今日は、合田正司兄と丹羽音彩兄、治面地学兄の転入会式が行われます。
主にあって、私たちはひとつです。
そして、今日読んでいただいた聖書の箇所は、パウロが、フィリピの教会に送った手紙で、キリスト・イエスによって、ひとつであって欲しいという心からの願いが書かれています。
今日の中心の御言葉は1~2節です。
1~2節
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
今日読んでいただいたフィリピの信徒への手紙2章1~11節には、フィリピの教会に起こった教会内部に起こった不一致の問題にの解決のために、一致の勧めが語られています。ここにパウロの行き届いた配慮を見ることが出来ます。
パウロは、キリスト者が心を一つにしていることを心から願っていました。
そして、これはイエス様の心からの願いでもあります。
そのことが1~2節に書かれています。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
特に2節には「同じ思いとなり」「同じ愛を抱き」「心を合わせて」「思いをひとつにして」と教会が一致してほしい、心を事つにして欲しい、というパウロの気持ちが4つの言葉で、繰り返し語られています。
けれども、残念なことに、教会内部に信徒間の不一致があることがパウロの耳に聞こえてきました。そのことが、フィリピの信徒への手紙4章2~3節にありますので、開いてみましょう。(P365)
わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」
ここに「エボディア」と「シンティケ」という人が出てきますが、彼女たちは、フィリピの教会で、執事として働いていたようです。そして、二人とも熱心に神様に仕える人達で、かつては、パウロと一緒に働いた人達でした。彼女たちは神様のためにと一生懸命に働いたのですが、やり方や、考え方が違って、残念なことに仲間割れをしてしまったのです。
マルチン・ルターは「教会は赦された罪人の集まり」だと言いました。私たちは、確かにイエス・キリストの十字架の血潮によって罪は赦されていますが、やはり、罪深い、弱い者の集まりです。ですから、教会といえども、いろいろな問題が起きてきます。
けれども、福音にふさわしい教会となるためには、不一致の問題は、何としてでも取り除かなければなりません。
そこで、まず、パウロは教会の一致について教えているのです。
(1)教会が一致するために
まず、教会の不一致になる原因は何でしょうか。
3節に「何事も、利己心や虚栄心からするのではなく」とあります。
ここに二つの不一致の原因が書かれています。
一つは「利己心」です。これは、自己中心、党派心、野心とも訳される言葉です。自己中心な人々は、自分の考えや意見に固執して、自分の味方を作ろうとするので、教会を分裂させてしまいます。
もう一つは「虚栄心」です。この言葉は、根拠のない誇り、うぬぼれ、メンツばかりを気にして見栄を張るという意味があります。
フィリピの教会では、そのような「利己心と虚栄心」が、福音にふさわしくない教会にしてしまい、教会の一致を妨げていたのです。
パウロは、そのような、フィリピの教会に、その不一致を取り除き、解決を与えるために二つのことを勧めています。
これは、私達の教会にとっても、また信仰生活の中でも本当に大切なことですので、心に留めたいと思います。
①へりくだること
3節をご覧ください。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、」
後半に「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさい、とあります。
エフェソ2:10には、こう書いています。(P353)
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」神様は全ての人を、最高の作品として創られました。そして、神様は全ての人を愛しておられるのです。
そのような神様の目でわたしたちが、隣人を見ることが出来るとしたらどうでしょうか。一人一人が、最高の作品ですら、相手に心から「へりくだって、相手を自分よりも優れた者と考える」事が出来るのではないでしょうか。そして、お互いが、相手を自分よりも優れた者と考える事が出来るなら、本当にうるわしい一致が生まれていきます。
②互いに愛し合うこと
4節をご覧ください。
「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
パウロは、教会の一致のために二つのことを勧めました。
一つは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」、もう一つは「めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」ということです。
けれども、どうでしょうか。わたしたちは、この御言葉を、実際に自分の力で守ることができるでしょうか。
「へりくだって、互いに相手よりも自分よりも優れた者と考え」なさい。
とありますが、現在は、人を蹴落としてでも、良い大学に入り、良い就職をし、自分が優れた者になろうと、みんなが必死になっています。その様な中で、私たちクリスチャンも少しでも、人よりも上に立ちたいと思ってしまいます。この世にあって「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」て生きるということは、大変なことです。
また「めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」とありますが、忙しい世の中で、自分のことだけで精一杯で人のことなど構っていられないという思いになってしまうこともあるのではないでしょうか。
そのように、私たちの心の中の「謙遜」や「愛」というものには、限りがありますし、本当に不完全な者です。
そのような不完全で弱い、私たちに、神の子であるイエス・キリストが、その愛と謙遜の模範を示してくださったのです。
(2)イエス・キリストの模範
6~8節をご覧ください。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
有名な笹尾鉄三郎という先生がおられましたが、この先生は、この聖書の箇所に7段階のへりくだりがあらわされていると言いました。
①「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」②「かえって自分を無にして」③「僕の身分になり」④「人間と同じ者になられました。」⑤「人間の姿で現れ」⑥「へりくだって」⑦「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた。」
ここに、「愛」と「謙遜」の模範があります。
神が人となってくださったと言うことは、神様が、私達と同じように悲しみ、悩み、試練を経験してくださったということなのです。ここに、イエス・キリストの「愛」と「謙遜」の模範があります。
