一昨日、みなさんに祈られて、上大岡プロジェクト委員会に行ってきました。上大岡は、横浜に次ぐ副都心で、大勢の人々が、歩いていました。
その、上大岡の駅ビルの中で、多くの人たちが通る、休憩スペースで委員会が行われました。
その後、駅から歩いて5分くらいの、建築予定地で祈祷会が行われました。みんなで、この地に教会が建てあげられ、多くの人々が救われるように、と熱心な祈がささげられました。そして、建築会社の「八木工務店」の社長さんや会社の方々が来られて、かわかみ設計事務所との打ち合わせが行われました。
いよいよ、10月末には、着工されることになりました。名前は、上大岡キリスト教会、保育園の名前は、めぐみ保育園です。この地に教会が建てあげられると、まだ、キリストの福音を知らない多くの人が、どれだけ、福音を聞き、救われることでしょうか。そう考えるだけで、胸がわくわくしてきました。
今日の中心の御言葉は、21節です
「それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。」
15~16章は、ローマの信徒への手紙の結びの部分です。15章は、この手紙の結びで、16章には、個人的な挨拶が、書かれています。手紙も終わりに近づいて、そして、パウロは心から、ローマに行きたいと願っていました。そして、パウロは、そのローマ行きの準備をしていました。
今日は、ローマ15:14~21を読んでいただきましたが、この箇所から3つのことをお話ししたいと思います。
(1)聖霊によって、聖なる者とされるため
14節で、パウロは、ローマの信徒に対して賛辞を送っています。
「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」
パウロが、今までローマの信徒への手紙で、書いてきた勧告の言葉は、ローマの信徒達が、未経験な、未経験で、幼稚な教会だからではありませんでした。
そうではなく、経験豊かな「善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに慰め合うことのできる」信徒であることを認めた上で、更に主が求めておられるクリスチャン、主が願っておられる教会に成長して欲しいと願って、15節では「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。」と書いています。
「記憶を新たにしてもらおうと、」というのは、パウロが今まで語ってきたことは、ローマの信徒の人たちにとって、クリスチャンの原点をもう一度思い起こして、記憶を新たにしてもらいたいということです。それは、信仰義認「人は行いによるのではなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって生きる」という教理を柱として、福音の真理を、
「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。」とパウロは言っているのです。
互いに、謙遜になって、相手の忠告を聞き、信仰の原点に立ち返ることは、本当に大切な事です。
ある牧師の集まりで、ある牧師がこういうことをおっしゃいました。それは、「自分のことを、本気で忠告してくれる牧師や信徒を大切にしなさい。牧師になると、特に年を取ってくると、本気で自分のことを、遠慮してしまって本気で忠告をしたり、しかったりしてくれる人が周りにいなくなってしまいます。それでは、自分の過ちに気がついたり、成長することができなくなってしまいます。だからこそ、愛をもって、忠告してくれる同労者は大切にしてください。」と言われました。
昔、イギリスでウィルバーフォースという政治家に、ある人が、一つのことについて忠告を受けました。
すると、彼は、ウィルバーフォースの言うことを良く聞いて、喜んでこう言ったそうです。「どうか今後も、お心気付きのことがあったら、ご指導をよろしくお願いします。 すると、忠告したウィルバーフォースも、同じ思いで「それは、私からも君に願いたいことです。どうか、何でもお気付きのことがあれば、ぜひ、忠告していただきたいと願います。」
このように、すぐれた人物とは、最も良く人の忠告を聞き入れる人です。最もすぐれた人物とは、海面が水を吸うように、出会う人々から、何事かを学ぶ人です。
私たちの目標は、何でしょうか。「心から願うのは、主のようになること」という賛美がありますが、キリストに似た者に変えられていくことです。それも、私だけが「キリストに似た者に代えられること」ではなく、すべてのクリスチャンが、「主のようになること」を神様は願っておられるのです。そのために、お互いに謙遜になって、愛をもって忠告しあえるお互いにさせていただきましょう。
15b~16節にこう書かれています。
「それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」
パウロは、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めて」いると言っています。それは、異邦人が、聖霊によって、聖なる者とされ、神に喜ばれる供え物となるためでした。
9月23日、山形聖化交友会聖化大会が大江町キリスト教会で行われました。郷家一二三先生が、御言葉を取り次いでくださいましたが、「聖潔」について、最初に二つの前提が大切だと言われました。
