先週の金曜日から、今日まで、TEENS中高生のリトリート2泊3日で行われました。参加者は、少なかったのでが、教師スタッフが、中高生を愛し、中高生を誘ったり、仕えたりしている姿に、山形南部教会の将来の希望を感じました。
今日の中心の御言葉は、13節です。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」
15:1~6で、パウロは、福音は、ユダヤ人ためにも異邦人のためにも与えられたことを語っていますが、7~13節では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、共に、希望の源である神の栄光を表し、賛美する事が進められています。
(1)互いに相手を受け入れなさい。
7節
「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
パウロにとって、このローマの教会は、ユダヤ人も異邦人もすべての民が、主の栄光を表し、主を賛美する大きなビジョンの現れでした。なぜなら、当時ローマは、世界の首都と呼ばれるくらい繁栄した首都でありました。
よみがえりのイエス様が、弟子たちに聖霊を与えられる約束をされた使徒1:8には
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
とおっしゃいましたが、パウロは、地の果てというのは、まずローマだと考えていました。なぜなら、ローマは、世界に繋がる大首都で、多くの国々のこと人が、ローマに訪れていたからです。そこに、福音を伝えさえすれば、福音は「地の果てまで」広がっていくと信じていたのです。
そのローマに福音が伝えられ、教会が建てられて、今やその教会には、ユダヤ人だけではなく、世界のいろいろな国からイエス・キリストを信じる人が起こされて、礼拝をささげているのです。それは、パウロにとってどんなに大きな喜びであったことでしょう。
そのような、ローマの教会に対して、パウロは7節でこう語ります。
「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
強い者も弱い者も、ユダヤ人も、アフリカ人も、アジア人も、ヨーロッパ人も、すべての人が、「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」相手を互いに受け入れることこそが、神様の栄光を表すことになるのです。
教会には、人種的な差別が、様々な形で起こってきました。根本的には、人種問題でありながら、それがろこつに表されずに、信仰が強いか弱いかとか、食べ物のこととか、特定の日のことなどに、問題がすり替えられていたのです。パウロは、神様の栄光のために、このような過ちを犯さないようにと勧めているのです。
今回、TEESでは、ルカ15章から、聖研が行われました。そこには、迷子になった一匹の羊と、失われた一枚の銀貨と、放蕩息子のたとえ話が書かれています。
どれも、失われた一匹や、一枚の銀貨や、放蕩息子が、見つかって、大きな喜びがあったということが書かれていますが、今回、私が教えられたことは、その他の99匹の羊にも、また9個の銀貨にも、また放蕩息子の兄にも、同じ最高の愛が注がれ、かけかいのない、全く他には変わることのではない、存在だということを知らされたことです。
神様は、すべての人を分け隔てなさらず、愛しておられます。
だから、私たちも、イエス様が私たちを愛してくださったように愛し合い、イエス様が私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れ会いましょう。
大伝道者、ビリー・グラハムのことは、みなさんもお聞きになった事があると思います。そのビリー・グラハムが、アメリカで伝道集会に招かれました。
ところが、その地方は、人種差別が根強いところで、教会にも白人の席と、黒人の席が、仕切りで分けられていたのです。
それを見たビリー・グラハムは、会衆に向かってこう言いました。
「みなさん、私は、ここでキリストの愛を伝えることはできません。なぜなら、神様は、白人も黒人もすべての人を愛しておられるからです。」
そこで、そのクルセードを企画した教会は、黒人の席と、白人の席という仕切りを取り除いて、一緒に、ビリー・グラハムを通して、キリストの愛のメッセージを聞いたのです。そのメッセージが終わった時、黒人の白人もなく、キリスト・イエスによってみんなが一つになり、言葉を超えた肌で感じる愛が溢れていたのです。そして、みんなが、一つ心になって主を心から賛美したというのです。
「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
(2)すべての民は神を賛美せよ
パウロは、「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」ということを、8~9節で、具体的に語っています。
「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」
