今日は、小寺 義兄に証しをしていただきました。義くんがMSR+に常駐して、2年以上になりますが、義くんのお陰で、このボランティアが祝福されてきたのだと思います。
そして、義くんは、料理の賜物を持っています。冷蔵庫の中にあるものや、農家の人からいただいたものを用いて、美味しい料理を作ってくれます。先日も仮設住宅で、「塩狩峠」の映画会がありましたが、参加者36人のおにぎりと豚汁と漬け物を出してくれ、みんな喜んで帰って行かれました。
人は、食べると心を開きます。今日は、よみがえりのイエス様が、弟子たちに、魚を焼いて振る舞った聖書の箇所です。
イエス様は、弟子達の前に、よみがえりのお姿を現されました。
一度は、エルサレムで、トマスのいないときでした。
そして、もう一度は、同じ場所で、疑っていたトマスにも、そのお姿を現され、十字架につけられた手の傷痕と、槍でさされたわきの傷痕を見せられて、「信じない者にならずに、信じる者になりなさい。」と言われました。
そして、今日の箇所には、3回目によみがえりのイエス様が弟子達にあらわれたことが記されています。
3回目にイエス様が弟子達の前に現れたのは、エルサレムではなく、ティベリアス湖畔でした。ティベリアス湖畔というのは。ガリラヤ湖のことで弟子達の故郷でした。弟子達は復活の主に出会ったあとで、故郷のガリラヤ湖に帰っていたのです。
この時イエス様にお会いした弟子達の名前が2節にあります。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、その他にあと二人の弟子がいたとありますから、全部で7人の弟子がいたことが分かります。
その時の出来事を通して、3つのことをお話ししたいと思います。
(1)復活の主は、私たちを待っておられる。
イエス様は、2回も弟子達によみがえりの姿を現されましたが、それでも、弟子達のイエス様を十字架で失った悲しみや寂しさは完全にはいやされていなかったようです。
彼らは、その悲しみや寂しさを晴らすために、故郷に帰っていました。 そして、親を失った孤児のように、生活にも困ってしまって、昔覚えた漁の仕事をして生活の糧を得ようとしていたのです。
最初にそれを言い出したのはあのペトロでした。ペトロが最初に「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子達も「わたしたちも一緒に行こう」と言って舟に乗り込みました。
そこで、魚がたくさんとれると、気持ちが少しでも晴れたのかも知れませんが、その時は夜通し働いても何もとれなかったのです。弟子達はますます落ち込んで暗い気持ちになってしまいました。
弟子達は、この時、霊的にも、精神的にも、肉体的にも疲れきっていたに違いありません。
しかし、そのような時に、素晴らしいことが起きたのです。4節をご覧下さい。
「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」
「イエスが岸に立っておられた。」
イエス様は、ティベリアス湖畔の岸辺で、魚が何もとれずに疲れ切った弟子達を待っておられたのです。
私たちも、この弟子達のように疲れきってしまうことがあります。ある時は悲しみや寂しさに打ちひしがれそうになることもあります。また、一生懸命働いても、全然うまく行かずに空回りばかりしてしまうこともあります。
また、この時の弟子達がそうであったように、自分の取り返しのつかない失敗や不信仰にいやになってしまうことがあります。
けれども、疲れきった弟子達を、ティベリアス湖畔で待っておられたイエス様は、私たちをも待っていて下さるのです。
イエス様は、疲れた者、重荷を負うて苦労している人を招いておられるのです。
マタイ11:28
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 と招いておられるのです。
「イエスは岸に立っておられた。」よみがえりのイエス様は、疲れ切った私たちを待っておられるお方です。そして、イエス様は、弟子たちの心の深い所にある罪や、イエス様を失った悲しみを全く癒やしてくださったのです。
(2)復活の主は、私たちの必要を満たして下さるお方。
5~6節をご覧下さい
「 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」
ペトロやヨハネやヤコブは、漁師でしたが、普通は、夜通し漁をしても魚がとれないときは、夜が明けてからは魚は取れませんでした。
ところが、イエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」とおっしゃいました。
そして、その御言葉に従って弟子達が網をおろしてみると、魚が多くて網を引き上げることが出来ないほど大漁だったのです。
この出来事を通して、ペトロの必要を完全に満たしてくださったのです。
①霊的な必要です。
この時、ペトロは、自分が弟子として召されたときのことを思い出したのではないでしょうか。
ペトロがガリラヤ湖で弟子としての召命を受けた事が、ルカによる福音書5章1~11節に書かれています。
あの時も、一晩中漁をしましたが、何も取れませんでした。しかし、イエス様が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われる声に従って、網を降ろすと、おびただしい魚がかかかって、網が破れそうになったのです。
あの時、ペトロは、主の御臨在に触れて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」と自分の罪を悔い改めています。
そのペトロにイエス様は「恐れる事はない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とイエス様の弟子としての召命を受けたのです。
ペトロは、もう一度あの時の事を思い出したのではないでしょうか?
