みなさんは、今までどんな病気になった事がありますか?
風邪を引いたことがある人、インフルエンザになった事がある人、今、東京の代々木では、デング熱という病気が流行っていて、病気の人を刺した蚊が、他の人を刺すと、病気がうつるので、その蚊がいる代々木公園に入ることができないそうです。
病気には、いろいろな病気がありますが、どんな病気も嫌ですね。そして、病気になると早く治りたいと思います。
イエス様は、病気を癒やしてくださるお方です。今日の聖書の箇所には、38年も病気だった人の病気が癒やされたことが書かれています。
そればかりか、イエス様は、私たちの汚れた心までも、清めてきれいにしてくださるお方なのです。
今日の中心の御言葉は、8~9節です。
「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」
イエス様が、エルサレムに行かれた時のことです。エルサレム神殿の「羊の門」という場所の近くに、周りをぐるりと石の廊下で囲まれた「ベトサダの池」という池がありました。
そのベトサダの池には、病気の人がたくさん集まっていました。目が見えない人、足が不自由な人、熱がある人、お腹がいたい人、食べることができなくてやせ細った人・・・・。そのような人がたくさん集まって、力なくその池をずっとながめていました。
なぜなら、そのベトサダの池には、一つの言い伝えがあったからです。
それは、時々水が湧き上がって、池の水が動くのですが、その時、最初に池に入ると病気が治ると言われていたのです。病気が治りたいと思っていた人たちにとって、それは夢のような話しに思えて、集まっていたのです。
そこに、なんと38年も、病気に苦しんでいる男の人がいました。
この男の人も、ベトサダの池の水が動いたら、最初に入りたいと思っていました。でも、体が思うように動かないので、一人では行くことができません。周りの人たちも、自分が一番最初に池に入りたいと思っている人ばかりですから、この人を助けてくれる人は誰もいませんでした。
「何とかならないかな。今日もやっぱり駄目かなあ」と考えながら、横になって池をながめていました。
その時です。イエス様が、ベトサダの池に来られたのです。イエス様は、すべてのことをご存じですから、その男の人が38年間も病気で苦しんでいるのを知っていました。
イエス様は、その男の人のそばに近づくと、こうおっしゃいました。
「良くなりたいか」
この男の人は、びっくりしてしまいました。38年間も治りたいと思って、ここに来ているのです。それでも治らないのに、どうしてこんなことを聞くのだろうと不思議に思いました。
そして、この男の人は、悲しそうな顔でこう答えました。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
良くなりたいのですが、自分では池に入ることはできないし、誰も手伝ってくれないのですと言いました。
でも、イエス様はこうおっしゃいました。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)
するとどうなったでしょう。
イエス様が、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 と言われると、信じられないことが起きました。病気が治って、男の人は立ち上がって、床を片付けて、歩き始めたのです。
38年間病気だった人の病気が治ったのです。どんなに嬉しかったか解りません。
この男の人は、イエス様が病気を治してくださったことを、みんなに伝えました。
この聖書の箇所から2つの事をお話ししたいと思います。
(1)「良くなりたいのか」
イエス様は、男の人の所に近づくと、「良くなりたいのか」と聞きました。この男の人は、38年間、病気が治りませんでした。きっと、いろいろなお医者さんの所に行ったり、いろいろな薬をに飲んだりしたことでしょう。それでも、病気は治りませんでした。そして、藁をもつかむ思いで、このベトサダの池に毎日来ていたのです。それでも、駄目でしたから、「もう駄目だ」とあきらめかけていたかも知れません。
そんな、男の人にイエス様は「良くなりたいのか」とお尋ねになったのです。すると、その男の人は、イエス様に、7節で
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」とありのままの自分の姿をお話ししました。
イエス様は、私たちにも「良くなりたいのか」と尋ねて、おられるのではないでしょうか。
みなさんの中に、何年も祈り続けたのに、聞かれていない祈りがないでしょうか。また、何年も癒しを求めてきたのに、癒やされない病気がないでしょうか。また、私たちが何年も聖潔を求めてきたのに、清められない、汚れた心がないでしょうか。
そんな私たちにイエス様は「良くなりたいのか」と聞かれるのです。
イエス様は、神の子ですから、私たちの祈りを聞いてくださり、病気を癒やし、心を清めてくださるお方です。
けれども、もし、私たちの願い通りにかなえられないとしても、そこには、意味があります。そして、最も良い時に、最も良い方法で、私たちの祈りに答えてくださるのです。
昨日、三浦綾子読書会が、岩沼の仮設住宅で行われました。仮設住宅から6名のたかが参加され、読書会から北海道から8名、東京から2名の方が応援に来てくださいました。
その中に、H・Tさんという40代の男の人が、証しをしてくださいました。Tさんは、10歳の時に、ネフローゼ症候群という腎臓の病気にかかってしまいました。
体中がむくんでいく病気で、その治療のために、毎日副腎皮質ホルモンを飲まなければなりませんでした。そして、その副作用のために、髪の毛は抜けて、身長は小学五年生から成長しませんでした。そして、顔と、お腹のところだけが、まん丸になってしまいました。
学校に行ったり、町に行ったりすると、みんなが変な目で見たり、隣で陰口を言っているような気がしました。
その病気は難病で、30年以上経った今でも治っていません。「どうして、自分だけこんな病気になったのだろう。どうして、自分だけこんなに苦しまなければならないのだろう。」と思うととても苦しくなりました。そして、こんな自分なんか生きていても仕方がないと思って、もう死んでしまおうと思ったこともあったそうですが、死ぬこともできませんでした。そんなくるしみの中で、土屋さんは、今、生かされているのは、きっと意味があるからだと考えるようになりました。そう考えないと生きていけなかったのです。
