今日は、敬老の日です。
聖書を二カ所お読みします。
箴言16:31(P1012)
「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」
Ⅱコリント4:16~18(P329)
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
今日は、敬老の日です。
先程、お呼びした方々は、私たちの人生の先輩、信仰の先輩です。私たちも、その先輩に倣って、素晴らしい信仰生活をさせていただきたいと思います。
先週の話題は、何と言っても、錦織 圭選手でした。テニスの全米オープンで、日本史上初の準優勝を成し遂げました。
その錦織圭が、インタビューを受けた時、二人の名前をあげました。一人は全米オープン車いすテニスの部で、優勝した国枝慎吾さんです。自分の障害を乗り越えて、優勝した国枝慎吾さんを尊敬しますと言っていました。
もう一人は、錦織圭のコーチ、マイケル・チャンです1989年の全仏オープン男子シングルスで「17歳3ヶ月」の大会最年少優勝記録を樹立したことがある選手です。 彼は、身長175㎝と身長に恵まれず、いつもコンプレックスを持っていましたが、ただ、彼はイエス・キリストを信じるクリスチャンで、「わたしにはできないことも、神にはできる。」と信じて、試合に臨んで、優勝したのです。
彼は、テニスを神様の栄光のためにしていると言っています。そして、テニスをしながら、神様が共におられて祝福してくださっていることを感じると証しています。
そして、その素晴らしいクリスチャンをコーチとしてテニスをしている、錦織圭も、テニスのコーチとしてだけではなく、人生のコーチとしてクリスチャンになったらどんなに素晴らしいだろうと、ある方のFACEBOOKに書いていました。テニスプレーヤーが、コーチに倣ってテニスをするように、私たちは、イエス様に倣って、信仰生活をさせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は、5~6節です。
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
5節に「キリスト・イエスに倣って」とありますが、教会のキリストによる交わりのあるべき姿が、今日の聖書の箇所には書かれています。
(1)弱い人の弱さを担う教会
1~2節
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」
パウロは、教会では、自分の満足を求めるのではなく、強い人が弱い人の弱さを担うべきですと言っています。そして、隣人を喜ばせ、互いの向上のために努めるべきだというのです。
イエス様は、マタイ25:40でこう言われています。(P51)
「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
わたしたちが、キリストに仕えるように、この最も小さな者に仕えるならば、それは、イエス様にしたのと同じだと言われているのです。
マルチンというと、トルストイの書いた、靴屋のマルチンが有名です。あの靴屋のマルチンの話を通しても、キリストに仕えるように、人に仕えることを教えられますが、今日は、もう一人のマルチンの話しです。
昔、ツールのマルチンという人がいました。彼はローマの兵隊で、クリスチャンでした。ある寒い日に彼が町に入ると、道ばたで一人の人が、彼を呼び止めて、「何かめぐんでください。」と施しを求めました。
マルチンはお金は持っていませんでしたが、物乞いをしている人が、真っ青い顔をして寒さに震えているのを見て、自分の擦り切れた軍服の上着をとって、二つに切って、の半分を着せてあげたのです。
その晩に彼は夢を見ました。その場所は天国で、天使に囲まれたイエスさまが、ローマの兵隊の上着の半分を着ておられたのです。一人の天使が「主よ、どうしてそんな古い上着を着ておられるのですか。誰があなたにそれをあげたのですか。」と尋ねると、イエス様は、静かにこう答えられたそうです。
「わたしの愛するしもべマルチンがくれたのだ。」
私たちが出会う人は、どんな人でしょうか。どんな人であっても、神様が造られたかけがえのない大切な人です。しかも、その人のために神様が一人子を与えて下さるほどに愛しておられるのです。その「この最も小さい者の一人」を心から愛しましょう。そして、その人に仕えることによって、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(2)自分の満足だけを求めない生き方
「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。」
この「 」で書かれている御言葉は、詩編69編の引用です。
そして、この御言葉は、新約聖書の他の聖書の箇所でも、キリストの姿を現すために用いられています。
ヨハネ15:25
「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」
使徒1:20
「詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」
詩編の作者は、神様に対するそしりが、自分に向けられていたと告白していますが。これは、まさに、そのままイエス・キリストの受難の姿にあてはまります。
このキリストの受難の姿に倣って、自分の満足を求めるのではなく、かえって、弱い人のために、苦しみをも共にしなさいと語っているのです。
ジョン・ウェスレーは、貧しい人たちに、馬車に乗って各地をまわり、行った先々で路傍伝道で福音を伝えました。そのようにして、多くの人たちがイエス・キリストを信じるようになり、メソジストは大きくなっていきました。
そんなある日に、あるお金持ちに、弟子たちと一緒に夕食に招かれました。そこには、山海の珍味のご馳走が並んでいました。
すると、その弟子の一人が「メソジストももはや、自制をしなければならない時代になりましたね。」と自慢げに行ったそうです。すると、ジョン・ウェスレーは、それを聞いて「それだからこそ、自制して、人に仕えなければならない必要があるのではないか。」と答えたそうです。
救世軍の母と呼ばれる、ブース夫人は、12歳の少女だった頃、その頃、まだアフリカに福音が伝えらておらず、アフリカに伝道のために献金が必要であることを聞きました。その日から、お母さんに頼んで、大好きだったおやつを食べるのを止めて、その分の代金をもらって、アフリカ伝道のために献金をしました。
彼女は、その精神を持ち続けて、救世軍の中にそれを持ち込んで、「断食週間」の導火線になったそうです。
