今年の年間聖句「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。」詩編81編11節
今月は、神様の祝福について御言葉を取り次がせていただいています。アブラハム、イサクの祝福について語らせていただきましたが、その次は、イサクの子ヤコブの祝福です。
今日は、神様が共にいて下さることを知ったヤコブのベテルでの経験について学びたいと思います。そして、来週は、ファミリー礼拝で、ヤコブのペヌエルでの祝福についてお話しします。
ヤコブは、イサクとリベカとの間に生まれた双子の兄弟の2番目で、エサウという兄がいました。ヤコブは、次男でしたが、どうしても長子の権利がほしくて、狡猾なやり方で「長子の権利」を奪ってしまいました。そのために、兄エサウの憎しみをかい、たった一人で逃げて、母リベカの故郷ハランに旅をしなければならなりませんでした。
10節に、「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。」とありますが、ベエル・シェバと言うのは、良く「ダンからベエル・シェバ」と言われるように、ダンはイスラエルの北の果て、ベエル・シェバはイスラエルの南の果てです。
ベエル・シェバからハランというのは、イスラエルの南の果てから北に向かい、イスラエルを縦断して、ダンからさらに200キロくらいあります。ヤコブはたった一人で、歩いて旅をしなければなりませんでしたから、大変な旅路でした。
今日読んでいただいた聖書の箇所は、その旅の途中のベテルで起きた出来事です。
今日の中心の御言葉は、17節です。
「そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
神様が共にいて下さる場所、それは、どんな荒野であったとしても、神の家であり、天の門であるということです。
今日は、10~22を読んでいただきましたが、この箇所を3つに分けて学びたいと思います。
(1)神様との出会い
ヤコブはこの時、全くの孤独でした。
だどりついた場所は人里離れた寂しい場所でしたので、本当に心細かったと思います。
それに、憎しみに燃えたエサウがいつ追いついてくるかわかりません。いつもおびえて、孤独と恐怖を感じていました。その上、これからのことを考えても不安がいっぱいでした。
ヤコブはこの時、自分の頼りにしていたものを全て失ってしまいました。そして、ヤコブが野宿をしたとき、誰ひとり自分のことを心に留めてくれる人はいないと感じていたに違いありません。
けれども、神様は、ヤコブを見捨ててはいませんでした。神様はそのような暗い夜に夢を通してヤコブに、主が共におられるということを示して下さったのです。
12節をご覧下さい。
「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
ヤコブか見た夢は、本当に不思議な夢でした。天まで達するはしごが地に伸びていて、そのはしごを御使いたちがそれを上ったり降りたりしていたのです。
ハシゴを少し思い浮かべて下さい。普通、ハシゴを立てるときは、下から上に立てますね。けれども、このヤコブのハシゴは下から上に立てられたものではなく、上から下に立てられたものでした。
これは、人間の側からではなく、神様の側から近づいて下さったことを現しています。神様は、私たちが孤独に悩むとき、暗い夜を過ごすとき、神様の側から近付いて下さるお方です。
神様は人間的には、全く孤独で、すべてのことに絶望しているヤコブに対して御自身をあらわされ、この荒れ野にあっても神様が共にいて下さることを示してくたったのです。
今、「イスラム国」に二人の日本人、後藤健二さんと湯川遙菜(はるな)さんが捕虜として捕らえられています。その内の一人、後藤健二さんは、日本基督教団 田園調布教会の教会員です。彼はフリージャーナリストですが、弱い立場の人を大切にし、寄り添って共に歩む人だと紹介されていました。
彼には、生まれたばかりの赤ちゃんがいましたが、その赤ちゃんを置いて、あの危険な「イスラム国」に出かけていったのです。どうして、そんなことをしたのかという質問に対して「捕らえられて命の危険にさらされている友人のことを考えると、助けに行かないわけには行かないと思った。」と答えたそうです。
その事が、クリスチャン トゥウデー に書かれていましたが、その見出しは、「国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜 」でした。
後藤健二さんは、いつも取材に出かけるときに、十数年前に教会の牧師から頂いたを手放さずに聖書を持って行くそうです。その聖書には、「神は私を助けてくださる」という、詩篇54:6の御言葉が書かれているそうです。
後藤さんは「この言葉を、いつも心に刻み込んで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険をも脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと信じています。」とインタビューに答えたそうです。
