今日は、川上恵衣姉のお証しを感謝します。昔は、恥ずかしがり屋で人の前に出るとすぐに泣いていた恵衣ちゃんが、今では、みんなの前で堂々と賛美をし、証しをしている姿を見ると、本当に神様が恵衣ちゃんと共におられることがより分かります。
3月5日~4月20日のイースターから、受難節を迎えました。イエス様が十字架にかかられたことを覚えて、御言葉と祈りに時を持たせていただきましょう。
今日読んでいただいたところは、「宮きよめ」と言われる聖書の箇所です。
この並行記事が、マタイ21:12~17、ルカ19:45~48、ヨハネ2:13~22と4つの福音書に記されています。このことからも、この出来事が重大な出来事であったことが解ります。今日はこの聖書の箇所から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は、17節です
「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
特に、『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』という御言葉を心に留めたいと思います。
今年の御言葉は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)ですが、ここには、『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
と書かれています。キリストの名によって建てられたすべての国の教会は「祈りの家」と呼ばれるべきである。と言われています。
今日の聖書の御言葉を中心に3つのことをお話ししたいと思います。
(1)イエス様が怒られた「エルサレム神殿」
イエス様の一行が、エルサレム神殿に入られると、宮の境内で売り買いをしている人達がいました。
エルサレム神殿は、異邦人のはいることの出来る外庭と、ユダヤ人だけしか入ることの出来ない内庭に分かれており、その二つの庭は高い壁で区切られていましたが、この1節にある「境内」というのは、異邦人のはいることの出来る外庭でした。
イエス様が神殿に入られた時、その境内には神殿礼拝に必要なものが売られていました。
祭りの時には、地方から来た巡礼者たちは、犯した罪の代償として、犠牲の動物をささげなければなりませんでした。その事がレビ記5章6~7節(P167)にあります。
「犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。貧しくて羊や山羊に手が届かない場合、犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩、すなわち一羽を贖罪の献げ物として、もう一羽を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。」
ですから、この境内には、雌羊や雌山羊を売る人、山鳩や家鳩を売る人で一杯でした。また動物の声が響き渡っていたのではないでしょうか。
また、出エジプト記30章13節に、主への献納物についてこの様な規定があります。「登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。」
つまり、献金は外貨ではなくユダヤのシェケルというお金でささげなければならないことが定められていましたのです。そこで、ローマやギリシャのお金を持ってきた人達は、ユダヤのシェケルに両替をしなければなりませんでした。ですから、その境内には両替人が並んで、お金の音が鳴り響いていたのです。
イエス様は、そのようなエルサレム神殿に入られたのです。そして、その光景をご覧になると、売買している人達を追い払い、両替人の台を倒し、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。
イエス様は、愛の人です。弟子たちを最後まで愛し抜かれ、また、自分を十字架につけたユダヤ人のためにも十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34)と執り成しの祈りをなさいました。そして、全人類の救いのために命を捨ててくださるほどに、私達の事を愛しておられるお方です。
それなのに、なぜ、イエス様はこの時にこんなに怒りを露わになさったのでしょうか。
なぜ、イエス様はこんなにまで怒られたのでしょうか。それは、エルサレムに対する愛の故です。
神様は、全人類の救いのために、まずイスラエルの民を選ばれました。そして、そのイスラエルの民が神様を礼拝する場所としてエルサレム神殿を建てられたのです。それなのに、当時の礼拝は形式的なものとなり、神殿は荒れ果てていました。
イエス様は、神を礼拝する聖なる場所であるエルサレム神殿が、喧騒に満ち、欲望と利益を満たす場になりさがっていることに言いようのない怒りと憤りを覚えられたのです。それはまさに神の怒りでした。
そして、その怒りの理由が、17節にあります。
「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
この『』は、イザヤ56:7ですが、イエス様はこの『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』という御言葉を引用して、神殿は本来祈りの家でなければならないことを教えられました。
ところが、人々は神殿で商売することに慣れてしまい、それがどんなに神を礼拝する場にふさわしくない行為であるかに気がついていませんでした。彼らは、この時自分の利益のために神様を利用していたのです。イエス様は、そのように腐敗してしまった信仰に耐えることも赦すことも出来なかったのです。
ベトナムのハノイには、国民的英雄の、ホーチミンの遺体が、ケースの中に、安置されている場所があります。、ホーチミンは、ベトナムの革命家、政治家で、植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した指導者で、ベトナム人から「ホーおじさん」と親しまれています。
そこには、平日にもかかわらず、何千人もの人の長蛇の列で、ホーチミンの遺体の参列に来ていました。そして、その中では、カメラやビデオ、大きなバックは持ってはいることは禁じられ、私が少し話しをすると近くの参列者か「しっ」と言われてしまいました。
人は、神になることは出来ません。しかし、人が祭られている場所で会っても、このように文化財とされ、祈りの場所とされているなら、なおさら、私たちの教会は、「祈りの家」として整えられていかなければならないのではないでしょうか。
