先週の13日金曜日に、山形南部教会の名誉役員の小関文雄兄が、天に召されました。
82歳、信仰を持たれてから60年の信仰生活を全うされて、見事に天国に凱旋されました。
けれども、天に送った私たち、特に御家族や御遺族の方々には、別れの寂しさや辛さがあります。主の豊かな慰めがありますように、心からお祈りをしましょう。神様は、小関さんを選んで下さって、この生涯で、豊かな実を結んでくださいました。
そして、神様は、私達をクリスチャンとして選んでくださり、豊かな祝福を与えてくださいます。それは、私達が出ていって実を結ぶためです。
そのことが、今日呼んでいただいた、ヨハネによる福音書15章16節に書かれています。これが、今日の中心の御言葉です。
16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエス様は、ここで弟子たちに向かって「 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 とおっしゃいました。
これは、私達にも語られている言葉です。
みなさんの中には、自分で神様を求め、自分で教会に来て、自分で決心をしてクリスチャンになったと思っておられる方がおられるかも知れません。けれども、実はわたしたちが選んだのではなく、神様御自身が、恵みと愛の故に私達に近づき、私達を選び、私達を救ってくださったのです。
エフェソ1:4にはこう書かれています。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
ここに私達の信仰の確かさがあります。
私達がもし、神様を選んだとしたら、「本当にこれで良いのだろうか」といつも不安が残ります。なぜなら、私達人間は不完全だからです。
しかし、全知全能の神様が私達を選んでくださったのですから、決して間違いがありません。確実なものなのです。
イエス様は、弟子たちに向かって「 わたしがあなたがたを選んだ。」 と言われました。そして、11~17節には、イエス様が、選ばれた私達に望んでおられることが書かれています。
3つのことをお話ししたいと思います。
(1)私達は愛されるために選ばれた
11節
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
イエス様は、まず、選ばれた私達が、喜びに満たされることを望んでおられます。
イエス様が与えてくださる喜びは、どんな状況の中にあっても決して失われない永遠の喜びです。
イエス様は、この時、十字架を前にしておられました。そのような中にあっても、喜びを持っておられたのは何故でしょうか。それは、どのような状況の中に置かれても、父なる神様が、決して変わることのない永遠の愛で愛しておられたからです。
そして、その愛は、イエス・キリストの十字架によって明らかにされました。
13節をご覧ください。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とありますが、イエス・キリストは、私達の罪のために十字架にかかって命を与えてくださいました。そして、今のもこれ以上大きな愛はない愛をもって私達を愛してくださっているのです。
私達の救いのために十字架で命を捨ててくださったイエス様、そればかりか、罪に打ち勝ち、死に打ち勝ってよみがえられた、イエス様が私達と共にいてくださるのです。
そのイエス様を見あげる時、私達の心は、喜びで満たされるのです。
「主において喜びなさい。」
置かれている状況は、どうであったとしても、主はあなたを愛しておられます。それも「これ以上ない愛」をもって愛しておられるのです。その主を見あげましょう。そして、私達一人一人が喜びに満たされていく時に、私たちは、豊かな実を結ぶことが出来るのです。
私達が愛し合う前に、イエス様は、私達のことを最高の愛をもって愛しておられます。
13節
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
ここに「これ以上に大きな愛はない。」とありますが、この御言葉に表されているように、神の子であるイエス・キリストは私達の救いのために十字架で命を捨ててくださいました。
「これ以上に大きな愛はない。」 イエス様は、私達を最高の愛をもって愛しておられます。その愛を、神様からいただいて、互いに愛し合うことをイエス様は私達に望んでおられるのです。
今年は、戦後70年を迎えます。終戦を迎えるために、広島や長崎の大きな犠牲がありました。1945年8月6日、広島に原爆が落とされました。
20万人のいのちが失われ、被爆した多くの人々が病院に運ばれました。
その中で、「お産だ!」という声が上がったのです。
皆自分のことで精一杯の中、「私をそこに運んでください。私は助産婦です」という声が聞こえました。その時、女性自身も、全身被爆していました。
「そんな重傷では無理だろう」と忠告する人もいましたが、彼女の願いで産婦の元に運ばれました。
しばらくして、「おぎゃあ!」という赤ちゃんの泣き声がしました。
その声を聞くと同時に、彼女は息が絶えたのです。そして、残念なことに、その赤ちゃんの母親も、彼女に続いて死んでしまったのです。
しかし、この生まれた赤ちゃんは、すくすくと育っていきました。
2人の犠牲の上に生かされた彼は、このように語っています。
「ぼくは両親の顔を見たこともないが、ぼくが生きているという事実は、ぼくに両親があった証拠だ。同じように、ぼくは神の御顔を見たことはないが、この美しい自然を見ただけでも、この宇宙を造られた神がいることを否定することができない。原爆の日、母は重傷の中でぼくを産み、助産婦さんも重傷の中で出産を助けてくれた。ぼくには母の愛と神の愛が二重に注がれているのを感じる。だから、ぼくは、この人生をおろそかにできない」
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
イエス様は、これ以上に大きな愛はない最高の愛をもって、私達を愛しておられます。そのキリストの愛に満たしていただいて、互いに愛し合うことによってキリストを証ししましょう。それが、イエス様が私達に望んでおられることであり、一番大切な命令です。
(2)私達は友人として選ばれた
13~15節
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
イエス様は、弟子たちに向かって、僕とは呼ばず、友と呼ぶと言われました。
このように、イエス様は、私達に対しても、僕とは呼ばずに友と呼んでくださるのです。