そんな時に、三浦綾子さんの「泥流地帯」という本を読んだのです。土石流で、家も家族も失ってしまった人のことが書かれていました。その彼がポツンとこう言うのです。「どうして、自分だけこんな目に遭うのだろう。こんなつらい事ばかりだと、生きていても仕方がないじゃないか。」すると、隣りにいた人が「そんなことはない。生きている以上、そこには意味があるんだ。」と言うのです。
その言葉が、Tさんの心を撃ったのです。自分も生かされている以上意味があると思っていた、でも、ここにもそのようにして生きている人がいる。と思った時、大きな力と希望が与えられました。
やがて、教会に行って聖書を読んでいると、ヨハネ9:2~3iにこう書いていました。
「弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
神様は、この人が目が見えないのは、この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもなく神の栄光が現れるためだとおっしゃったのです。
病気や試練には意味がある。そして、その病気や試練を用いて神様の栄光が現される。そう思った時に、Tさんの心が「良くなったのです。」
やがて、美しい奥さんと結婚をして、幸せな家庭を築いておられます。そのTさんが、「私は、それから大部時間が経って、『私は幸いだ』と言えるようになりました。病気になって嬉しいとは言えません。でも、病気を通して、いろいろな人に出会う事が出来、こうして、証しができることを考えると私は『幸いです』」と証しされました。
イエス様は、今も「良くなりたいのか」と尋ねておられます。そのイエス様に、ありのままの自分の姿を申し上げて、『幸いです』と言える素晴らしい生涯を送らせていただきましょう。
(2)起き上がりなさい
8~9節
「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」
イエス様に、自分のありのままを告白した男の人は、病気が癒やされ、起き上がり、床を担いで歩き出したのです。
38年治らなかった、病気が治って、人生が新しくなったのです。
イエス様は、私たちの人生を新しく生まれ変わらせてくださるお方です。
イエス様は、今朝私たちにも「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と語りかけておられるのではないでしょうか。「床」というのは、彼が38年間横になっていた古い生活です。その古い生活を止めて、自分の足で新しく歩み出しなさいと語られているのです。
Ⅱコリント5:17
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
口語訳聖書では、「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは、過ぎ去った。見よ。すべてが新しくなったである。」と訳されています。キリストは、どうしようもないとあきらめていた古い私たちの人生を、全く新しく造り変えてくださるお方です。
ニューヨークにトム・スキンナーという牧師の息子がいました。
彼は、7歳の時にイエス・キリストを信じてクリスチャンになりましたが、だんだん理由をつけて礼拝を休むようになり悪の道を歩むようになってしまいました。
そして、ついに、ハーレム・ローズというギャング団に入ってしまったのです。その中で活躍し、とうとうそのローズ団のボスをやっつけて、ニューヨーク市で一番恐れられるボスとなりました。
ある時、トムは、ほかのギャング団との対決の作戦計画を立てながら、ディスク・ジョッキーを聞いていました。それが終わると、福音放送が始まりました。
その時に、ラジオ牧師が、読んだ聖書の箇所が今日のコリントの信徒への手紙Ⅱ5:17だったのです。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
トムは牧師の子供ですから、この御言葉は何度も聞いたことがありました。「なんだ、あれか。」と思いながら聞いていたトムは、牧師の言葉に捕らえられました。
「あなたがどんな人だとか、これまでどんなことをしてきたとかは問題ではありません。イエス・キリストは、あなたの罪深い性格を変えるために、この地上に来てくださったのです。イエス・キリストは今までのでたらめなあなたの生活を変えることが出来ます。イエス様は、罪を犯させるあなたの内にある『罪の工場』を変えてくださるのです。」
実は、彼は、ニューヨーク一のギャングになりましたが、心の中には平安が無く、罪の意識に苦しんでいたのですが、自分ではどうすることも出来なかったのです。そのような彼に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」と神様が語りかけてくださったのです。
トムは、この御言葉をすぐに受け入れました。それまで、自分ではどうすることも出来なかったのですが、その時、この御言葉を信じた時に、彼は確かに変えられたのです。ギャングから足を洗い、罪を償いました。そればかりか、彼はやがて、このキリストの愛を伝えたいと思い、牧師になって福音を宣べ伝えて神様のために働くようになったのです。
トムは、自分で自分を変えることは出来ませんでしたが、イエス・キリストの十字架によって彼の人生は確かに変えられたのです。
どうでしょうか?みなさんの心の中にも、罪を犯させる『工場』はないでしょうか。そして、自分ではどうすることも出来ずに苦しんでいないでしょうか。
それでも、あきらめないでください。私たちにはどうすることも出来なくても、イエス様には出来ないことはありません。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださったのです。そして、その罪に打ち勝って、よみがえられたのです。そのイエス様が私たちの心を新しく造りかえてくださるのです。
8~9節
「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」
イエス様は、私たちに「良くなりたいのか」と尋ねておられます。ありのままの自分の姿を申し上げて、癒やしていただきましょう。イエス様は、私たちの体も心も癒やしてくださるお方です。そのお方を信じて、今日この所から、新しい歩みをさせていただきましょう。
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