今日は、加地和子姉のお証しを聞くことが出来、感謝しています。
加地和子さんは、大変な試練の中を歩まれましたが、その中でも神様の愛は変わらず、共におられました。
神様は、ちょうど愛する父親のようなお方です。私たちが、幸いな時だけではなく、苦しい時も、悲しい時も、父親のもとを離れるようなことがあったとしても、それでも、父親の愛が変わらないように、神様は、私たちのことを愛しておられるのです。
いや、たとえ父親から見捨てられるようなことがあったとしても、神様の愛は決して変わることはありません。その神様を父親として歩む人生は素晴らしい人生です。
今日の中心の御言葉は、15節です。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」
ここに、「アッバ、父よ、」とあります。アッバというのは、赤ちゃんが最初にママとか、パパという言葉を覚えるように、ユダヤで最初にお父さんを呼ぶ本当に親しみのある言葉です。
私たちは、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れた時、神の子とされました。そして、子どもが、「パパ」「お父さん」と呼ぶように、私たちも天の父なる神様を、「アッバ 父よ」と呼ぶことが出来るとは、何という祝福でしょうか。
今朝は、 ローマ8:12~17を読んでいただきましたが、この箇所には、神の子とされた者への祝福が書かれています。
(1)聖霊に導かれる祝福
パウロは、12節以下で「肉」という言葉と「霊」という2つの言葉を使って、悪の力の支配下にある心と、神の力に満たされた心を表しています。
12~13節には、肉に従って生きる人の姿が書かれています。
「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。」
「肉によって生きる」とは、肉に従って生きていた時のことを義理に感じて、この世的な力に調子を合わせて生涯をささげ続けるならという意味です。
そして、このような生き方の結果は、永遠の滅びです。
そして、もう一つの生き方が13節bに書かれています。
「しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」
「霊によって」というのは、「肉によって」の正反対の言葉です。私たちが、聖霊に満たされるならば、この世的な「体の仕業」は私たちの生活から絶たれ、取り除かれて、イエス・キリストに似たものとして永遠の命に生きることが出来るのです。
私たちの心には、このように「肉」の思いと「霊」の思いが戦っています。しかし、感謝な事に、私たちは、聖霊によって神の子とされているのです。
そのことが14節に書かれています。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
神の子とされた者には、神の霊が与えられています。そして神の霊は、その人の心の中に住んで下さり、その人を、肉の思いではなく、霊に思いに導いて勝利を与えてくださるのです。
そして、神の子とされた私たちは、救われる前とは全く違う考えと行いが支配します。聖霊に満たされる時、この世的な「体の仕業」は絶たれ、肉のままに生活しようしなくなります。聖霊は、この世の楽しみを遠ざけて、イエス・キリストに似た者へと造り変えて下さるのです。
この聖霊を心から慕い求めて、神の子としてふさわしい歩みをさせていただきましょう。
ある人が、ビル・ブライトという神学博士にこんな質問をしたそうです。
「クリスチャンが聖霊の満たしを受けることもなく、その体験をしないのはなぜですか?」
それに対して、博士は、こう答えたそうです。
「それは、クリスチャンが、自分の心の中に、聖霊が住みたもう事実を知らず、また求めもしないからだ。」
そして、アメリカのテキサス州であった、実話を紹介しました。
「テキサス州に、年老いた羊飼いがいました。彼は広大な土地を所有していましたが、その土地には、荒れ果てて、わずかの羊を飼って生計を立てていました。
ところが、石油会社の調査で、その土地が大油田地帯だと言うことが分かったのです。
彼は、無尽蔵ともいえるような冨を持っていたにもかかわらず、その事実を知らず、求めもしなかったために、年寄りになるまで、貧しい羊飼いとして過ごさなければならなかったのです。」
神の霊が自分たちの内に住んでおられるのです。しかし、そのことを知らず、神の霊に満たされることを求めなかったら、この貧しい羊飼いと同じです。
私たちの心の中には、無尽蔵の富が与えられているのです。なぜなら、私たちの内に、神の霊が宿って下さっているからです。
この世の「肉」を求める生き方ではなく、この無尽蔵の祝福を与えて下さる「霊」を求めて、祝福された信仰生活を歩ませていただきましょう。
(2)アッバ 父よ。と呼ぶ祝福
14~15節
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
ここに、「奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とありますが、ちょうど、極悪非道の主人から奴隷が、買い取られて自由が与えられるように、イエス・キリストは、私たちが罪の奴隷であった時、イエス・キリストの十字架の贖いによって、命をもって買い取ってくださったのです。
もう、私たちは、罪の奴隷ではありません。キリストのしもべとして愛するキリストに仕える者とされたのです。
そのような素晴らしい特権に与っているにもかかわらず、もし、私たちの側から、罪の奴隷になることを望み「肉」の生活を選び取るならば、「再び恐れに陥れる霊」の奴隷になってしまうのです。
Ⅰコリント7:21~23
「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」
パウロは、神の子どもについて、養子にたとえて説明しています。
当時のローマには、養子が多くいました。養子制度というのは、名前や財産、祭司職の相続や継承など、家督の維持のために行われました。
ローマには、二つの養子制度がありました。一つは、成人して実の父親の権利から解放されて、自ら他の人の養子になる「成人養子」です。そして、もう一つは、本人の意思とは関係なく、他の人の父親の養子になる現在のような養子縁組です。
どちらにしても、養子になると、新しい父親の子どもとして迎え入れられ、息子としての権利を全て受けることが出来ました。
バークレーは、養子になった者について、こう言っています。
①養子になった者は、新しい父の跡継ぎになり、実子が生まれても、その権利は変更されない。
②古い、以前の生活に関する全ては、精算される。過去の権利も負債もなくなる。
そのように、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、私たちは、神の子となり、父の跡継ぎとされ、全ての罪が赦されたのです。