昔、ローマの宮殿には、王様が特別に選んだ人々がいたそうです。彼らは、王の友とか、皇帝の友と呼ばれていました。そして、普通の人は、様々な手続きを踏まなければ王様に会うことは決して出来ないのですが、彼らはフリーパスで王様と会う特権が与えられていたのです。そればかりか一日の初めに王の寝室に行くことさえ出来たのです。
そして、王様は、将官や政治家たちと話す前に、まず、友である彼らに相談をしたというのです。
その王様の友が与えられた特権を、イエス様は、イエス様と私達の関係にも与えてくださっているのです。
イエス様は、弟子たちに語られたように、わたしたちに対しても「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 と語りかけてくださっているのです。
イエス様は、私達を、イエス様の友、神様の友、と呼んでくださっているのです。何と素晴らしいことでしょうか。
こんなに罪深く、弱く、救われるに価しない、わたしに対して「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と言ってくださるのです。
私達は、主人のもとに近づくことの出来ない奴隷のような存在ではないのです。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
いつでも、どこでも、神様のところへ行くことの出来る友としてくださったのです。
ヘブライ4:14~16
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
イエス様は、私達を今日も友として招いておられます。大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
私達を友と呼んでくださるイエス様と共に歩むことが、私達は豊かな実を結ぶ秘訣です。
(3)私達行って、実を結ぶために選ばれた
16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエス様が、私達を選ばれた理由として、(1)愛されるため(2)友と呼ぶためということをお話ししてきましたが、(3)は、私達が出て行って、豊かな実を結ぶため。
16節には、イエス様が弟子たちを任命した理由が二つ書かれています。
①あなだかたが行って実を結ぶため
イエス様は、実を結ぶために、弟子たちを選ばれました。それと同じように、イエス様が私達を選んでくださったのは、実を結ぶためなのです。
キリストの愛を伝えるための唯一の道として、イエス様は私達クリスチャンを選ばれたのです。
そして、人々をキリスト教の信仰へ導く唯一の道は、クリスチャンの生活の実を示す以外にないのです。
私達の周りの人々は、私達の信仰生活の中で結ばれる実によってイエス様を知るのです。
ガラテヤ5:22~23節には、。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」とあります。このような御霊の実を心と生活の中で結ばせていただきましょう。
デール博士がこう書いています。
「あなたがたが、家庭で、職場で、街頭で、いつもキリストの書であることを覚えて欲しい。だれがあなたがたを読んでも、キリストを知ることが出来るように、あなたがたの心、習慣、品性の上に、キリストの心をあらわしなさい。」
聖霊に満たしていただいて、豊かな実を結ばせていただきましょう。
②祈りに答えてくださるため
16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエス様は、私達が、喜びの実を、愛の実を、友になる実を結ぶことを望んでおられます。
しかし、私達自身には、そのような実を結ぶ力がありません。
ぶどうの枝は、枝だけでは実を結ぶことが出来ません。枝は幹につながってこそ、栄養分を得、生き生きと葉を開き、花を咲かせ、実を結ぶことが出来るのです。
そのぶどうの枝と同じように、私達自身には、御霊の実を結ぶ力はありません。愛がなく、力がなく、忍耐力のない本当に弱く足りない者です。
しかし、そのような弱さや足りなさを覚える時、私達が祈ることが出来るということは、何という恵みでしょう。そして、祈る時に、神様が、その祈りに答えてくださって、ぶどうの枝が、その幹から実を結ぶために十分な栄養が注がれるように、主イエス様が「実を結ぶ」ために必要な力を与えてくださるのです。
小関文雄さんは、82歳の生涯を終えましたが、小関さんは、豊かな実を最後まで、結び続けました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」(使徒16:31)にあるように、小関さんが信仰によって家族みんなが救われて、家族4人で礼拝に出席されました。
また、教会の名誉役員として、教会に仕えられ、教会のために最後まで祈り続けてくださいました。
また、超教派では、パレスグランテールのチャペルウェディング「エルシオンの会」の事務を1993年10月から、2000年6月まで、一番最初の大変な立ち上げの働きをしてくださいました。その働きを通して、一度も讃美歌を聴いたり、福音を聞いたことのない人達が、結婚式を通して、神様の愛に触れたのです。
そして、これは、娘の忍さんから、聞いた話ですが、小関さんは、最後は、寝たきりになり、ひと言も話せなくなってしまいましたが、それでも、証し人として用いられたのです。
忍さんは、毎日のようにお見舞いに行っていましたが、部屋で讃美歌を聴いたり、聖書を読んだりしていると、小関さんの部屋にやって来た看護婦さんが、ある教会の求道者の方で、エレベーターの中で「あの~クリスチャンですか。」と声をかけてくれたそうです。
また、小関さんのお見舞いに、私たちが行った時、讃美歌を歌って、聖書を開いてお祈りをしました。帰ろうとすると、その隣の洗面所で洗い物をしていた看護助士の方が、小関さんと讃美歌と祈りを歌っている姿に感動して、涙を流して泣いていました。小関さんがそこに入院していたからこそ、その看護婦さんは讃美歌や祈りを聞くことが出来たのです。忍さんは「主がお入り用なのです。」ということは、こういうことですね。と行っていました。
何のひと言も、話せなくても、小関さんの存在が、キリストを証しし、実を結んでいたのです。
16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
神様が、私達を通して、喜びという実を、愛という実を、そして友となる実を結ぶために私達を選んでくださいました。その神様に、私達は、ここから遣わされていくのです。まず、ここでキリストの愛を祈り求めて、愛に満たされて遣わされていきましょう。
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