そして、今でも毎年世界の各地で、多くの人たちが断食をして、その食事代を宣教のために献げて、多額の献金が、世界の宣教のために献げられるようになったというのは、本当に驚くべき事です。
「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。」
キリストの愛は、自己犠牲の愛です。キリストが、十字架で、命まで捨てて、私たちに対する愛を現してくださったように、私たちも、自分だけを満足させる生き方ではなく、自己犠牲の愛をもって、キリストの愛を証しさせてていただきましょう。
(3)聖書を土台とする生き方
4節
「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」
4節にある「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。」 というのは、旧約聖書全体を現しています。
イエス様は、この旧約聖書を何度も引用していますが、この聖書を土台に、生涯を送られたのです、そして、使徒たちも、この旧約聖書に従って、宣教の業を進めたのです。
旧約聖書は、キリスト教会のために、その信仰と生活のために書かれたものだからです。
そして、4節の後半には「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」と書かれていますが、聖書は、私たちに忍耐と慰めを与え、永遠の命への希望を与え続けてくださるのです。
ビーチャーという神学者が聖書についてこう言っています。
「聖書は神様が、あなたを導く海図(海の地図)である。すなわち、あなたが海底に沈没しないように、また、どこに良い港があって、どうやって暗礁や障害物を避けながら、安らかに、そこに到着するかを示すものである。」
まさに、私たちの人生は小舟で、大海を旅するようなものです。時には、海底に沈没してしまいそうになったり、暗礁に乗り上げたり、障害物にぶっつかりそうになってしまいそうになります。しかし、船長は、海図を持ってるように、私たちには聖書という地図が与えられているのです。
その地図を見ながら、私たちの生涯を過ごすなら、沈没することはありません。また、暗礁や障害物からも守られて、イエス・キリストという、最高の港で安らぐ事ができるのです。
今年の市民クリスマスは、12月の第二日曜日に、北田康広さんの賛美の集会が行われることになりました。
北田康広さんは、1965年徳島県生まれです。未熟児網膜症と医療ミスが重なり5歳で失明してしまいます。徳島県立盲学校、筑波大学附属盲学校音楽科、武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、献身をして東京バプテスト神学校神学専攻科卒業されました。
現在は、ピアノ演奏&歌&トークというユニークな演奏活動を展開しておられ、ヘレン・ケラー協会主催第31回全日本盲学生音楽コンクール第1位受賞されました。
先週、9月11日を迎え、東日本大震災から、ちょうど、3年と半年が過ぎましたが、その北田康広さんが、その3・11を記念して、CDが販売されましたが、そのCDの中に、「人生の海の嵐に」という曲が入っています。
新聖歌 248番
1、人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
この曲のコメントに、北田さんがこう書かれていました。
「3・11の東北大震災、それは日本人の多くの魂を揺さぶる出来事であったし、今もなお、その余震は、物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても続いている。肉親を失い、職業の場を失い、緑したたる愛する大地を汚染され、悲しみつつ立ち去らねばならなくなった、まさに人生の海の嵐に遭遇した人たちが数多くおられる。さらに、原発周辺の人たちは今後長期にわたってこの人生の嵐を受け続けることになる可能性が大きい。そうした厳しさのなかに、キリストが来られるとき、波立つ心、大嵐に翻弄された魂にも主の平安―シャーロームが訪れる。主イエスは、その最後の夕食のときに、主の平安(平和)を残していくと言われた。最愛の家族、住み慣れた家やふるさと、そしてその美しき自然、それらの奪われた人たちにとって、それをいやす力あるのは、ただ主の力、主の平安である。そのことへの祈りを込めてこの歌を聞くだけでなく、私たちも歌っていきたい。」
私たちの人生にも、突然の嵐が襲って来るようなことがあるかも知れません。しかし、私たちには、聖書の御言葉という地図があります。また、私たちの罪のために十字架にかかられ、よみがえられたイエス様が共にいて下さるのです。
聖書の御言葉に従って生きていくならば、ここで歌われているような、忍耐と励ましをくださるキリスト、「いと安けし港」で安らぐことができるのです。
(4)キリスト・イエスに倣って
5~6節
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
1~4節には、忍耐と励ましを与える聖書について書かれてきましたが、5~6節には、忍耐と励ましの源そのものである神様への祈りがささげられています。
平和と徳が立てられるために、教会があらゆる違いを超えて、一致し、礼拝において、神様を賛美できるようにという祈りがささげられています。
私たちクリスチャンは、与えられている賜物が違います。また、考え方や感じ方などみんな違います。しかし、私たちは、キリスト・イエスに倣うことによって、一つになることができるのです。
こんな証しを読みました。ある時、インド人と、アフリカ人が船の甲板で出会いました。どちらも、讃美歌を歌ったり、聖書を読んだりしていましたので、クリスチャンだということは知っていましたが、ただ、言葉が通じないので、挨拶ができないでいました。
その時に、一人の人が、思いついて「ハレルヤ」と叫んだのです。すると、相手の人は「アーメン」と答えたのです。もう、心は一つです。こうして、彼らは、「ハレルヤ」と「アーメン」で笑顔を交わしながら、互いに喜んだそうです。
私たちは、言葉を超え、肌の色を超え、考え方や感じ方、賜物やすべてのことを超えて、聖書の御言葉によって、キリスト・イエスを信じる信仰によって、同じ心になることができるのです。
5~6節
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」
私たちも、「キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱」いて、「心を合わせ声を合わせて、主イエス・キリストの父である神を、心からたたえましょう。」
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