今朝は、荒井隆子姉のお証しをお聞きすることが出来て、本当に感謝しています。隆子さんのお証しを伺いながら、日曜日に礼拝ができるということが本当に大きな恵みであり、喜びであるということを感じました。
荒井隆子さんは、礼拝に来られなくても、時間を縫うようにして、朝のプレイズタイムや、祈祷会に来ておられます。また、御自分の自宅を開放して、松波まきば(家庭集会)を行って、友人に福音を伝えておられます。
そのような主との交わりが、荒井隆子さんを輝かせておられるのだと思います。
この世に生きていると、どうしても日曜日の礼拝に出席できないこともあるかもしれません。また、良きサマリア人のように、隣人への愛の故に、あえて日曜日の礼拝の時間を用いている方もおられます。しかし、どのような状況に置かれたとしても、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
とイエス様が言われたように、神様を第一にして、しっかりと主に繋がって、輝いた信仰生活をさせていただきましょう。
今日の中心の御言葉は、37節です。
「 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
今日は、司会者にローマ8:31~39を読んでいただきましたが、この聖書の箇所は、5~⒏章全体の締めくくりです。
罪に支配されていた、私たちが、キリストの贖いによって、罪から解き放たれ、キリストのものとされました。
そして、今日のこの箇所には、私たちクリスチャンが、キリストの恵みによって、悪しき力に完全に勝利していることが、大いなる歓喜を持って歌われているのです。
この聖書の箇所を3つに分けて主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)御子をさえ惜しまずに死に渡された神
ローマ8:31~32
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
31節でパウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」 と言っています。
「わたしたちの味方である」神様は永遠の昔から私たちを愛し、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちを御自身の支配の下に置いてくださり、主が再び来られる再臨の栄光の日まで守ってくださるのです。
この神がわたしたちの味方であるので、私たちは、私たちの内なる罪や死、また外から襲ってくる試練や誘惑を恐れることはないのです。
「神はわたしたちの味方」です。その最も確かな根拠が、32節に書かれています。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
パウロは、実際に「神は、その御子をさえ惜しまずに死に渡されました。その神様が、私たちに必要なすべてのものを与えて下さる、何よりも決定的な証拠であると言っているのです。
このパウロが、神様について語っている言葉は、アブラハムに対して神様が用いられた言葉です。
創世記22:12をお開きください。(P31)
「御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは、神様の命令に従って、息子イサクをホレブの山で犠牲としてささげようとしました。このイサクは、アブラハムが100歳になって与えられた子どもです。しかも、子どもは一人しかいませんでしたから、もし、その子どもが死んでしまったら、アブラハムに与えられた祝福は、すべて台無しになってしまいます。
アブラハムは、それでも、神様の命令に従ったのです。ホレブ山に登る途中、イサクは、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 と聞きます。この言葉を聞いた時、アブラハムはどんなに心を痛めたことでしょう。そのイサクにアブラハムはこう答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(8)
そして、祭壇を作り、薪を並べ、息子イサクを薪の上に載せました。そして、いよいよ、刃物を取って、イサクを屠ろうとしたその時です。神様から「イサク、イサク」という御声が聞こえました。そして、御使いがこう言うのです。
創世記22:12
「御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは、神様を心から愛し、万事を益としてくださるお方であることを心から信じていたので、最愛のものを犠牲としてささげる備えができていました。
パウロは、神様は人に対して真実なお方です。そして、アブラハムの場合は、最後の最後にイサクを屠ることが止められましたが、神様は、私たちを愛するが故に、実際に、御自身の独り子である、犠牲として与えてくださったのです。それが、神様が私たちの味方であるという証拠です。
ですから、私たちもパウロのように、こういうことが出来るのです、31~32節
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
(2)引き離すことのできない愛
33~36節には、それぞれあり得ないことを質問が書かれています。その質問に答えることによって、私たちの愛が断定的に明らかにされています。
33~34節
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
神様が選んで下さった者を、法廷に訴えて罪に定めることなど出来るはずがありません。神様の選びは、クリスチャンにとって、単なる教理ではなく、私たちを訴える、さまざまな力に対する力強い柱です。
「義としてくださる」というのは、神様がイエス・キリストの十字架によって、もうすべての罪が赦されたという意味です。私たちは、やがて主の御前に立つ時が来ます。その時に、私たちの罪のために十字架にかかられ、よみがえられた、イエス・キリストが神様の右におられ、わたしたちのために取りなしてくださるのです。