そして、ペトロは、イエス様の十字架を前にして、3度もイエス様を裏切るという取り返しのつかない罪を犯してしまいますが、その罪を全く許してくださり、もう一度、「人間を取る漁師」として用いてくださる神様の愛を知ったのです。
それは、私達も同じです。私達がどんなに取り返しのつかないような罪を犯してしまったとしても、わたしたちの罪のために十字架に架かってくださり、よみがえられたイエス様は、その罪を完全に赦してくださり、大切な使命のために用いてくださるのです。
イエス様に出会ったボブの証しを読みました。
彼は、幼い頃、最愛の父親を事故で失ってしまいました。母の再婚相手と折り合いが悪く、高校卒業後に海軍に入隊しましたが、そこでもうまくいかず、海軍を除隊した頃から、酒浸りになり、ついにドラッグに手を出してしまったのです。そして、ある日「屋上に上れ、そこから飛び降りろ」と時には、叫ぶように、時にはささやくように、悪魔のような声が、ボブに語りかけました。それは、ドラッグによる幻聴でしたが、彼は実際に何度も自殺未遂を計ったのです。
そんな苦しみの中で、ある日窃盗で捕まった彼を、海軍の上司が助けてくれました。その上司が知り合いの牧師を紹介してくれたのです。
ボブは、牧師に会いました。しばらく話していると、ボブの手が震え出しました。その震えはだんだん体全体に及び、まるでけいれんを起こしたようになったのです。牧師がボブの体を支えながら祈ると、ボブは大きな声で暴言を吐きました。それでも祈り続けると、「助けて!」と叫びながら泣き出したのです。牧師が更に祈ると、彼は「お父さん」と叫びながら泣き出したのです。1時間ほど泣いて、泣き止むと、彼はこう言いました。「イエス様に出会った。イエス様が自分の所に来てくださった。」
ボブの心の中にたまっていた、父を失った悲しみと怒りが、イエス様に出会う事で、癒やされて、ドラッグからも全く解放されたのです。
わたしたちの罪のために十字架に架かってくださり、よみがえられたイエス様は、その罪を完全に赦してくださり、心の深い所にある傷を癒やして下さるのです。
それだけではありません。
②わたしたちの生活の必要をも満たしてくださるお方なのです。
イエス様は疲れきっておなかをすかしている弟子達のその日の食事の準備をもされたのです。
9~10節
「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。」
イエス様が、炭を起こして、弟子達のために焼いて下さった魚、それも「炭火焼きの魚」の味はどんな味だったのでしょうか。
まして、この時はイエス様の料理です。本当のたとえないようのない最高の味、究極の料理であったに違いありません。
イエス様は、食事の場を大切にされました。最初の奇跡を行われたのは、カナの婚宴の食事の席でした。十字架にかかられる前の日に、最後の晩餐の席で、「これは私の肉である」「これは私の血である」と十字架の意味を示され、足を洗われて、互いに仕えることを教えられました。
山形南部教会でも、食事の時を大切にしています。日曜日の食事の時、まきばの食事やお茶の交わり、ホサナやTEENSの楽しいパーティー、どれをとっても主にある素晴らしい時です。
イエス様は、このように弟子達の霊的な必要を満たされただけではなく、生活の必要をも満たして下さったのです。イエス様は私たちの、私たちの霊的な必要を満たして下さるだけではなく、生活の必要も御存じで、私たちの食べ物や、生活に必要な全ての物を御存じで、一つ一つを覚えて下さり、必要な物を与えて下さるお方です。
プロゴルファーのタイガー・ウッズは知らないことはいないほど有名です。
彼に英才教育を施したのは、父であるアール・ウッズでした。
アール・ウッズ氏は、キリスト教番組に出演して、自分の信仰について証しをしました。彼は息子のタイガー・ウッズに、「今日神様が君にしてくださった恵みは何かい。」聞いて、神様の恵みを数えて、感謝をすることを日課としていました。
さらに、アール氏はこう言っています。
「自分は息子をプロゴルファーにしようと思って育てたのではない。神様のお役に立ち、社会に貢献できる人間に育てようと努力をしました。それがたまたまゴルフの才能だったのです。」
息子が、才能を発揮して、優勝賞金を稼ぐようになると、アール氏は「タイガー・ウッズ財団」を立ち上げ、賞金を惜しげもなく、つぎ込みました。