O一つは聖潔というのは、倫理的な清さではなく、神様の前にどのようなものであるのかが問われることだということです。もし、私たちが倫理的な聖潔を求めていれば、人との比較になってしまいますから、あの人は立派だとか、あの人は清くないと言って人を裁いてしまえことになってしまいます。
そうではなく、神様の御前に、自分が聖いものであるかを問われなければならないのです。
Oもう一つは、私たちは、イエス・キリストを信じた時から、すでに聖潔られているのだという先行恩寵についてでした。すでに、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって聖潔られているのです。
私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、救われました。それは、神様が与えて下さった一方的な恵みによるものでした。
聖潔もそれと、同じです。自分の行いや努力によるのではなく、ただ、イエス・キリストの十字架の血潮によって、聖霊の一方的な恵みによって聖められるのです。
その、聖潔の業が、ユダヤ人にも異邦人にも、すべての人に成されていくように、パウロは、「キリスト・イエスに仕える者」となり、「祭司の役を務めて」いると言っているのです。私たちも、自分の聖潔のために、恵みを求めなければなりませんが、すべてのクリスチャンがきよめられるように、互いに仕え合い、互いに祈り合う者とさせていただきましょう。
(2)神のために働く器
17~19b節
「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」
パウロは、ここで、自分を、神のために働く器であると理解していました。そこで、17~19節では、パウロは、自分が何をしたかを語っていません。そうではなく、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」とキリストがパウロを用いて働いて下さったことを語っているのです。
17節をもう一度ご覧ください。
「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」
パウロは、自分のためではなく、ただ、「神のために働くことを誇り」に思っています。と言っています。これこそが、きよめられた人の姿、キリストの弟子の姿です。
そして、その弟子がしなければならないことが、20節に書かれています。
「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」
パウロにとって、福音の告げられていない人々に福音を宣べ伝えることこそが、「神のために働くこと」であり、彼の使命であり誇りでありました。
パウロはⅡコリント4:7(P329)で、こう語っています。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
コリントの町は、当時、非常に繁栄した町で、金貨や銀貨を土の器に入れておくようなことがあったそうです。土の器、それは、壊れやすくもろい物ですが、その中に宝が入っていたのです。私たちも、土の器のように、弱く、足りないものですが、その器の中に、宝に勝る、聖霊が宿っていて下さるのです。何という素晴らしい恵みでしょうか。
D・Lムーディーは、アメリカの大衆伝道者ですが、自分の人生が変わった出来事がありました。
それは、ある集会での出来事です。、ある説教者が講壇からこう語りました。
「ただ一人が、完全に無条件で、自らを聖霊にささげるならば、一体その御霊は、彼を用いてどのような素晴らしいことをなされるだろうか。」
ムーディーは、この言葉を聞いた時、心の中にこの言葉が響きました。そして、その「ただ一人が」というその一人が、「なぜ、自分であってはいけないのか?」と自問自答しました。
そして、「完全に無条件で、自らを聖霊にささげるならば、聖霊が彼を用いて、素晴らしい御業をなしてくださる。」そのことを、この時ムーディーは、心から信じて、聖霊に自分のすべてを明け渡したのです。
その時から、聖霊がムーディーを用いて、素晴らしい御業をなされたのです。
ムーディーは、靴屋のセールスマンとして働いていた時に、献身に導かれ、学歴はありませんでしたが、誰にでも理解できる説教をする名説教家として用いられました。
ある日、連合王国の最高学府で説教した時のことです。彼の説教の英語文法の誤りにエリート大学生たちは、不満を漏らしはじめました。ところが、その場所に、聖霊が働かれ、リバイバル(信仰復興)が起こり、多くの人々が救われていったのです。
ムーディーには、特別な才能や知恵はありませんでしたが、神様が、完全に無条件で、自らを聖霊にささげたムーディーを用いて、リバイバルの業を行われたのです。
神様の御業が成されるのは、自分に何ができるのかを止めて、神が私を用いて何をなされるのかを考えはじめる時です。
神様は、私たちを用いて、何をしようとしておられるのでしょうか。ムーディーのように、完全に無条件で、自らを神様に明け渡して、聖霊に満たされて素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(3)キリストの福音をあまねく宣べ伝える
19b~21節
「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。」
これは、パウロの伝道方針を表した御言葉です。