8節に「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。」 と書かれています。キリストは、アブラハムの子孫として生まれたユダヤ人でした。ですから、ユダヤ人の救いのために、イエス・キリストはこの地上にお生まれになられたのです。しかし、それは、ユダヤ人ためだけではなく、異邦人の救いのためでもありました。それは、神様がアブラハムを選ばれた時から、明らかでした。
創世記12:1
「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
2節に「祝福の源となるように。」とあります。アブラハムが選ばれたのは、アブラハムが祝福の源となるためでした。それも、3節に「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」とあるように、アブラハムの子孫ユダヤ人だけではなく、地上のすべての人々が祝福に入るために、アブラハムは選ばれたのです。そして、その子孫として、神の子であるイエス・キリストがお生まれになったのです。
すなわち、キリストは、割礼のある者、イスラエル人の中に生まれ、仕えられる者ではなく、仕える者となられました。キリストは、神の子であられましたが、自ら進んでしもべとなり、十字架の死に至るまで、御自分を低くされました。
それは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も、地上のすべての人々が、神様のあわれみによって救われるためです。そして、神様への賛美の大合唱が、全宇宙に響き渡るようになるためです。
パウロは、その地上のすべての民が、神を賛美する姿を、4つの旧約聖書を、70人訳のギリシャ語の御言葉を引用して語っています。
9節にある「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」 という御言葉は、詩編18:49の引用です。
そして、10節にある「異邦人よ、主の民と共に喜べ」という御言葉は、申命記32:43の引用です。
また、11節にある「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」 という御言葉は、詩編117:1の引用です。
そして、12節にある「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」という御言葉は、クリスマスによく読まれる聖書の箇所ですが、イザヤ書11:1と10節の御言葉の引用です。
イザヤ11:10には、こう書かれています。(P1078)
「その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
ここに、「すべての民の旗印として立てられ」と書かれています。イエス・キリストは、すべての人の旗印です。そして、地上のすべての人々が、この旗印を仰いで、希望が与えられるのです。
すべての民の旗印であるイエス・キリストを見上げて、地上のすべての人々とこころからの賛美をおささげしましょう。
(3)希望の源である神
13節
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」
今日の聖書の箇所は、希望の源である神に対する祈りで終わっています。わたしたちの神は、希望の源です。その神様に祈る時、神様は、必ずその祈りに答えてくださるのです。
希望の源である神が与えて下さる、3つの事が、ここには書かれています。
それは、希望と喜びと平和です。
①希望
13節の中には、希望という言葉が2回出てきます。一つは「希望の源である神」です。私たちの神様は、私たちの希望の源です。そして、もう一つは、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」とあります。神様は、私たちを「聖霊の力によって、希望に満ちあふれさせてくださる」お方です。
ローマ5:2~5
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
5:5の「希望はわたしたちを欺くことがありません。」 という言葉は、口語訳聖書では、
「希望は失望に終ることはない。」と訳されています。
自分を見ると、絶望してしまうことがあるでしょう。また、この世を見ると絶望としか思えないようなことがあります。しかし、私たち神様は、希望の源であり、聖霊の力によって、私たちを「希望にあふれさせてくださる」お方です。
笑い話ですが、ある教会で、大変な問題が起きて、緊急総会が開かれました。総会は、議長の祈りをもって始まりました。
「全能にして永遠なる神、そのみ恵みをすべての者に満たしたもう神」と祈りました。
ところが、たった今、そう祈った同じ口で、「みなさん、この教会の事態は全く、絶望的で、どうにもなりません。」と語ったというのです。
昔から、言われている言葉があります。それは、
「絶望的な事態は存在しない。ただ、それを絶望的にさせる人が存在するだけである。」
先週は、イギリスでスコットランドが独立するかどうかで、世界中が、注目をしました。
結局、独立反対が55%を超えてスコットランドはイギリスに留まることになりました。
