今日から受難週が始まります。今日は、イエス様がエルサレム入場された日で、民衆が、棕櫚の葉を振りながら「ホサナ」「ホサナ」と賛美しながら迎えたことから、棕櫚の聖日、パームサンデーと呼ばれています。
そして、木曜日には、最後の晩餐が行われ、金曜日に十字架につけられるのです。
受難週は、イエス・キリストが私達の罪のために十字架にかかってくださったことを覚え、聖書を読み、祈りの時を持つ大切な時です。
山形南部教会では、水曜日に受難週祈祷会を行い、金曜日に十字架礼拝と、洗足式を行います。そして、日曜日には、喜びのイースターを迎えます。ぜひ、御参加下さり心からの礼拝をささげましょう。
今日の、中心の御言葉は、26~27節
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
十字架の死ほど恐ろしいものはありません。ローマの兵隊でさえも、身震いをせずに、十字架刑を眺めることは出来ませんでした。ある聖書学者は「最も残酷、身の毛のよだつ刑」と言っています。
十字架刑というのは、もともとペルシャの死刑の方法だったと言われています。このような死刑の方法が行われるようになったのは、ペルシャにとって、地面は、神聖な場所なので、罪人や悪人の死体で、それを汚すことがないようにと考えたからです。
犯罪人は、十字架に釘づけられ、そこに放置されたままで死んでしまいます。そして、その死体をハゲタカやハシボソガラスが、その死体を食べるのです。
そのような、考えるだけでも、身の毛のよだつ恐ろしい死刑を、ローマ人がペルシャ人から受け継いだのです。
しかし、ローマ人は、ローマの市民権を持っている人に対しては、こんな残酷な十字架刑を行うことはできませんでした。十字架刑に処せられるのは、奴隷や反逆者に対してだけだったのです。
イエス様が、死なれたのは、そのような、世界でもっとも恐ろしい死刑、奴隷や犯罪人だけが受ける十字架刑に処せられたのです。
なぜ、神の子である聖なるイエス・キリストがこのような十字架刑にかけられなければならなかったのでしょうか。それは、私達の罪のため、私の罪のためでした。十字架で命を捨ててくださるほどに、私達一人ひとりのことを愛してくださっているのです。
今日は、その十字架の聖書の御言葉から、主の御声を聴かせていただきましょう。
(1)十字架の主は「王の王、主の主」であることを現された
「されこうべの場所」は、十字架刑の行われた場所で、エルサレムの城壁の北西にあります。その丘の形が「しゃれこうべ(頭蓋骨)」に似ていたことから「されこうべの丘」ゴルゴダと呼ばれるようになったのです。
この時、三本の十字架が立てられました。イエス様の十字架が真ん中に立てられ、左と右に強盗が十字架につけられました。
イエス様が、真ん中に置かれたと言うことは、この三人の囚人の中で、一番刑が重いことを表していました。
この十字架を見た時、誰もが、イエス様の無力さを感じ、当時の祭司長や律法学者たちの力、また当時イスラエルを支配していたローマ帝国の力を思い知らされたに違いありません。
しかし、今日の聖書の箇所を読むと、こんなむごい、恐ろしい、最悪の罪の中でも、神様は、素晴らしい御自身の愛の業を成就された事が解ります。
19~22節をご覧下さい。
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。」
当時は、十字架刑が執行される時、罪状書きと罪人の名前が掲げられるのが慣例になっていました。ですから、ピラトは、イエス様の十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と十字架の上に掲げたのです。
これは、彼らにとってみれば、神様への冒涜を現すものでしたし、大きな皮肉を込めた罪状書きでした。
しかし、神様はこの罪状が書きをも用いられて、むしろイエス様を崇め、真理を示す言葉となったのです。イエス様こそが「ユダヤ人の王」ユダヤ人は全世界の救いのために神様から選ばれた民ですから、イエス様こそが「全世界の王の王」です。
そのことを思う時に、本当に不思議な神様の摂理を感じます。
ユダヤ人たちは、この言葉を不満に思い、「この男は「ユダヤ人の王」と自称した」と書いてくれて言います。
ところが、ピラトは、その訴えを退けて、そのままにしておけと答えました。そして、そのことが永遠の真理を表すことになったのです。
ヨハネによる福音書を書いた、ヨハネにとってキリストの主権ということは大きなテーマですが、その最も大切なテーマがあの十字架上で、しかも、十字架上に掲げられたあの罪状書きによって明らかにされたのです。
