今日は、武先生に「感謝の歌をうたって」をリクエストしました。この曲は、2006年の山形南部教会の年間聖句で、詩編100編に武先生が曲をつけて下さり、今でも良く賛美しています。
この御言葉から、今日は主の御声を聞かせていただきたいと思います。
詩編100編は、大胆に感謝をあらわし、確信を持って人々をの礼拝へ招いている詩編です。1節に小さな字で「賛歌。感謝のために」と書かれていますが、この詩編は、巡礼の民が、感謝の供え物を持って神殿に入ろうとする時に歌われた歌だったようです。 この詩編を3つに分けて、お話しをしたいと思います。
(1)全知に響き渡る賛美(1~3節)
1~3節は、長い旅をして神殿の門に入ろうとしている巡礼者たちが歌った詩編です。
まず、1節をご覧下さい。
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。」
ここに「全地よ。」と書かれていることに注目して下さい。
巡礼者達は、神の恵みを体験して、その恵みの感謝を携えて、神殿に礼拝を捧げるために入ろうとしています。おそらく、彼らの心は喜びと感謝で一杯だったのではないでしょうか。
けれども、自分たちだけではなく「全地よ。主に向かって喜びの叫びをあげよ。」と歌っているのです。
先週の金曜日、山形カトリック教会で、世界祈祷日が行われました。
世界祈祷日は、1887年にアメリカの女性たちによって、移住者や抑圧されている人たちを覚えて祈ることから始まりました。その後、2度の世界大戦を経験し、和解と平和を求める祈りへと、教派を超えて広がりました。そして、現在は170の国や地域で、3月の第一金曜日に祈りが献げられています。
日本では、1932年から、第二次世界大戦中を除き、毎年開催され、今年も61カ所で祈りがささげられました。
今年も、世界祈祷日に参加させていただきました。そして、世界中のプロテスタントとカトリックの壁を越えて、賛美と祈りが献げられている賛美と祈りに心を合わせて、深い感動を覚えました。
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」
神様は、「全知よ」と全ての人を礼拝に招いておられるのです。
心からの賛美を主にお捧げしましょう。まず、私達から主を賛美し、私達の心がいつも賛美と感謝に溢れるものとさせていただきましょう。そうするなら、その賛美の輪は広がっていき、私達の周りにいる多くの人達が、神様の愛を知ることが出来るのではないでしょうか。
「主に向かって喜びの声をあげ」賛美によって多くの方々をキリストに導く者とさせていただきましょう。
(2)主こそ神である(3節)
3節をご覧ください。
「知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民。
主に養われる羊の群れ。」
3節には、私達が感謝を献げるお方がどのようなお方であるのかが、歌われています。
①主こそ神である。
3節の初めに、「知れ、主こそ神であると。」あります。神様は私達をご自身の姿に似せて造られました。
パウロはエフェソ2:10で「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」 と書いています。
口語訳聖書では、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」と訳されています。私たち一人一人が、神様から造られた最高の作品なのです。何という恵みでしょうか。神様は、私達を造ってくださり、宝物としてくださったのです。
武先生は、2000年に、小国フォルケ・ホイスコーレを始められました。武先生は、弱い人たち、例えば、不登校の学生や、社会の中になかなか溶け込めないような人達に、寄り添って、一緒に生活をしてこられました。
最初は、鶏小屋を改築して、そこで、生活を共にするという形で始まりました。その内、土日は家に帰るようになったり、一緒に生活するのではなくて、家から一歩も出られない子どもたちに所に行って、一緒に時を過ごすようなこともあったと伺いましたが、とにかく、一人の人を大切に、この15年間素晴らしい働きをしてこられました。
神様は、イザヤ書43章4節で「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とおっしゃいました。そのことを、武先生は身をもって、弱さを持っている人達に伝えてきたのです。
「知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。」
私たちを最高の作品として作って下さった神様は、私たちの事を心から愛しておられるお方です。そのお方を、心からの感謝をもって賛美いたしましょう。
②主は私達の羊飼い
3節の後半
「わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。」
神様は私達を造られ、私達をその民とし、私達を「羊の群れ」としてくださいました。
ダビデは詩編23編で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 と歌っています。
そして、私達を「羊」に譬えるのは、旧約聖書だけではありません。新約聖書の中でも用いられています。
ヨハネによる福音書10章11節でイエス様は、御自分のことを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃっています。
神様は、私たちを愛しておられ、たくさんの恵みを与えて下さっています。
羊飼いが、羊を緑の牧場に連れて行って食べさせ、水をやるように、私達に生活に必要なものを与えて下さっています。そればかりか、私達の霊を養って下さるために、御言葉を与えて下さり、私達の祈りを聞いて下さっておられるのです。
また、羊飼いが、体をはって敵から羊を守るように、私達を全ての危険から私達を守り、私達を悪魔の誘惑から遠ざけて下さいます。
そして、何よりも「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とあるように、イエス様は私達の罪のために十字架で命を捨てて下さって私達を救って下さったのです。そのイエス様のあがないによって私達の全ての罪が許され、永遠の命が約束されているのです。
その神様が与えてくださった恵みを一つずつ数えるときりがありません。
そして、その恵みを一つずつ数えると、私達の心に感謝が溢れるのではないでしょうか。
私達を造って下さったお方、また羊飼いのように、私達を愛し、守り、導いて下さり、私たちのために命まで捨ててくださったお方に心からの感謝をおささげしましょう。
(3)感謝と賛美への勧め
4~5節は、巡礼者の賛美を受けて、神殿の聖歌隊が賛美をする場面です。ここで、聖歌隊は感謝と賛美をもって主の大庭に入ることを勧めています。
4~5節をご覧ください。
「感謝の歌をうたって主の門に進み、
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は、代々に及ぶ。」
神様は、私達に感謝の供え物を携えて、その大庭に入ることを望んでおられのです。
私達が、捧げる祈りの中で、感謝の祈りほど素晴らしい祈りはありません。
この世の物は、やがてなくなってしまいますが、神様の恵みと慈しみはとこしえに絶えることがありません。私たちは、この地上でも、また、この世の生涯を終えて、天の御国に行ってからも、永遠にこの神様を賛美する事が出来るのです。
私が、武先生のお父様、武祐一郎先生が、1月17日天に召されたことを昨日、小国フォルケ・ホイスコーレのホームページで知りました。
武祐一郎先生は、キリスト教独立学園の校長をされたこともあり、私の尊敬する人の一人でしたので、天に召されたことを伺い、本当に驚き、寂しい思いがしました。
しかし、先生の生涯の最後は、希望に満ちた輝かしいものだったとホームページの武先生の文章から知りました。そこには、武祐一郎先生の遺言により、キリスト教独立学園の卒業生に棺を担がれて、ヘンデルのメサイヤのハレルヤで旅立たれたと書かれていました。また、亡くなるその日に、お見舞いに駆けつけた、孫の直樹くんに「ありがとう」という言葉が最後の言葉になったことも書かれていました。賛美と感謝で人生が締めくくれるとは何と素晴らしい人生でしょうか。
最後に4~5節を読んでお祈りをしましょう。
「感謝の歌をうたって主の門に進み、
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は、代々に及ぶ。」
私たちを、最高の作品として造って下さり、私たちをこよなく愛してくださる神様。また、私たちの良い羊飼いとして、私たちの人生を導いてくださる神様。この神様の恵みと慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及びます。
この神様を覚えて、心からの感謝の歌と賛美の歌をおささげしましょう。
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