みなさんは、井戸を見たことがありますか。土を掘って、深い所にある水をくみ上げるものです。水道がなかった時代に、井戸の水はとても貴重なものでした。
イエス様の時代も井戸から水を汲んでいたのです。
今日の中心の御言葉は14節です。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ある時、イエス様はエルサレムから、ガリラヤへ向かって旅をしました。エルサレムからガリラヤの間には、サマリヤという場所があります。ユダヤ人は、サマリヤの人が大嫌いでいつも喧嘩ばかりしていたので、ユダヤ人は、ガリラヤへ行く時に、わざと遠回りをして、サマリヤを通らないようにしていたのです。
けれども、イエス様は、サマリヤを通って、スカルという所に行きました。
ちょうど、真昼で、太陽がぎらぎらと照りつけていました。そこに、一人の女の人が、水を汲みにやって来たのです。一番暑い時間に水を汲みに来るなんて何か訳があるのでしょうか。
イエス様は、その女の人の御覧になると、そばによって
「わたしに水を飲ませてください」とお願いをしました。
女の人は、びっくりしてしまいました。サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪くて喧嘩ばかりしていたので、ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけるなんて考えられなかったからです。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤ人のわたしに、水をくださいとおっしゃるのですか?」と女の人が尋ねると、イエス様は
「もしわたしが誰であるかを知っていたなら、あなたのほうから、わたしに求めたことでしょう。」 わたしはあなたに生ける水を与える事ができます。」とおっしゃいました。
「生ける水」とは何のことでしょう。女の人は、よく分からなかったので、「先生、あなたは水がめも持っておられないのに、どうやってその生ける水を手に入れるのですか。」と聞きました。
すると、イエス様はこう答えられました。
13~14節
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
イエス様は、井戸から出る水のことをおっしゃったのではありません。井戸からでる水は、どんなにたくさん飲んでもまた渇いてしまいます。
イエス様が、下さる水というのは、私たちの心の渇きを癒やしてくれるものなのです。それは、イエス様を信じる人に与えられる罪からの救いと、永遠の命のことです。
実は、この女の人は、正しくない生活を送っていました。
だから、町の人々と顔を合わせないように、一番暑い、真昼に水を汲みに来ていたのです。
イエス様は、その女の人が正しくない生活のせいで、後ろめたく、心が満たされないのを見抜いておられました。
この女の人は、自分のことを何もかもご存じであることを知っておられるこの方こそ、キリストと呼ばれる救い主であるに違いないと、イエス様を心から信じたのです。
その時から、この女の人は変えられました。
「みなさん、聞いてください。わたしは救い主にお会いしました。」女の人は喜びでいっぱいになって、水くみに来たのも忘れて、みんなにイエス様の事を伝えました。
町の人々も早速、イエス様のお話を聞きにやってきました。そして、直接お話しを聞いて、さらに多くの人々がイエス様をまことの救い主だと信じたのです。
サマリヤの女の人も、町の人々も、あふれ出る命の喜びをイエス様からいただいたのです。
(1)この世の水は、渇いてしまうということです。
13節を見てください。
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」とあります。
私たちは、のどが渇くと水を飲みます。でも、どんなにたくさん飲んでも、またのどが渇いてしまいます。それと同じように、この世の物は、一時的には私たちの心を満たしますが、また渇いてしまうのです。
このサマリヤの女は、5人の夫と別れたことが書かれています。5人の夫に何を求めたのでしょうか。優しくしてほしいと思ったのでしょうか。それとも力強い男の人に守ってもらいたいと思ったのでしょうか。お金をたくさん持っている裕福な人が良いと思ったのでしょうか。それとも、貧しくてもまじめな人が良いと思ったのでしょうか。
何を求めたのかは分かりませんが、結局5人の夫は彼女の心を満たすことは出来なかったのです。それでも、幸せを求めて、彼女はもう一人の男の人と一緒に生活をしていたのです。しかし、そこにも本当の幸せはありませんでした。