後藤健二さんは、命の危険の中で、共におられる「神は私を助けてくださる」ということを信じて忍耐しているのです。一刻も早い救出を祈りたいと思います。
ヤコブが、故郷から逃げて、神様からも見捨てられたと思っていた深い孤独の中で、神様はその御臨在を明らかにして下さったのです。
12節をもう一度ご覧下さい。
「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
私たちがどんなに孤独だと思うときにも、また、暗い旅路を歩むようなときにも神様は、いつもわたしたちと共にいて下さるのです。
ヤコブは、天使がはしごを上り下りしている夢を通してそのことを知りました。
(2)神様の約束
13~15節に、神様がヤコブに与えられた約束が記されています。 神様は、ヤコブと共におられるということを、夢を通して示してくださっただけではなく、言葉をもって祝福の約束を与えて下さったのです。 この約束を3つに分けて見ることが出来ます。
①この土地を与えるという約束(13節)
「見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」
ヤコブには、この時持ち物は全くありませんでした。そして、自分のより頼んでいたものを全て失ってしまったのです。そのようなヤコブに対して、一方的な恵みとして、今伏しているこの土地を主が与えて下さると約束を与えてくださったのです。
②子孫が多くなるという約束(14節)
「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」
この時、ヤコブはたった一人でした。そして、たった一人で深い孤独を味わっていたのです。けれどもそのようなやコブに対して神様は、「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって行くであろう。」と約束されたのです。
神様は、私たちと共にいて無限の祝福を与えて下さるお方です。
③わたしが共にいると言う約束(15節)
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
神様は、あなたと共にいて、あなたを決して見捨てないという約束をして下さいました。「わたしがあなたと共にいる。」これほど素晴らしい約束は他にはありません。
ヤコブは、眠りから覚めたとき、16節でこう告白しています。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
ヤコブは、父母を離れて、自分は一人だと思っていましたし、神様からも捨てられたのではないかと考えていました。また、ベエル・シェバを離れたときにヤコブは主からも見放されたと思っていました。
けれども、主はヤコブを見放されてはいなかったのです。そればかりか、今も神様はヤコブと共におられ豊かな祝福を約束して下さったのです。
神様は一つの場所にだけしかおられないおかたではありません。いつでも、どこでも共にいてくださるお方です。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
神様は、いつでも、どこでも、どんな情況の中でも共にいて下さるお方です。けれども、ヤコブはそのことを知らなかったのです。
わたしたちも、ヤコブと同じように神様が共におられるのに、そのことを忘れてしまうことがないでしょうか。
けれども、私たちがたとえ忘れてしまっても、神様は、決して私たちを忘れることはありません。いつでも、何処でも、どのような状況の中でも必ず私たちと共にいて下さるのです。
一昨日、東北ケズィックの決起祈祷会が、仙台青葉荘教会で行われました。
聖協団 宮城聖書教会の田中時雄先生が、メッセージを取り次いで下さいました。震災の時、先生の教会も被害に遭い、教会の一階部分が津波に浸かってしまい、先生は二階で生活をしたため、一週間行方不明になってまったのです。
次の日、何とか助かろうと、先生ご夫妻で津波の中を歩いて行きましたが、その内心臓がどきどきして、このままでは死んでしまうと思って、教会に戻ったのです。その時は、二人とも震えが止まらなかったそうです。それは、ただ寒いからだけではなく、死の恐れで、震えが止まらなかったというのです。
それに、津波の中を歩いた時に、脇腹を打ってしまい、肋骨が二本折れてしまったのです。3日目の夜、布団の中でその痛みに絶えきれずに、涙を流しながら「神様、どうしてこんなことになったのですか。」と祈っていた時に、十字架の主が、夢の中に現れたそうです。
その夢の中に現れたイエス様を見た時ハッと気付かせられたのです。「私は脇腹を痛めて苦しんでいるが、イエス様はあの十字架で、私たちの罪のために、苦しまれた。その苦しみに比べたら、私の苦しみは、取るに足りないものだ。」そう思った時、涙が止めどもなく流れたました。それは、苦しみや痛みの涙ではなく、感謝の涙でした。
それから、今日まで4年が経とうとしています。時々あの時の恐ろしい経験を思い出しては、うなされる夜を過ごすことがあったそうですが、十字架の主が共にいて下さるというあの時の経験が、先生を支え続けてくれたとおっしゃっておられました。