偉大な神様が、一切を投げ出して、私達の救いのためにこの地上に来てくださったのです。7つのへりくだりをもってイエス様はくだって来られました。ですから、笹尾先生は「神は、このイエス・キリストをその死のどん底から、七つの高挙をもって、引き上げられたのだ。」と言っています。
このイエス様を模範にして、互いに愛し、互いに仕え合って素晴らしい教会を建てあげていきましょう。
年会のために、お祈りをありがとうございました。
今回の年会は、黒木安信先生が2月23日に天に召された後の年会でしたので、どの先生も黒木先生の思い出を語られました。
年会の中で、3人の方が発題をしてくださいましたが、その中で、日田シャローム教会の辛島先生が、遣わされる時、黒木先生からいただいた言葉を紹介してくださいました。
「遣わされた教会を日本一の教会と思いなさい。遣わされた教会の信徒を日本一の信徒と思いなさい。」そして、続いてこう言われました。
「教会を愛し教会に仕えなさい。人を愛し人に仕えなさい。では、人に仕えるとは、どういうことでしょうか?それは、その人がイエスに出会うために、何をすべきか祈り、行動することです。」
実はこの言葉は、辛島先生が遣わされる時だけではなく、黒木先生が、いろいろな場所で語られた言葉です。私が遣わされる時にも、お話しくださいました。
私は、この言葉をときどき、思い起こします。そして、私が遣わされた「山形南部教会」は日本一の教会だと思っています。また、山形南部教会の教会員は日本一の教会員だと思っています。
正直言うと、そう思えない時もありますが、でも、そんな時にこの黒木先生の言葉を思い出して、もう一度、山形南部教会は日本一の教会、山形南部教会の信徒は日本一の信徒だと思います。
「遣わされた教会を日本一の教会と思いなさい。遣わされた教会の信徒を日本一の信徒と思いなさい。」
そして、本当にその通りだなと思うのです。
なぜなら、教会は神の家族だからです。家族というのは、世界中探しても他にはいないのです。世界にたったひとつしかないかけがえのない存在だからです。
そして、家族は、みんな完璧な人達ではありません。弱さや足りなさを持っています。けれども、それをありのままでいられる場所、そして、そのありのままの相手を受け入れて、愛し合い、仕え合っていくのが家族ではないでしょうか。
今日、3人の方々の転入会式が行われますが、3人の方々にお伝えしたいことがあります。それは、神様が山形南部教会に導いてくださったということは、あなたにとって山形南部教会は日本一の教会だということです。そして、ここにいる山形南部教会の信徒は、日本一の神の家族だということです。そのことを信じて、キリストにあって、互いに愛し、仕え合っていきましょう。
そして、イエス様こそが、私たちの最高の模範です。イエス様の十字架を見上げながら、互いに愛し合い、仕え合って、世界一の教会として、キリストの愛を証しさせていただきましょう。
5節をご覧ください。
「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
この御言葉は、文語訳清書では
「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ。」と訳されています。
イエス様の模範についてみてきましたが、イエス様こそが、謙遜、愛、栄光を神様に帰す模範です。そして、そのイエス様を心の王座にお迎えするときに私たちも「キリスト・イエスの心を心」とするものと変えていただくことが出来るのです。
そして、そこにこそ、本当の教会の一致があるのです。
このイエス様を心の王座にお迎えして、「キリスト・イエスをの心を心」とする者とさせていただきましょう。
(3)神をたたえるため
9節をご覧ください
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
ここに、「このため」とありますが、それは、イエス様の七つのへりくだりをあらわしています。けれども、イエス様は、御自分が高くされることを期待してそうしたのではありません。イエス様は、御自分をどこまでも低くされたのです。
神様は、そのようなイエス様を祝福し、三日の後によみがえらせてくださいました。そして、キリストにあらゆる名にまさる名を与えられたのです。
そして、このことは、私たち全人類に与えられた素晴らしい恵みです。
イエス様が、よみがえられただけではなく、イエス・キリストを信じる私たちにもそのよみがえりの命によって、永遠の命を約束してくださったのです。
エフェソ2章4~7節(P353)
「 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」
イエス・キリストの十字架と復活によって、チリのようなこの私たち罪人が、イエス様と共に、天の高きに座することが出来るのです。
私たちがこれだけ努力をしたからとか、難行苦行をして修行を積んだからとかいうことではありません。ここに、「――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」
神の子である、イエス・キリストが十字架の死に至るまでへりくだってくださった、その十字架の死によって、ただ一方的な恵みによって私たちは救われたのです。そして、イエス様がよみがえられたように、私たちもイエス様と共に「天の王座に」つかせていただけるのです。
3月13日午後7時17分に、小関文雄さんが眠るように天国に召されました。その顔は、本当に天国行かれたのが解る、平安な顔をしておられました。、15日に前夜式、17日に告別式が行われました。その中で、小関文雄さんが、22歳でイエス・キリストを信じてから60年間の信仰の歩みが証しされました。
そこで、まだイエス様を知らない御遺族の方々が、讃美歌を歌い、小関文雄さんの愛唱聖句、ヨハネ3:16の御言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」を通して、神様の愛に触れ、永遠の命への希望を知ることが出来たのです。
そして、その小関文雄さんの姿を通して、私たちも最後まで信仰を全うして、天国で愛する小関文雄さんや兄弟姉妹とお会いしたいという思いを強くされました。
小関文雄さんは、82歳で天に召されましたが、それで終わりではありませんでした。イエス様が、十字架で死なれた後、3日目によみがえられたように、私たちにも、永遠の命を与えて下さったのです。
それは、十字架と復活の主が褒め称えられるためです。
1~2節
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
どこまでも、私たちを愛し、仕えられたイエス様を模範として、私たちも互いに愛し、互いに仕え合って、「心を合わせ、思いを一つにして」素晴らしい教会を建てあげていきましょう。
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