この「アッバ 父よ」という御言葉を読むと、あのイエス様のゲッセマネの祈りを思い浮かべます。イエス様は、十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園で祈られました。その時に、イエス様は「アッバ父よ」と祈られたのです。
マルコ14:36
「こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
十字架を前にして、汗が血の滴るような苦しみの中で、「アッバ 父よ」と祈られたのです。
この「アッバ 父よ」という言葉は、神様への絶対信頼を表す言葉です。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られて、十字架の道を歩まれたのです。
そして、その十字架の贖いによって、私たちイエス・キリストを信じる者の罪が赦され、神の子とされ、私たちの内に精霊が宿って下さったので、私たちもイエス様のように「アッバ 父よ」と呼ぶことができるのです。そして、聖霊御自身が、私たちが神の子であることを証明して下さるのです。
16節
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
私たちが、神の子であることを聖霊御自身が証明して下さり、イエス様と同じように父なる神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るということは、何という幸いでしょうか。
私たちが、幸せな時だけではなく、苦しい時、悲しい時、また、罪を犯した時でも、神様は私たちの「父」です。
神様が私たちに神の子としての霊を与えられたのは、いつでも、どこでも、どのような状況の時にも大胆に、主の御座に近づくためです。神様は、私たちが決して、神様から離れないことを願っておられるのです。
(3)苦難を通して与えられる祝福
17節
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
聖霊によって、私たちは、神の御国の相続人とされました。神様のものは全て私たちのものです。
相続人というのは、財産も負債もともに相続するか、そうでなければ、財産も負債も放棄するかのどちらかです。
霊においても同じです。神様の相続には、苦難もあります。苦難は苦しいものですが、この世の負債とは違います。神様は、この苦難を通してでなくては与えられない祝福を、苦しみを通して与えて下さるのです。
そして、その苦難も、やがて神様から与えられる栄光と比べると比べものにならないほど、神様が与えて下さる栄光は素晴らしいものです。
そのことを、一番あらわしているのが、イエス・キリストの十字架です。「アッバ 父よ」とゲッセマネの祈りで祈られたイエス様は、十字架で全人類のために苦しみを受けられ、死なれました。しかし、それで終わりではありませんでした。3日の後に罪と死に打ち勝ちよみがえられたのです。そして、その十字架と復活によって、全人類への救いの道が開かれたのです。
そして、私たちもキリストと共に苦しむなら、共にその栄光に与ることが出来るのです。
今晩、仙台市民会館で、東北リバイバル復興支援コンサートが行われます。このコンサートはヨハンキリスト教連合が主催ですが、このヨハンというのは、1988年私たちが山形南部教会に遣わされた時に、淀橋教会の韓国部として、金 キュドン先生によって始まりました。最初は、少ない人数でしたが、大学生伝道に力を入れて、大勢の人たちが集うようになりました。
そこで、淀橋教会には入りきれなくなって、ビルを購入してヨハン早稲田キリスト教会が建てあげられました。
大学のキャンパスで、熱心に伝道しますから、時にはカルト集団だと誤解を受けて、学校から出入りを禁じられるようなこともありました。しかし、彼らは日本を愛し、キリストの愛を伝え続けています。
1998年のことです。大変な苦難の時を迎えました。ヨハンがあまりにも熱心に伝道するので、東京のある大学で、極左主義者から、自分たちが威嚇されたと思い込んで、金 キュドン先生が、命を狙われたのです。ある犯罪学者によると、これは、プロの殺人犯の仕業だと言っていましたが、牧師館から出た時に一瞬にして、襲われて生死をさ迷うようなことになってしまったのです。
それでも、金先生は、日本人を愛し、キリストの愛を伝え続けました。
あの事件があった時、年会で、峯野龍弘先生が、使徒言行録7章から、ステファノの話しをしてくださいました。
ステファノが、キリストを宣べ伝えているという理由で、石打ちの刑を受けましたが、 ステファノは、この苦難の中で、天を見つめて、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使徒7:56)と言われたのです。
そして、人々が石を自分に投げているその苦難のただ中で、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」 と言いました。「それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。」(使徒7:59~60)のです。
これは、あのイエス様が、十字架上で祈られた祈りと同じ祈りでした。
あの年会の中で、この御言葉をいただきながら、十字架の主を見上げるような厳かな気持ちにさせられました。
金 圭東先生は、このような大変な目に遭いながらも、日本人にキリストの愛を宣べ伝えました。そして、各都道府県の県庁所在地に開拓伝道をというビジョンが掲げられて、25年の間に45の教会に成長しました。
特に、3・11の震災の時には、いち早く被災地に赴き、炊き出しや、瓦礫の処理、泥出しなどのボランティアを行いました。それは、キリストの愛の故です。そして、今日も仙台で、キリストの愛を伝えるために「東北リバイバル復興支援コンサート」が行われようとしているのです。
17節
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって神の相続人とされました。そして、キリストが私たちの罪のために十字架で苦しんでくださったように、私たちもキリストの故に苦しみに与るなら、キリストと共にその栄光にも与ることが出来るのです。
最後にもう一度、15節をみなさんで読みましょう
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」
今日は、神の子とされた者に与えられる祝福について3つの事をお話ししました。
(1)聖霊に導かれる祝福
(2)アッバ 父よ。と呼ぶ祝福
(3)苦難を通して与えられる祝福
聖霊に満たされて、この素晴らしい祝福の中を歩ませていただきましょう。
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