『ナザレの王、ユダヤ人の王』
イエス様こそが、霊なるイスラエルの王であり、栄光の王です。
次ぎに20節をご覧下さい。
「イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」
ここに「ユダヤ人の王」と言う言葉が、「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」という3つの言語で書かれたことが記されています。
おそらく、このような罪を犯すことのないようにと、見せしめとして、そこに集まっていた全ての人たちに理解できるように、3つの言葉で罪状書きが書かれたのでしょう。しかし、このことで、十字架に架かられた主イエスこそが、王の王、主の主であることを、全世界の人々に伝えることになったのです。
Oまず、ヘブライ語というのは、旧約聖書の原語で、宗教の代表です。
O次に、ギリシャ語というのは、ギリシャ哲学などが生まれた場所ですから、学問の代表です。
Oそして、最後に、ラテン語が使われていた、ローマは当時ヨーロッパを支配していた国ですから、権力をあらわしています。
この言葉が表しているように、イエス様は、宗教の王、学問の王、権力の王、まさに全人類の王、万物の王としてこの地上に来られたのです。
フランスの皇帝、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が言った「我が輩の辞書には、不可能という文字はない。」と言う言葉は有名ですが、一時は、世界を征服するほど、勢力を広げていきました。
しかし、このナポレオンも、晩年、その勢いは衰え、最終的に敗北し失脚した時に、彼の往年の世界征服を思い出してこう言ったそうです。
「アレキサンダー、シーザー、シャルマーニュー、そして予は、偉大な帝国を建設した。我々は何に依存して、それを成しえたのか。我々は武力に依存したのだ。
しかし、何世紀か前に、イエス・キリストは愛の上に帝国を作りたもうた。そして、今日に至るも、おびただしい人が、彼のために死をもいとわないのである。」
この世の帝国や権力は、それは、どんなに力のあるものであったとしても、やがては滅んでしまいます。
しかし、イエス・キリストは王の王、主の主です。
そして、十字架の愛によって建てられた神の国は決して滅びることはないのです。
(2)十字架の主は、旧約時代から預言されていた救い主
23~24節
「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」
十字架を執行した兵士は、多分4人いたのでしょう。
イエス様が十字架にかけられた後で、イエス様の着ておられた衣服を、4つに分け合うことになりました。ところが、その下着は一枚になっていたので、「これは裂かないで、くじ引きで決めよう」と話し合ったのです。
なんということでしょうか。神の子であるイエス様が、十字架にかけられて死の苦しみを味わっているのに、その十字架の下で、兵士たちは、着物を分け合い、くじを引いているのです。私たちは、ここを読んでどんでもないことだと思います。
ところが、このことが昔から預言されていたことを成就することになったのです。
24節の「 」で書かれているのは、詩編22編17~19節(P853)の引用です。
「犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」
この詩編は、紀元前1000年頃に書かれたものです。ところが、この預言通りのことがイエス様の十字架上で、成就されたのです。
イエス様が、十字架にかかわれる1000年も前に、十字架の下で、兵隊たちが、着物を奪うためにくじを引くことが預言されていたと言うことは、本当に驚くべきことです。
主イエス・キリストこそが、旧約の時代から約束された、私達の救い主なのです。
(3)十字架の主は、人と人とを愛で結び会わせてくださるお方
26~27節
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
イエス様が、十字架につけられた時、その十字架の側に、4人の女たちがいました。
イエス様の母マリアと、母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアです。
そして、弟子たちは、みんな逃げてしまいましたが、たった一人だけ、十字架の側にいた弟子がいたのです。それが、イエス様の愛する弟子ヨハネでした。
イエス様は、大変な十字架の苦しみの中にありながらも、残される母マリアとヨハネのことを心配されたのです。
