みなさんは、生まれ変わりたいと思ったことがありますか?
人は、自分の意思や努力によって生まれ変わることはできません。ゲームやパソコンならリセットすることができますが、人間はそういうわけにはいきません。
しかし、聖書には、私たちが新しく生まれ変わることができると教えています。
今日の中心の御言葉は3節です。
「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
これは誰でしょう。ニコデモというパリサイ派の宗教学者です。
このニコデモがイエス様の所に、暗い夜にやってきたのです。なぜ、昼ではなく夜やって来たのでしょうか。なぜ、夜やって来たのでしょうか。。それは、ニコデモの仲間のパリサイ派の人々は、イエス様の事を良く思っていなかったからです。
ニコデモは、イエス様が、奇跡を行ったり、神の国のことを話しておられるのを知って、きっと、イエス様だったら、どうすれば天国に行けるかを知っているに違いないと思ってやって来たのです。
ニコデモはイエス様に言いました。2節
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
するとイエス様はニコデモにこうおっしゃいました。3節
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモはびっくりしてしまいました。
ニコデモは、もう年を取っています。そんなニコデモが、どうしてもう一度お母さんのお腹の中に入って、新しく生まれることができるのだろう。そんなことはできないと思ってガッカリしてしまったのです。
すると、イエス様はニコデモに教えて下さいました。5,6節
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
イエス様が、新しく生まれ変わるとおっしゃったのは、体のことではなく、魂のことでした。
ニコデモは、一生懸命頑張って、立派な人になって、聖書をよく勉強すれば、神の国に入る事ができると信じていました。しかし、イエス様は、そのような人間の行いや努力によって神の国に入るのではなく、魂が新しく生まれなければ、神の国に入ることはできませんよとニコデモに教えて下さったのです。
しかし、ニコデモはますますわからなくなってしまいました。そこで、ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」 と言いました。
そこで、イエス様は、ニコデモが良く知っている旧約聖書の話しをしました。
イスラエルの民が、エジプトから救われて、シナイ半島の荒野を旅していた時のことです。つらい事の多い荒野の中で、イスラエルの民は、神様につぶやき逆らってしまいました。そこで、神様の裁きを受けて、多くの人が毒蛇にかまれてしまいました。
その時、神様はモーセに、「青銅で蛇を作って、それを旗竿の上に付けて、人々の前に掲げなさい。」と命じられ、「その青銅の蛇を見上げた人は命が助かる」と約束されたのです。
神様の言葉を信じて、青銅の蛇を見上げた人たちは生き延びたのです。
この青銅の蛇のように、イエス様は、全人類の罪のために、十字架にかかられるのです。そして、そのイエス様の十字架を見上げ、イエス様を心から信じる人は、新しく生まれ変わり、永遠の命をいただく事が出来るのです。
そのことが、16,17節に書かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
新しく生まれ変わるにはどうすれば良いでしょうか。
3つの事をお話ししたいと思います。
(1)新しく生まれ変わることを求めること
この絵を見てください。
ニコデモは、イエス様の所に何のために行ったでしょうか。
ニコデモは、ファリサイ派のとても偉い学者でしたが、どうすれば天国に行けるのか解りませんでした。そこで、どうすれば、新しく生まれ変わって天国に行けるのか、その答えを求めてイエス様の所にやって来たのです。
ニコデモは、自分で分からないことや、常識的に考えてそんなことはないと思うようなことでも、イエス様の言われることを良く聞きました。そして、イエス様に答えを求めたのです。そのような祈りをイエス様は、聞いてくださるのです。
イエス様は、山上の説教でこうおっしゃいました。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
この絵を、もう一度見てください。この絵のニコデモは、門をたたいています。このニコデモのように、イエス様を求め、探し、門をたたくように「新しく生まれ変わる」ことを心から求めるなら、イエス様は必ずその求めに答えてくださるのです。
(2)十字架を見上げること
イスラエルの民は、何を見上げて救われましたか。
イスラエルの民が、荒野を旅をしていた時、イスラエルの民は神様につぶやいて、神様に逆らう罪を犯してしまいました。神様は、さばきのために毒蛇を送り、大勢の人々が蛇にかまれて死んでしまいました。
その時に、神様は、モーセに青銅の蛇を造って、高く掲げなさいと言いました。そのその神様の御言葉を信じて、青銅の蛇を見上げた人は助かったのです。
この青銅の蛇は、イエス様の十字架をあらわしています。イエス様は、この竿の上につけられた青銅の蛇のように、十字架につけられました。
そして、イスラエルの民が、青銅の蛇を見上げて助かったように、イエス様の十字架を見上げて、イエス様を救い主と信じる人は罪をゆるされ、永遠の命を与えてくださるのです。