いろいろな才能を持っているのに、経済的な理由で才能を伸ばすことの出来ない子供たちを助けるために、そのお金は使われたのです。
その支援を受けた子どもは、現在では2万5千人にのぼっているそうです。
神様の愛は、このようにして見える形で表されています。イエス様は、弟子たちに、疲れ切っている弟子たちにパンを与え、魚を焼いてご馳走したように、私たちにも、いろいろな形で、その愛を表してくださるお方なのです。
(3)復活の主は、世界中の一人一人をかけがえのない存在として愛しておられる。
11節
「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」
ここにペトロが網を引き上げると、153匹の魚がとれた、と魚を数が書かれています。
どうして、この福音書を書いたヨハネは153匹と、魚の数を書いたのでしょうか。
ヒエロニムスという4世紀の聖書学者は、「当時のユダヤでは、魚の種類が全部で153種類だったと考えられていた。そこで153匹というのは全世界の人々を現すのだと言うのです。そして、この網は、教会で、全ての人を教会は救うことが出来、その網は破れることはない」と言っています。
またあるディボーションの本には、153匹とここに魚の数字が書かれているのは、神様は全部とか、たくさんとかいう言葉で、いっぱひとからげにとれた魚を見ておられるのではなく、153匹一匹一匹をかけがえのない大切な存在として見ておられるのだと書かれていました。
恐らく、この中には、生まれたばかりの小さな魚もいたでしょうし、大きな魚、年老いた魚もいたに違いありません。また、元気な強い魚もいたでしょうし、静かな弱い魚もいたに違いありません。そして、その種類も1種類だけでなくいろいろな魚がいたのではないでしょうか。けれども、それらの魚の一匹一匹をかけがえのない大切な存在として153匹と数えられたのです。
私たちにもいろいろな個性があります。子供もいれば、大人もいる。頭のいい人もいれば、体力なら自身があるという人もいます。世界を見ると白人、黒人、黄色人種と様々です。けれども、全ての人がその153匹の中に含まれているのです。
神様は、そんないろいろ個性のある私たちをありのままで「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とかけがえのない存在として、愛して下さっているのです。
ですから、私は私のまま、あなたはあなたのままで良いのです。人と比べる必要はないのです。ありのままで、「高価で尊い」かけがえのないものとして愛して下さっているのです。
マザー・テレサは、1979年にノーベル平和賞を受賞しました。
1952年、インドのカルカッタのある貧民街の路上で死ぬばかりになっていた女性が、マザーテレサの人生を変えたのです。
それは、今まで日常的に見てきた風景でしたが、彼女を見た時テレサは「せめて安らかに死を迎えさせてあげたい。」と強く迫られたのです。
市役所に、しぶとく交渉して、ようやく屋根のある場所を借りて、路上で死を待つ人達を収容し始め「死を待つ人達の家」が始まったのです。
30年間で、路上を死に場所としている3万人の人達が、この「死を待つ人達の家」に収容されました。その半数の人達は、食事や看病を通して、死ぬ前に癒されて、施設を出る事が出来ました。
マザーテレサはこう言っています。
「この人達に、あなたを大事に思っている者、居て欲しいと願っている者がいることを知ってもらいたいのです。」
その思いを1997年9月5日インドで87歳の生涯を全うするまで、持ち続けたのです。
そして、その思いは、まさに、神様が、私たちに対して持っておられる思いです。 神様は、わたしたちを、あなたをかけがえのない大切な存在と思っていてくださるのです。そして、あなたに一緒にいて欲しいと心から願っておられるのです。
イザヤ書43章4節には、新改訳では、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と書かれています。
わたしたちも153匹の一匹に数えられ、神様の愛の決して破れない大きな御手の中に置かれているのです。
そのことを心から感謝しましょう。そして、この愛は例外なく、すべての人に注がれているのです。まだ、この愛を知らない多くの人たちに、この主の愛を伝えさせていただきましょう。
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