レイナ・マリアは、生まれた時から、両手がなく、足も片足が半分しかありませんでした。けれども、イエス様の愛に満たされて、ゴスペルコンサートをしながら、イエス様の愛を伝えています。そのレーナマリアかこんなお話をしてくれたことがありました。
人の心の中には、たくさんの部屋があります。そして、その部屋は、いろんなことで満たされるのです。例えば、おいしい物を食べると心が満たされます。また、仲のいい友達と過ごすと満たされる部屋もあります。また、良い映画を見たり、良い音楽を聴いたり、スポーツをしたりすると、心が満たされる部屋もあります。そのように私たちの心は、いろいろな物で満たされていきます。
けれども、それは一時的で、永遠に続くわけではありません。その時は満たされても、やがては渇いてしまうのです。
そして、心の一番奥に、神様だけにしか満たすことの出来ない大切な部屋があるのです。
みなさんは、その一番深い所にある心が、満たされていますか。満たされていないなら、神様、わたしの心を決して渇くことのない、神様の愛で満たしてくださいと祈りましょう。
13節
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」
このサマリアの女は、その一番奥にある大切な心の部屋が満たされていなかったのです。
みなさんは、幸せを何に求めているでしょうか。この世の物は、どんなに素晴らしく見えてもやがては渇きます。この世の物ではなく、永遠の命に至る水を求めてください。
(2)永遠の命に至る水
14節
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
今、MSR+で井戸掘りをしています。井戸堀機で、6メートルくらい穴を掘るのですが、そこから、エンジンで水をくみ上げると、地下水が湧き上がります。そして、その水は、渇くことなくコンコンと湧き上がるのです。
そのように、私たちもイエス様を心の中にお迎えするならば、決して渇くことのない、神様の愛と喜びに満たされるのです。
サマリヤの女の人のような経験をした、ビル・ウィルソンという男の子の話しをします。
一人の男の子が排水管の上に座っていました。この少年は12歳でした。
お母さんは、「ここで待っていなさい。」と言ったきりいなくなってしまいました。3日間、そこでずっと待っていましたが、お母さんは帰ってきませんでした。
そこに、ある男の人がやって来たのです。ずっと、そこに座っている少年を見てかわいそうになりました。そこで、近づいて、「どうしての」と聞いて、3日間もお母さんが帰ってこないのを聞いてお母さんに捨てられたことが解りました。
そこで、「教会でキャンプがあるんだけど、行ってみない。」と聞きました。「でも、ぼくお金がないの。」と言うと「大丈夫、お金はおじさんが出してあげるから」言って、教会のキャンプに行くことになったのです。
このキャンプで、男の子ははじめてイエス様のお話しを聞きました。誰からも愛されたことがなく、いつも一人ぼっちたった男の子は、この時自分を愛し、いつもイエス様が一緒にいて下さることを知りました。そして、今までの罪を悔い改めて、「わたしの人生をおささげします」と祈ったのです。
キャンプから戻ってくると、この男の人は言いました。
「私たちが、君のことをどんなに愛しているか知ってほしいんだ。これからのことは何にも心配しなくて良いよ。」少年はこんなに優しい言葉を聞いたことがありませんでした。男の子は、それから教会に住まわせてもらい、この男の人や牧師夫妻、教会の人々の温かい愛に触れて成長しました。
ビル・ウィルソンの心の中にイエス様をお迎えした時に、イエス様の愛と喜びがあふれました。そして、スラム街という貧しい子どもたちがたくさんいるところに行って、福音を伝えたのです。すると、次々に子どもたちが集まって、今では、3万人以上の子どもたちが教会学校に集まっているのです。
神様の愛によって、育てられた一人の男の子が、多くの子どもたちに福音を伝えるようになったのです。
ビル・ウィルソンが、イエス様を心にお迎えした時に、イエス様の愛と喜びで一杯になりました。そして、その喜びはあふれて、3万人以上のお友だちに伝えられているのです。
13~14節
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。私たちが自分の罪を悔い改めて、イエス様をを私の救い主として信じるだけで、私たちの心の中に、永遠の命に至る水が与えられるのです。そればかりか、その水は泉のようにわき上がって、他の人をも潤すことが出来るのです。
どうか、今日このイエス様を信じて、素晴らしい人生を歩みだしてください。
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