(2)「祈りの家」
さて、17節の『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とありますが、今の私達にとって、「祈りの家」とは何でしょうか。
それは、私達の教会祈りであり、私達一人一人の祈りです。
まず、教会の祈りです。
私たちは、毎週、ここで礼拝を献げていまが、もし私たちが心の伴わない形だけの礼拝を献げているならば、それはこの当時のエルサレムでささげられていた礼拝と変わらないのではないでしょうか。 イエス様は、そのような姿を見られて、激しく怒られたのです。
もう一度私たちの礼拝の姿を確認させていただきましょう。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ベトナムには、フランスから1615年にキリスト教が伝えられ、ハノイの町の中央には、バロック風のハノイ大教会がありました。私の弟も、その教会に行った事があるそうですが、非常に荘厳な礼拝がささげられていると聞きました。
山形でも、今年も3月第一金曜日には、世界祈祷日が行われ、世界で心を合わせて祈りがささげられました。山形では、日本バブテスト連盟 山形キリスト教会でプロテスタントとカトリックが合同で世界祈祷日が行われました。山形キリスト教会は、しばらく無牧でしたので、杉山修一牧師が来られて喜びの世界祈祷日がささげられました。
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
私達も、「祈りの家」にふさわしく祈りによって神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
次に私達の一人一人の祈りです。
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(コロサイ4:2)
神様は、教会が「祈りの家」として用いられるのと同様に、私たち一人一人が「祈りの家」として用いられることを願っておられます。
そして、祈りが私たちの信仰の土台であり、大切な根であります
イギリスのレスリー・ストロークス宣教師がこのような話しをしています。
昔、美しくて見事な、背の高い木がありました。しかし、みかけはすばらしいのですが、その内側はどんどん弱くなっていました。強い風が吹くと揺れ動き、木が裂ける音が聞こえてきました。
そこで、その木は自分の弱点を補うために、新しい枝を伸ばすことにしました。するともっと強く見え、安定感もあるように見えました。ところが、また暴風が吹き始めると傾いて、隣に木に支えられて、やっと地面に倒れずにすんだのです。
そんな大変な思いをして、その木は、隣の木を見てみました。隣の木は、自分と同じように暴風あったのに、しっかりと立ち続け、よく耐えていたのです。
そこで、その木は隣の木に尋ねました。
「どうして、あなたは揺れ動くことなく、私を助けることさえできたの?」
すると、隣の木は答えました。
「それは簡単だよ。あなたが新しい枝を出す間、私はもっと深いところに根を張っていたんだ」
その木にとって、目に見える木や枝よりも、目に見えない根を張ることの方が大切だったのです。そこで、それからは、この木はしっかりと根を張ったしっかりとした気になっていったというのです。
祈りは、霊的な実を結ばせるための木の根です。
私たちは人にどう見られるかを気にするよりも、見えない部分を大切にしなければなりません。
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(コロサイ4:2)
神様と親しく関係を築き、地中深くに根を下ろすなら、どんな問題によっても揺れ動かされず、ついには実を結ぶようになるのです。
イエス様は、イエス様を信じるわたしたち一人一人を「祈りの家」として用いようとしておられるのです。
今日、私達の心を神様に明け渡して、「祈りの家」として用いていただきましょう。
(3)イエス様は、突然来られる。
もう一度、15節をご覧下さい。
「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」
15節を読むと、イエス様が突然、エルサレム神殿に来られたのが解ります。イエス様がエルサレム神殿に行かれる時、「何日の何時に行くから、その場所を神の子を迎えるにふさわしいようにきれいにしておきなさい。」とは予告されませんでした。
突然、犠牲の動物を売り買いし、両替でごったがえして「祈りの家」とはほど遠いエルサレム神殿に来られたのです。
そのように、イエス様は、私達の教会にも、また、私達の生活の場所にも突然来られるのです。その時にイエス様は私達の教会を見て、また、私達の心を見られてどのように思われるでしょうか。
あのエルサレム神殿のように、祭りのために忙しすぎで、救い主をお迎えする準備が出来ていないということがないでしょうか。
また、この時の、神殿の中の人々のように、私達の心が、物の売り買いやこの世の欲に満たされて、心にイエス様をお迎えする場所がないということはないでしょうか。
それとも、神様が望んでおられるように「祈りの家」として整えられ、イエス様をいつでもお迎えする準備が出来ているでしょうか。
イエス様は、マタイ24章で主の再臨のことをお話しになられましたが、42~44節でこう言っておられまする。(P48)
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
ここに「人の子は思いがけない時に来るからである。」 とあります。イエス様はいつ来られるか誰も知りません。36節には「天使たちも子も知らない。」と書かれています。けれども、確かに人の子は「思いがけない時に来」られるのです。
いつ主が来られても良いように、私達の教会を、私達の心を「祈りの家」として整えていただきましょう。
特に、今イエス様が十字架にかかられたことを覚えるレントの時を迎えています。イエス様は、私達の罪を赦し、聖潔てくださるために十字架にかかってくださいました。罪を悔い改め、その十字架の血潮によって、私達の教会を、そして、私達の心を聖潔ていただきましょう。
最後に、もう一度、17節を読みましょう。
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』
私達の教会と私達の心を「祈りの家」として整えていただきましょう。
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