ここに「エルサレムからイリリコン州まで巡って」と書かれていますが、イリリコン州というのは、マケドニアの北西部、アドリア海に面した地方です。
ですから、ここに書かれている、「エルサレムからイリリコン州まで」という地域は、途方もないほど広い場所です。パウロは、地中海地方の東半分に福音を宣べ伝えたことになります。
19節の後半に、「キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」とあります。
この御言葉を読みながら、山形南部教会の最初からこの教会の中心として支えてこられ、この会堂の土地建物をささげられた、鈴木長右エ門さんのことを思い出しました。
鈴木長右エ門さんが、救われたのは昭和5年の秋のことでした。山形の町を歩いていると、一つの看板が目にとまりました。それは、キリスト教の伝道集会のビラでした。
そのビラには、「何月何日より、旧山形新聞社二階講堂、講師は、多辻春吉牧師、入場無料、どなたでもおいでください。」と書かれていました。そのビラを見て、鈴木長右エ門さんははじめて、キリスト教の集会に出席したのです。会場には、人が一杯集まっていました。
そこで、長右エ門さんは、はじめて、福音を聞いたのです。
「それ神は、その独り子を賜うほどに世を愛し給へり、すべて彼を信じる者の滅びずして永遠の命を得んためなり。」(ヨハネ3:16)
講演の最後に、講師の先生が「この真の神様に救われたいと思う者は前の方に出てきてください。救われるようにお祈りをしてあげます。」と言われました。
長右エ門さんは、この時仏教徒でしたので、迷いました。しかし決心をして、私の真の神様は、この神様だと信じたのです。その時のことを長右エ門さんは、30周年記念誌にこう書いています。
「私はこれまで、たくさんの神々を拝んできましたが、今晩聞いた神様が本当だな。私が今まで探し求めてきた神は、この神様だと信じて大喜びで、悔い改めて入信したのであります。」
それから、教会に集うようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、教会ではいろいろなことがありました。
1942年に宗教弾圧があり、教会は解散させられ、別の教会に行くようになりましたが、それでも、信仰を持ち続けたのです。
宗教弾圧の後17年間の空白の期間がありましたが、1959年に黒田愛子先生が遣わされて、散らされた民が、もう一度集まって、山形南部伝道所が復興したのです。
その信徒の中心として、教会を支えてきたのが、鈴木長右エ門さんでした。最初は、信徒の家の一間を借りて礼拝が行われ、しばらくしてこの教会の隣の長屋を借りて六畳二間の長屋で集会が持たれました。そして、1976年に鈴木長右エ門さんが、自分の土地にこの教会堂を建てられたのです。
そこに、私たちが遣わされて、鈴木長右エ門さんと、一緒に礼拝をささげてきました。
晩年は、糖尿病のために、入院をされましたが、私が訪問すると、大変喜んで下さって、病床で礼拝をささげました。
すると、最後に、長右エ門さんが、ちょうど祝祷をするように、両手を挙げて、「神様、この福音があまねく山形の地に伝えられますように」と祈られたのです。「あまねく山形の地に福音が伝えられますように」という祈りは忘れることができません。
そして、鈴木長右エ門さんは天に召されましたが、今でも、その祈りは、祈り続けられ、山形県の全教会の祈り、全クリスチャンの祈りとして祈られています。
19b
「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」
私たちも、山形市に「あまねく」福音が伝えられていくように、主の証し人として用いていただきましょう。
続いて21節をご覧ください。
「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」
「 」のみ言葉は、イザヤ書52:15の御言葉の引用です。イザヤの時代に預言された御言葉が、パウロによって、実現されたのです。
そして、更に、パウロは、まだ福音を聞いたことのない地に行って、福音を宣べ伝え、教会を建てることを使命として、歩み出そうとしているのです。
アフリカ伝道で、有名なリビングストーンは、ロンドンの宣教師協会に宣教師を志願した時、「どこに行きたいのかね」と尋ねられました。
その時に、リビングストーンは、「前進できる限り、どこまでも」と答えたそうです。そして、彼は、福音が一度も伝えられたことのない未開の地、アフリカに導かれて、遣わされて行ったのです。彼が、アフリカに到着した時、彼は遠くに見える、何千という部落に取りつかれていました。そして、神の福音を、未だ聞いたことのない人たちに携えて、アフリカを巡り歩いたのです。そして、アフリカに福音が伝えられ、今でも各地でリバイバルが起きています。
今年、私たちに与えられた年間聖句は、マルコ16:15です。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
未開の地は、アフリカだけではありません。私たちの周りにも、福音を一度も聞いたことのない人たちが大勢います。その方々に、福音を伝えましょう。それは、自分の力ではなく、自分を完全に無条件でささげるならば、聖霊御自身が素晴らしい御業を成して下さるのです。
神のために働くことを誇りとして、すべてをおささげして、神様の御業を見せていただきましょう。
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