この神様が共にいてくださるということが分かったときヤコブは17節でこう言っています。
「そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブが、誰も住んでいないと思っていた、孤独な場所、真っ暗な場所が実は、「神の家」だったのです。
私たちの人生の中にもそのような荒野があるかもしれません。そして、そのような荒野の中で、私は神様からも人からも見捨てられたように感じることがあるかもしれません。
けれども、そのような人生にこそ、主が共にいてくださるのです。そして、神様が共にいて下さる場所が「神の家」なのです。
(3)神様への応答
ヤコブが、主に祝福の約束を与えられたときに2つの応答をしています。
①記念の柱を立てた。(18~19節)
「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。」
ヤコブは主が共にいてくださるという事を知ったとき、それを記念として、まくらにしていた石をたてて柱として、油を注いで聖別しました。そして、その地をベテル(神の家)と名付けたのです。
今日、神様は私たちと共にいてくださいます。その神様に対して、わたしたちはどのような記念の柱を立てることが出来るでしょうか。
その最も素晴らしい方法は、礼拝をささげることです。
日曜日に礼拝をするのは、金曜日に十字架につれられたイエス様が3日目の日曜日によみがえられらです。よみがえられたイエス様は、今も私たちと共にいて下さいます。そのことを心から感謝して毎週日曜日に礼拝をささげましょう。
②ヤコブの神様への誓い(20~22節)
「ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
これは、条件付の誓約のように書かれていますが、このヤコブの誓いは、はっきりとした「神様はこのことを成して下さる」という信仰告白です。
ヤコブは、神様が共におられること、そして、行く先々で主が守って下さるということを信じました。
そして、ヤコブの必要の全てを満たして下さることと、無事に父イサクの家に帰して下さることを信じました。
そして、主がわたしの神となって下さることを信じたのです。
神様がこのような素晴らしいことを成して下さると信じたヤコブは、主への礼拝とささげものをもって応答しました。(22節)にある10分の1と言うのは、10分の1が主の物であって、あとの10分の9は自分の物であるというのではなく、全てのものが、主の物であるという信仰告白です。ヤコブは、このように主が与えて下さった約束に対して、礼拝とささげものをもって応答しました。
今日も神様は私たちを愛しておられます。また、神様はいつも私たちと共にいてくださるのです。この神様に対して、私たちは何をおささげすることができるでしょうか。
新年が始まったばかりですが、ぜひ、お勧めしたいのが、十分の一の献金です。
神様は、十分の一の献金をする人を必ず祝福してくださいます。なぜなら、それが、聖書の約束だからです。
マラキ3:10(P1500)
「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」
私たちが、十分の一献金を献げるなら、その報いとして、「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」というのが神様の約束です。この素晴らしい祝福に私たち一人一人が与らせていただきましょう。
わたしの父から十分一献金の証しを聞いたことがあります。
父が十分の一献金を示されたのは、父が仕事を失って一番貧しい時でした。礼拝の中で、今お読みした、マラキ3:10が開かれたのです。そして、「神様わたしに仕事を与えて下さい。今度就職したら十分の一を主に献げます。」と祈っだのです。
神様は、その祈りを聞いてくださり、「ますや商事」という時計と宝石の卸問屋で、社長も従業員もみんなクリスチャンの会社に就職することが出来たのです。
最初の給料日、まず給料袋を開けると十分の一の献金を主に献げました。その日から、毎月毎月それを続けたのです。
その時から、不思議なように必要は満たされ、4人の子供を育て、マイホームも与えられ、この御言葉通り祝福された人生を過ごしました。
去年父は、天に召されていきましたが、私たちは、お金を天国に持っていくことは出来ませんが、何よりも天に宝を積むことほど、素晴らしいお金の使い方はないと思います。
新しい年、この素晴らしい祝福の中を歩ませていただきましょう。
わたしたちも、ヤコブのように主に心からの礼拝をささげましょう。また、すべてが神様から与えられたものです。そのことを覚えて、心からの感謝と喜びをもって、心からの献げ物をさせていただきましょう。そのようにして、全身、全霊を主におささげして神様の恵みにお応えし、いつでも、どこでも神様と共に歩んで行きましょう。
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