そして、私たちは、神様に「あなたには罪がないことを認める。」と宣言され、神の国へと招かれるのです。
35~36節
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。」
ここには、キリストの愛が全面に押し出されています。
ここに、「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」 とありますが、これは、パウロが実際に経験したことです。パウロは、実際にこのような試練に遭いましたが、どのような試練も、キリストの愛からパウロを引き離すことは出来なかったのです。
36節は、詩編44編23節の引用です。
「我らはあなたゆえに、絶えることなく/殺される者となり/屠るための羊と見なされています。」
この「あなたゆえに」という言葉をキリストという言葉に置き換えると、この詩編の意味がよく分かります。パウロは、キリストの愛の故に、「絶えることなく、殺される者となり、屠るものと羊と見なされています。」と十字架と苦しみと死へと召されていますと言っているのです。そして、それが、神様への愛の証しなのだと言っているのです。
主は、私たちの救いのために命を捨ててくださいました。その主の愛に対して、私たちは何ができるでしょうか。
先程、新聖歌102「主は命を」を賛美しました。これは、多くの人に歌われている大変有名な曲ですが、この作詞者はフランシス・ハヴァガルで、1836年、イギリスに生れました。お父さんは、国教会の牧師で賛美歌の作詞、作曲もしたウイリアム・ハヴァガルです。
フランシスは22歳の時、ドイツのデュッセルドルフの市立美術館でスタンバーグという画家が描いた「エッケホモ」(「この人を見よ」)という絵を見ました。いばらの冠をかぶり十字架にかかってくださったキリストの絵でした。彼女は、美術館で絵を見ていましたが、その絵の所で釘付けになって動けなくなってしまったのです。その絵の下に次のように書かれていました。
「我は汝のためにこの苦しみをなせり、汝はわがために何をなしたるや。」
彼女はしばらくじっと見つめていましたが、やがて紙切れに思いつくままを書き留めました。英国に戻り、それをもとに作詞しようとしたのですが、思うように書けず、あきらめてその紙切れをストーブに投げ込んでしまいました。彼女は気づきませんでしたが、その紙が床に落ちました。後でそこを通りかかったお父さんがそれを拾い上げ、フランシスに始めの一行を書き直すように勧めたのです。こうして、この賛美歌が出来上がったのです。
1 主はいのちを あたえませり。
主は血しおを ながしませり。
その死によりて われは生きぬ。
われ何をなして 主にむくいし
主は十字架で命を捨てて、愛を示してくださいました。その愛に対して、わたしたちは、何ができるでしょうか。わたしたちもパウロのように命をかけて、神様への愛を現す者とさせていただきましょう。
(3)愛による輝かしい勝利
37節
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
「わたしたちを愛してくださる方」とは、主イエス・キリストのことです。
イエス・キリストの十字架は、敗北のように見えますが、実は、「輝かしい勝利」のしるしとなったのです。
そして、それは、イエス様だけではなく、イエス様の十字架と復活に与るわたしたちも、イエス様と共に復活の勝利と栄光に与るのです。
聖霊によって、キリストと堅く結び合わされた者は、パウロと同じように、輝かしい勝利の歌声をあげることが出来るのです。
38~39節
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
これは、どんな被造物もキリストにある神の愛から引き離すことは出来ないという確信の告白です。
ローマの信徒たちは、主のために生き、命までも脅かされていました。私たちが受ける苦しみとは比べ物にならないほどの状況の中でも、彼らの主への献身は絶対的なまものでした。
この大胆な確信の根拠は、私たちの知恵や意思や力によるのではありません。ただ、イエス・キリストの十字架の愛にあります。
私たちを脅かす死や命、私たちを支配する者も、現在の者も、未来の者も、力あるものも、高いところにあるものも、他のどんな被造物も、神様によって創造され、そのお方の御計画と支配下のもとで動いているのです。
また、サタンや私たちを神様から引き離そうとする全てのものも、神様の御手の中にあるのです。
ですから、私たちのために独り子をも惜しまずに与えて下さった神様の愛に対する確信があるならば、この世のどんな苦しみや試練も恐れることはないのです。
このローマ書⒏章と、ヨシュア記1章とを「勝利の書」と呼ばれる聖書の箇所でもあります。実際にこの二つの聖書の箇所は、クリスチャンの勝利の生活を最も良く教えたものとして、わたしたちがどんな場合にも、読むと慰めと勇気が与えられます。
ロバート・ブルースという老人がいました。彼は、朝食の前に急にめまえがして、今度は死ぬのではないかと直感すると、すぐに娘に聖書を持ってくるように言い、ロマ書⒏章の最後の2節の上に自分の指を置きました。
そして、娘にこう言いました。
「父は、早や目が見えなくなったが、しかし、この神の約束をたよりに天国へ行くのである。今朝、朝食を共にした父は、夕食の時刻にはイエスと共にいるのである。」と。
こう言って、彼は「輝かしい勝利」によって天国へと凱旋していったのです。
最後の2節読みましょう。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
どんなものも、またたとえ死であっても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
この主の愛にしっかりと結ばれて、今輝き、最後の一息まで、キリストの愛による輝かしい人生を歩ませていただきましょう。
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