今日は、田中美津江姉のお証しを聞くことが出来て、感謝しています。
私たちは、5人家族ですが、家族というのは、一番近くにいますから、一番愛が問われる場所ではないでしょうか。
私は、自分のことを考えると、本当に愛がないなと思わされる者ですが、母の愛は素晴らしいと思います。毎晩、祈りのカレンダーで、各項目とそれぞれ教会に繋がる家族のために祈りの時を持っていますが、その時にいつも、家族のために一人一人名前をあげて祈ってくれています。その母の祈りによって、今支えられていることを覚えて、本当に感謝しています。
今日の中心の御言葉は10節です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
今日は、アドベント第三週礼拝ですが、神様は、私たちの救いのために、この世に御子をお遣わしになりました。そして、その御子であるイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架で命を与えて下さったのです。
それほどまでに、私たち一人一人のことを愛しておられるのです。
今朝は、Ⅰヨハネ4:7~12を読んでいただきましたが、「ここに愛がある」という題で、3つに分けて御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)愛は神から出るもの
7~8節
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
7節に「愛は神から出るもので」とあります。
本当の愛は、神様だけにあります。そして、私たちは、その神様に繋がっていなければ、本当の意味で愛し合うことはできないのです。
日本語では「愛」という言葉は、一つしかありませんが、新約聖書の原語は、ギリシャ語で、「愛」という言葉が、多くの言葉で表現されています。
Oまず、男女の愛は「エロス」という言葉が用いられています。これは、動物的な肉体的な愛を現しています。
O次ぎに、「フィリア」の愛です。山形南部教会では、毎週火曜日に「フィリア手話の会が」行われていますが、友と友とが愛し合う、友情を表す言葉です。
Oそして、3番目は「ストロゲー」というギリシャ語で、親子の愛を現します。親は、子どものために犠牲を払って愛しますから、この愛が、一番神様の愛に近いのかも知れません。
しかし、これらの人間の愛は、変わりやすく、限りがある愛です。報いを求める愛です。愛していると言いながらも、自分中心の愛です。
Oそれに対して、神様の愛は違います。ギリシャ語では「アガペー」という言葉が使われています。この愛の特徴は、自己犠牲の愛です。 自分にとって相手が、愛するに値するか、値しないかは問題ではないのです。一方的に愛する愛。愛するに値しないものに全てを与えつくす愛です。
ある人は、人間の愛は「だから」の愛で、神の愛は「にもかかわらずの愛」だと言いました。
人が人を愛するのには、理由があります。私のことを愛してくれるから、この人を愛する。私を親切にしてくれるから、私も親切にする。また、この人を愛すると、「ありがとう」と喜んでくれるから愛する。自分の子どもだから愛する。など、何か愛する理由がある「だから」の愛なのです。
しかし、神様の愛は違います。「にもかかわらず」の愛です。
ローマ5:7~8(P279)をご覧ください。
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
また、10節には更に進んで、
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」 と書かれています。
神様の愛は、私たちが「罪人であった時でさえ」「敵であった時でさえ」変わることなく、注がれているのです。
わたしたちの愛はどうでしょうか。
人を愛すると言いながら、その心の奥底では、自分を喜ばせることが中心にないでしょうか。
また、この人は愛せるけれども、どうしてもあの人だけは愛せないといった不完全な愛ではないでしょうか。
そのような自己中心な愛しか持ち合わせていないとするならば、どんなにきれいなオブラートに包み込んで、一見優しい愛の人のように見えたとしても、その愛というメッキはやがてはがれてしまうのです。
それどころか、表面的な見せかけの愛は、自分の思い通りにならないと、それが憎しみに変わってしまうことがあります。そして、その見せかけの愛は、人を苦しめ、人の心を傷つけ、最後には人の命まで奪ってしまうことにもなりかねないのです。
ジョージ・ワトソンは、素晴らしい牧師であり、世界のすぐれた宗教文学の著者の一人です。
彼は若い頃、グラスゴー大学で一人の女性と出会い、恋をしました。そして、将来を誓い合ってその美しいクリスチャンと婚約をしたのです。しかし、もうすぐ結婚という時に、ワトソンは病気になり、医者はやがて視力を失ってしまうことを彼に告げたのです。
彼は、婚約者との楽しい結婚生活のことを考えました。しかし、自分が視力を失ってからの彼女のことを考えて、これを伝えなければならないと思ったのです。そして、そのことを手紙の書いて送りました。
心の中では、彼女が自分を一人ぼっちにしないことを願っていましたが、ワトソンは、彼女に婚約の解消を申し出たのです。
彼女は、その手紙を読んで非常にショックを受けました。そして、苦しんだあげく、視力を失った盲人の彼と一緒に過ごすことは、私にはできないと、彼の婚約解消の申し出を受け入れたのです。
これは、ワトソンにとってたいへんな衝撃でした。一番愛していた人、一番信頼していた人から、理由はどうであろうと裏切られたのです。彼は何年も何年もそのことで苦しみ悩みました。
そして、その苦しみの中で祈っている時に、神様が、私のことを決して変わることのない永遠の愛をもって愛しておられることを知り、昔の讃美歌の360番の詩を書いたのです。
疲れし心を 慰むる愛よ
君よりいでにし このわが生命を
たれにかえさん
我が道を照らし 導く光よ
君よりたまいし 心のともしび
いざやかかげん・・・
幸福を求めたワトソンは、人間の愛は、もろく崩れやすいもの。しかし、神の愛こそ終わりなく、神聖なのであることを知りました。そして、その愛に満たされた時、心の暗闇は消え去り、神の愛の光に照らされて、この曲が出来たのです。
人間の愛には、変わりやすく、限りがあります。なぜなら、神様の愛から離れてしまったからです。
しかし、そのような、神様から離れ、罪を犯し、神様に敵対しているような私たちをも神様は愛しておられるのです。
そのような、罪人のために、神様は、独り子イエス・キリストを与えて下さいました。そればかりか、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨ててくださったのです。「ここに愛があります。」
この愛の源である、神様を信じ、つながる時に、私たちは本当の愛をいただく事が出来るのです。
(2)アガペーの愛を明らかにされた神