そのイギリスで第2次世界大戦中に起きた出来事です。当時のイギリスの首相は、ウインストン・チャーチルでした。イギリスとフランスが連合軍として戦っていましたが、フランスが、降伏してしまったのです。イギリスは全く孤立した状況に置かれてしまいました。最も悲惨な状況の中で、イギリスの閣議が開かれました。チャーチル首相は、戦争に降伏した事態を説明しました。彼が話し終えると、深い沈黙が続きました。チャーチル首相は、一瞬祈りの姿勢をとって、意気消沈している同僚を見渡して、こう言ったのです。
「みなさん、わたしは、それはむしろ、私たちを鼓舞激励するものだと思っています。」
状況は最悪でしたが、キリスト者には、何者も滅ぼすことのできない希望があったのです。
その希望というのは、最悪の状況が襲ってきた時にも、神様が今もなお生きておられるという確信です。イエス・キリストは、どのような時にも変わることがありません。そして、その愛の神様は、私たちに必ず最善のことを成して下さるのです。そこにこそ、決して変わることのない愛があるのです。
②喜び
普通「喜び」という言葉は、人間の感情を表す言葉です。
国語辞典には、①嬉しく思うこと②楽しく思うこと③めでたいと思うことと書かれていました。どれも思うと書かれているように、その人の主観的なもですから、思うときもあれば、思わないときもあるという不完全なものです。
しかし、ここに書かれている喜びというのは人間の感情にまかせた、いいかげんな喜びとは違います。
この喜びとは、どんな場所でも、どんな時でも、決して変わらない喜びです。
イエス・キリストは、私たちの救いのために、あの十字架で命を捨ててくださいました。そればかりか、三日の後によみがえられて、今も変わらない永遠の愛をもって愛してくださっているのです。その変わることのないイエス・キリストの十字架の愛に目を向けるとき私達の心は喜びに満たされるのです。
ジョンウェスレーは牧師のサムエル・ウェスレーとスザンナ・ウェスレーの間には19人の子供が与えられましたが、その15番目の子供として生まれました。
ジョンウェスレーが中学生のことです。彼は勉強もよくでき、模範的だったので、いつも先生にほめられていました。でもそういうジョンを見ていた友達はおもしろくありません。いつの間にか仲間外れされるようになりました。けれども、ジョンはだまって耐えて、聖書を読み、祈り続けたのです。
ある日、寮の昼食の時間に、意地悪な上級生におかずを取り上げられてしまいました。食べ盛りのジョンにとってそれは本当につらいことでした。けれども、それでもジョンは黙ってそのおかずを毎日その上級生に取り上げられるのをがまんして、パンと牛乳だけの食事を続けたのです。
また別のある日のこと、ウィリアムという乱暴な生徒が、いやがらせをしてジョンの教科書を体育館の倉庫に隠してしまったそうです。授業が始まり先生に「教科書はどうしたんだい」と厳しい声で聞かれました。ジョンは何も言えずに黙っていると、他の友達が「さっきウィリアムが倉庫に中に隠すのを見ました」と言いました。それを聞いた先生は、ウィリアムをしかり、「もう学校にこなくてもいい」と退学を命じたのです。それを聞いた、ジョンはウィリアムをかわいそうに思って「先生違うんです。僕が教科書を倉庫に忘れてきたんです。ウィリアムのせいではありません。」と言ってウィリアムをがばったのです。そのためにジョンはむちで打たれて、教室の前に立たされてしまうことになりましたが、それでもジョンの心は喜びで一杯だったというのです。
ジョンは、苦しいときにも辛いときにも主を見上げて、友達を愛し続けました。そこに変わらない、喜びがあったのです。
希望の源である神様は、私たちが、どのような状況にあっても、喜びで満たしてくださるお方です。
③平和
これは平安とも訳される言葉ですが、神様が与えてくださる平和とは、どのような平和でしょうか。イエス様は、ヨハネ16:33でこうおっしゃいました。(P201)
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ある人が、二人の有名な画家を呼んで、「平安」という題で、絵を画いて下さいと依頼したそうです。
一人は、静かな湖畔を画いて、周りの森で、小鳥が鳴いているいかにも平和な絵を画きました。
しかし、もう一人の画家は、まずゴウゴウと流れる滝の絵を画きました。そして、その滝の真ん中に、一本の木が生えていて、その木にある巣の中で、安心して鳴いている小鳥の絵を画いたのです。
この二枚のうち、神様が与えて下さる平安とは、どのような平安でしょうか。
一枚目の絵のような、何の苦しみも試練もない、平和でしょうか。そうではありません、二枚目の絵のように、苦しみや悲しみや試練は、滝のように襲ってきますが、そのような中にあっても、イエス・キリストの十字架を拠り所として与えられる平安です。
13節から、希望の源である神が与えてくださる3つの恵みをお話ししました。それは、希望と喜びと平安です。希望の源である神様の希望と喜びと平和に満たされて、互いに相手を受け入れ、心を合わせて、主を賛美させていただきましょう。
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