新聖歌182番に
「十字架にかかりたる救い主を見よや、こは汝が犯したる罪のため。
ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者は誰も、皆救われん。」とありますが、イスラエルの民が、青銅の蛇を見上げただけで救われたように、私たちもイエス様の十字架を見上げ、ただ信じるだけで救われるのです。
今週の土曜日に、齋藤孝子さんのお父さん、齋藤 悠くんのお爺さん、太田 清さんの洗礼式が、病院で行われます。昔から、悠くんのお爺さんは、教会に来たり、清さんの家でクリスマス会を開いたりしていましたが、なかなか、イエス様を信じることができませんでした。
でも、6月に清さんが脳梗塞で入院をした時、私と好美先生と齋藤孝子さいとでお見舞いに行きました。
主我を愛すを賛美して、「神様は、清さんのことを愛しておられます。イエス様は、私たちの罪のために十字架で死んで下さいました。そのイエス様を信じるだけで天国に行くことができると聖書に書いていますが、イエス様を信じますか。」と聞きました。
すると、「うん」とうなずいたのです。私の方が驚いて、念のために、もう一度、「イエス様を信じるなら、私の手を握って下さい。」と言うと、3回、私の手をしっかりと握ったのです。
それが、太田 清さんの信仰告白でした。「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。」、ただ信じるだけで、新しく生まれ変わることができるのです。
ニコデモは、この時新しく生まれ変わりました。そして、イエス様が十字架にかかられた時、アリマタヤのヨセフが、十字架にかかられたイエス様の遺体を引き取りますが、その時に、このニコデモは、「没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」と書かれています。ニコデモは、この時新しく生まれ変わって、イエス様の弟子になったのです。
(3)イエス様を信じること
聖書の中には、「全ての人が罪を犯したため神の栄光が受けられなくなっており」と書かれています。全ての人が、罪を犯したために天国に行けませんと聖書に書いているのです。わたしも、あなたも、天国に行く事が出来ないのです。
けれども、神様は、そんな私達を愛してくださって、独り子であるイエス様をこの地上に送ってくださいました。このイエス様は、清い神の子で、一度も罪を犯したことがないのに、全人類の罪の身代わりに十字架にかかってくださったのです。
イエス様は、40に一つ足りない鞭をうたれました。そして、カルバリ山に重たい十字架を背負って登って行かれたのです。そして、十字架の木に手を打ち付けられ、足を打ち付けられ、その十字架の木が立てられたのです。全体重が手と足にかかります。どんなに痛かった事でしょう。
どうして、罪のない清いお方が、十字架に付けられて死刑にされたのでしょうか。それは、私達の罪のためです。自分ではどうする事も出来ない罪のために、イエス様は、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。
アフリカのある部族の話しです。隣の部族と戦って勝ったので、たくさんの物を奪って帰りました。新しい小屋を造ってその中に入れると、酋長は部族の人たちみんなに言いました。
「この中の物を一つでも盗む物がいたら、その者は、50回のむち打ちの刑にする。」
部族の人たちはみんなこわがってその小屋に近づこうとはしませんでした。
ところが、しばらくすると、その小屋の中から一つの物がなくなっている事が分かりました。調べてみると、盗んだのは、酋長のお母さんでした。酋長のお母さんは、それがどうしても欲しくて我慢が出来ずに、盗んでしまったのです。
酋長は悩みました。なぜなら愛するお母さんです。どうして50回も鞭をうつ事が出来るでしょうか。だからと言って、規則を破ってしまったら、部族の人たちを治める事は出来ません。
いよいよ、その刑を行う時がやってきました。部族の人たちは、酋長がどうするだろうかと、じっと見ていました。
酋長は、自分のお母さんに、50回のむち打ちの刑を言い渡しました。
そして、ついにお母さんに鞭が振り上げられた時です。酋長はお母さんのところに走っていきました。そして、お母さんの上に覆い被さって、50回の鞭を全部自分の背中で受けたのです。酋長は、愛するお母さんのために、身代わりになったのです。
これは、イエス様の十字架と良く似ています。私達は、いろいろ悪い事をしたり、悪い事を考えてしまったりします。ですから、私達が当然罰を受けなければならないのです。けれども、イエス様は、私達の身代わりに十字架にかかってくださったのです。
もう、イエス様は、十字架で全ての罰を受けて下さいました。ですから、私達は、イエス様を救い主として信じるだけで、私達の罪は赦され、神の子としていただく事が出来るのです。
ヨハネ3:16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
新しく生まれ変わることを、イエス様に求めてください。そして、イエス様の十字架を見上げてください。
そのイエス様を信じるだけで、すべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられるのです。
今日、イエス様を信じて新しい人生を歩み出してください。
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