教会で、バプテスマ式を見たことがありますか?
バプテスマでは、イエス様を信じた人が、罪赦されて、汚い心をきれいにしていただいたことを表すしるしです。
先生は、3年半の前に、ヨルダン川に行きました。ちょうど、バプテスマ式が行われていました。30人くらいの人がバプテスマを受けていましたが、一人一人が、牧師から洗礼を受けるのではなく、牧師が「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける。」と言うと、みんなが、一斉に川に頭までつかるというようなやり方でした。
でも、そのバプテスマ式を見ながら、本当に感動をしたのを思い出します。今日は、イエス様がバプテスマを受けた聖書の箇所です。イエス様は、何も悪いことをしたことがありません。少しも汚い心はありません。それなのに、どうしてイエス様はバプテスマをお受けになったのでしょうか。
イエス様が、30歳の大人になられた時のことです。
ヨルダン川のそばにヨハネという人が毎日やって来るようになりました。ヨハネはとても変わった人で、らくだの毛皮で作った服を着て、腰には革の帯を締めていました。ユダヤの荒野に住んで、いなごと野蜜を食べていました。
ヨハネは、大きな声で言いました。
「みなさん、今まで犯した罪を「ごめんなさい。」と悔い改めて、神様を信じて下さい。」
集まってきた人たちは、お互いに顔を見合わせて言いました。「私は神様を信じていなかった。」「私も悪いことをしてしまった。」「神様に赦していただこう。」罪を示された人たちは、みんなヨハネの所にやってきました。
そして、神様に「ごめんなさい。」と悔い改めた人たちは、ヨハネからバプテスマを受けたのです。神様を信じて、新しい人にしていたたいたしるしです。毎日、大勢の人たちがやってきて、ヨハネの話しを聞いて、神様を信じて、バプテスマを受けました。大勢の人にバプテスマを授けたので、ヨハネはバプテスマのヨハネと呼ばれるようになりました。
ある日のことです。ヨハネの所に、イエス様がいらっしゃったのです。イエス様は、ヨハネの顔をまっすぐに御覧になって「私にもバプテスマを受けさせてください。」とおっしゃいました。
バプテスマのヨハネはびっくりしてしまいました。
イエス様は、神の子です。生まれて一度も悪いことをしたことがありません。心は、何も汚れていないのです。ということは、悔い改めのバプテスマを受ける必要はないのです。
ヨハネは、慌てて言いました。「とんでもありません。イエス様のような立派な方が、バプテスマを受けられるなんて・・・。」
それでも、イエス様は「みんなと同じようになるために、バプテスマを受けたいのです。」と言って、ザブーンとヨルダン川の中に入って、バプテスマをお受けになりました。
すると、不思議なことが起きました。イエス様がバプテスマをお受けになってヨルダン川から上がられた時、聖霊が鳩のように降ったのです。
そして、天から声が聞こえました。
17節「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
そして、この時から、イエス様は救い主としての本格的な働きを始められたのです。
このイエス様のバプテスマの聖書の箇所から、2つの事をお話ししたいと思います。
(1)バプテスマを受けられたイエス様
13節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。」
ここにイエス様が、ヨルダン川のヨハネの所に来られた理由が書かれています。13節の後半に、「彼から洗礼を受けるためである。」
バプテスマを受ける時、水の中に浸ります。(バプティゾーというギリシャ語が、浸すという意味があります。)それは、古い自分に死ぬという意味があります。そして、水から上がる時、イエス様がよみがえられた復活の命によって新しく造り変えられるのです。
すべての人は、罪人です。でも、たった一人だけ、罪を犯さなかった人がいるのです。それは、誰でしょう。
イエス様です。それなのに、どうしてイエス様は、罪の悔い改めて、きれいな心にされたしるしであるバプテスマを受けられたのでしょうか。
それは、イエス様が罪人と一緒に歩まれて、罪人を救うために来られたというしるしです。罪人を救うために来られたイエス様は、罪人と同じようにバプテスマをお受けになられて、私たちに模範を示して下さったのです。
罪を犯した私達人間は、それを神様に「ごめんなさい」と言って悔い改めて、イエス様を信じるだけではなくて、それを神様と人との前で言い表して、バプテスマを受けることを神様は願っておられるのです。
ローマ10:9~10(P288)
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
10節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とありますが、イエス・キリストを信じることは、本当に素晴らしい事です。しかし、イエス様を信じた人には、次ぎにしなければならない事があります。それは、「口で公に言い表して救われるのです。」 とあるように、それを神様と人との前で公に言い表して、バプテスマを受けることです。
この中で、まだバプテスマを受けていない人がいますか。どうか、イエス様を信じてバプテスマを受けてください。なぜなら、そのためにイエス様御自身が身をもってお手本を示して下さったからです。
(2)わたしの愛する子、わたしの心に適う者
イエス様に、聖霊が鳩のように降った時です。天から声が聞こえました。