そして、まず母マリアに向かって、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」 とおっしゃいました。それから、今度は、ヨハネに向かって、「見なさい。あなたの母です。」 と言われました。
それを聞いたヨハネは、27節に、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」 と書かれています。
イエス様は、神様の愛を私たちに与えてくださっただけではなく、私たちが互いに愛し合えるように、人と人とが愛し合えるように愛によって結び合わせてくださるお方です。
十字架は縦の木と横の木で出来ています。そのように、イエス様は、十字架の贖いによって、神様の愛を与えてくださって、神様との関係に和解を与えてくださっただけではなく、私たちが隣り人を愛することが出来るように横の愛も与えてくださったのです。
そして、神様が、神様と人間との架け橋としてイエス様を派遣してくださったように、人と人との架け橋として私たちを遣わされるのです。
岩沼市の仮設住宅で、三浦綾子読書会を行ってきました。仮設住宅で、キリスト教の伝道集会を行うことはできませんが、三浦綾子の文学には、イエス・キリストの愛が書かれており、三浦綾子さんの生き方そのものが、キリストの愛に生かされた素晴らしい証しです。
今日の聖書の箇所は、母と子をキリストの愛で結ばれた愛が書かれていますが、キリストの愛で結ばれた夫婦の姿を、三浦綾子さんと、光世さんに見ることができます。
綾子さんがまだ、結婚する前の話です。三浦綾子さんが、靴を虫干ししていると、小さな姪が「この靴は誰の?」と聞きました。綾子さんが、「おばちゃんのよ。」と答えると、姪は不思議そうに「足があるのにどうして歩かないの?」と聞きました。綾子さんは、病気のために長い間歩くことが出来ず、姪は、綾子さんが歩くことのを見たことがなかつたのです。そう言って、姪が帰って行った後、綾子さんは、自分が動けないことをひどくみじめに感じました。
そんな綾子さんに、三浦光世さんがプロポーズをしたのです。綾子さんは、体が悪いことと、自分には、肺結核で天に召された前川正さんという恋人がいたことや、彼のことが忘れられずに、お骨と写真を枕元に置いていることを打ち明けました。
ところが、光世さんは「あなたは、あの人に導かれてクリスチャンになったのです。私たちは、前川正さんによって結ばれたのですよ。前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょう。」と言うのです。
そして、帰る時に「わたしの命をあげても良いから、綾子さんの病気を治してください。」と祈ってくれたのです。この祈りに綾子さんは驚きました。自分は「かわいそうに、あの人の苦しみを変わってあげたい。」と人に同情することは出来ても、「わたしの命をあげても良いから、綾子さんの病気を治してください。」とは祈ることは出来ないと思ったのです。
光世さんは、「私たちは、前川さんによって結ばれたのですよ。」と言いましたが、実は、前川さんを救ってくださった、キリストの愛によって、三浦綾子さんと光世さんは結ばれたのです。
結婚後も、光世さんは体の弱い綾子さんを、支え続けました。この愛に支えられて、あのような素晴らしい数々の小説が誕生したのです。
私たちは神様から、一方的な愛で愛されています。その愛が、あのカルバリに立てられた十字架にあらわされています。
けれども、それだけではありません。私たちは、そのイエス様の愛によって、人とゆるしあい、和解し、互いに愛し合う者としてくださるのです。
私たちは、今日から受難週を迎えます。この受難週に、イエス・キリストの十字架を見上げましょう。そして、イエス様の愛に満たしていただいて、互いに愛し合う者とさせていただきましょう。
今日は、十字架にあらわされた3つのことをお話ししました。
(1)十字架の主は「王の王、主の主」
(2)十字架の主は、旧約時代から預言されていた救い主
(3)十字架の主は、人と人とを愛で結び会わせてくださるお方
十字架にかかられたイエス様は、私たちの人生に最善のことを成してくださるお方です。
そして、私たちを十字架で命を投げ出すほどに愛して下さっているばかりか、私たちに互いに愛し合う愛を与えて下さるお方です。
このイエス様を心から信頼して、互いに愛し合う者とさせていただきましょう。
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