い旅をするほど、体が丈夫ではありません。それに、私はヘブル人です。その私がどうしてインドに行って説教をすることが出来るのですか。」とトマスは言いました。 すると、その晩、イエス様は、彼のところに現れました。そして、こう言われたのです。 「恐れるな。トマス。インドに行ってそこで、御言葉を伝えなさい。わたしの恵みがあなたと共にあるのだから。」
その御言葉を聞いたトマスは、長い旅をしてインドに行きました。そして、インドで多くの人々に宣べ伝えたのです。
今でも、インドに行くと南インドに「聖トマス教会」が立っています。トマスは、このインドの地で殉教の死を遂げたと言われています。
疑い深いトマス、弱く、臆病なトマスがこのようなすばらしい働きが出来たのは、言うまでもなく、よみがえりのイエス様に出会ったからでした。
トマスに現れたイエス様は、今日も私達に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」「見ないのに信じる人は幸いである。」と言われます。
私達も、よみがえりの主に出会ったトマスが、「わたしの主、わたしの神よ。」とイエス様を主として従って行ったように、主の証人として立ち上がらせていただきましょう
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