9~10
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
愛のない人間、どこまでも自己中心な罪深い人間、そのような私たちを神様はなおも愛してくださって、神の愛をあらわして下さったのです。
9節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。」とあります。神様は、私たち一人一人を愛しておられます。そして、どんなに私たちを愛しておられるかを伝えるために、神様の独り子を、この罪に汚れたこの地上に送って下さったのです。
神様のおられる御国は、罪の何一つない聖い場所です。しかも、そこには、神様の愛にあふれる、言葉には言い尽くすことのできない、素晴らしい場所です。
しかし、神様は、私たちに対する愛を示してくださるために、その場所から、罪に汚れ、神の背いているこの地上に、大切なかけがえのない独り子を送ってくださったのです。それは、まさに敵地に我が子を送る王様のようなものです。
しかし、神様は、私たちに対する愛を明らかにするために、あえて、独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。
10節にこう書かれています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神様の愛は、神の独り子であるイエス・キリストによって明らかにされました。そして、その愛が最もはっきりと現されたのが、イエス・キリストの十字架です。10節に
「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」
とあります。
「いけにえ」というのは、旧約の時代、罪を犯した人の代わりに傷のないきよい小羊が祭壇で全焼のいけにえとしてささげられたのです。その小羊のようにイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって下さったのです。
イエス・キリストが十字架にかかられた時、イエス様を愛する人はほとんどいませんでした。弟子たちは、イエス様を裏切って逃げ、ファリサイ人や律法学者たちは、イエス様にいばらの冠をかぶらせ、石を投げ、むち打ち、十字架につけたのです。
しかし、イエス・キリストは、そのような自分を裏切った者、また、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれたのです。
イエス・キリストは、自分を十字架につけ、あざけっている人々を前に、こう祈られます。
ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエス・キリストは、自分を十字架につけた人々のために、とりなしの祈りをされたのです。
そして、それは当時のユダヤ人たちだけのものではありません。全人類の罪のためにあの十字架上でとりなしの祈りをされたのです。
「ここに愛があります。」
(3)互いに愛し合いなさい
11節
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
この7~12節の短い聖書の箇所に、互いに愛し合うことが3回も書かれています。
7節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」
11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
12節「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
そして、この愛は、人間の不完全な愛ではなく、アガペーの愛、神様の愛で互いに愛し合うようにと書かれているのです。
互いに愛し合いなさい。と命じられた神様は、私たちに無理な要求をされるお方ではありません。神様を信じ、神様にしっかりと繋がっているならば、神様は、私たちに互いに愛し合う愛、アガペーの愛を与えて下さるのです。
ちょうど、川に源流から水が流れてくるように、神様の愛が私たちに流れ込んで、私たちも神様の愛を行うことができるようになるのです。
ある九州ケズィックの委員をしておられた先生の話を、昔お聞きしたことがあります。
その先生の牧会しておられた教会に一人の青年がいました。この青年は、教会では問題のある信徒で、この教会の先生のされることにことごとく反対をしたのです。
まだ、先生の前で反対をするのでしたら良かったのですが、外部でも、近所の先生方に悪口を言って回るので、先生方は、本当にこの青年に困り果ててしまいました。
そして、先生と牧師夫人は、この青年のために心から祈り続けました。ある日、その祈りの中で、一つの決心が与えられました。それは、イエス様が、私たちを愛してくださったように、私たちもあの青年を愛そうということでした。
それから、愛の故の戦いが始まりました。青年は、以前と同じように、牧師の悪口を言って回ります。教会には、もうこんな教会は嫌だと言って、去って行く人も出てきました。それでも、この牧師夫妻は、この青年を愛し続けたのです。
そして、とうとう牧師夫人は、その心労のためか、病気のために数年後に亡くなってしまったのです。それが、直接の原因であったかどうかは解りませんが、それほどまでに、彼のことを心にかけていたということは、誰もが認めるところでありました。
先生は、その青年に「家内は、最後まで、あなたのことを愛し続けていましたよ。」と言われたそうです。
先生は、この青年にやることをことごとく反対され、悪口を言われ、教会員を失い、最後には奥さんまでも失いました。その苦しみは本当に大変なものだったと思います。
それでも、先生はイエス・キリストの十字架を見上げながら、その青年を愛し続けたのです。
その愛によって、素晴らしい事がおきました。先生の奥さんが亡くなった頃から、その青年の態度が変わり始めたのです。
この奥さんの愛によって、自分の罪に気付き、先生の所に行って、心からの悔い改めをしたのです。そして、やがて彼は、このキリストの愛を伝えるために神学校へ行ったというのです。
キリストの愛が、彼を変えたのです。
イエス・キリストが、この地上に来てくださったクリスマスを迎えようとしています。そして、そのイエス・キリストは、十字架で神の愛を明らかにしてくださったのです。
その、キリストの愛に満たしていただきましょう。そして、私たちも、キリストの愛で「互いに愛し合う」お互いでありたいと思います。
10節
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
来週は、神様が独り子をお与えくださったクリスマスを迎えようとしています。この神様の愛に満たしていただいて、私たちも愛を全うさせていただきましょう。
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