17節 「そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」 この天からの声を聞いた時、バプテスマのヨハネは、この方こそ、私たちの救い主だということを確信しました。
そして、イエス様に 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 と言われた神様は、イエス様を信じる私たちにも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と愛して下さるお方なのです。
神奈川県の大磯に「エリサベス・サンダース・ホーム」という、お父さんやお母さんのいない子どもたちのための施設があります。
1948年にその「エリサベス・サンダース・ホーム」を設立した澤田美喜さんの証しです。彼女は、クリスチャンの外交官と結婚し、全国各地に夫と共に転任しますが、帰国後、第2次世界大戦は終戦を迎えました。
当時は、日本にはアメリカ軍が各地に駐屯し、アメリカ兵と日本人の間に多くの子どもが生まれました。ところが、多くの子どもは、親から捨てられて育ててくれる人がいなかったのです。
ある日のことです。彼女が汽車に乗っていると、突然網棚から、紙に包まれた荷物が落ちてきました。なんだろうと開いてみると、生まれたばかりの赤ちゃんの遺体だったのです。
彼女は、大変なショックを受け、また子どもたちのかわいそうな姿を見て、児童福祉施設を作ることを決心したのです。澤田美喜さんは、子どもたちを心から愛して育てました。
戦後間もない時代で、アメリカ兵を親に持つ子どもたちは、変な目で見られ、偏見や差別を受けていました。施設から一歩でも出ると、子どもたちだけではなく、そのお世話をしている澤田美喜さんも、悪口や、傷つけられるような言葉を言われていました。
そのような中でも、「子どもたちが、いつか偏見や差別のない国で、どうどうと歩く」姿を夢見て、その子どもたちを、深い愛と情熱を持って、2000人以上の子どもたちを育てたのです。そして、その一人の、親のない子どもを育てる愛と、情熱は今も、大磯の地で受け継がれています。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」イエス様こそが、神の子です。そして、神様が天から、イエス様に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語られたように、イエス・キリストを信じる私たちを「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と私たち一人一人に語りかけてくださっておられるのです。
(3)聖霊が鳩のように
16節「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」
イエス様が、聖霊をお受けになった時、聖霊が鳩のように降りました。なぜ、聖霊が鳩のように降ったのでしょうか。
ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降りました。その時には聖霊はどのように降りましたか?
火のように降りました。なぜ、火のように降ったのでしょうか。
人間には罪があるからです。だから、火によって焼き尽くされなければならなかったのです。
でも、イエス様は、罪がない聖いお方です。罪がないので、焼き尽くす必要はありません。だから、鳩のように聖霊が降ったのです。
そして、イエス様は、バプテスマを受けて、聖霊が鳩のように降るという経験をされてから、イエス様の公生涯、宣教の業が始まったのです。
聖霊が降る時、宣教の業が始まります。
東京富士見教会の牧師であられた、島村亀鶴先生のお証しです。私の最初の任地は、東京の小松川教会でしたが、そのころは、先生もご健在で、駅までお送りしながら、お話しを伺ったことがあります。
先生は、四国の高知県の生まれです。若いころ、先生の住む町にキリスト教の牧師がやってきました。当時、キリスト教は「ヤソ教」と呼ばれ、嫌われていました。島村青年も文句を言って追い返そうと思っていました。
そんな時に、近くの旅館で集会が行われていると聞いて、さっそく出かけていきました。
「日本には、日本の神々がいるが、ほかの神など間違った教えをする者は、即刻この町から出て行ってもらおう。」そう言うと、部屋の扉をガラッと開けました。
その時です。島村青年は、なぜか、「イエス・キリストは神の子か。」と聞いたのです。
するとリーダーの牧師が、静かに、取り乱すことなく、「イエス・キリストは神の子です。そして、神の子であられるイエス様は、あなたを愛しておられます。」と答えたのです。その人は、斉藤という牧師でした。
このはっきりとした、権威ある答えを聞いた島村青年は、ただ心打たれて、その場にひれ伏しました。そして「はい、わかりました」と言ったのです。そして、その後、すぐに海岸で洗礼式が行われ、島村青年もそのバプテスマを受けたのです。
やがて、島村青年は、牧師になり、島村亀鶴先生は、天国に召されるまで、聖霊の力によって多くの人々に福音を伝える伝道者として用いられたのです。
使徒言行録1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
今日は、イエス様がヨハネからバプテスマを受けた聖書の箇所を学びました。そして、イエス様がバプテスマを受けた時、聖霊が鳩のように降って、そこから、イエス様の宣教の業がが始まりました。私たちも、イエス様を信じ、バプテスマを受けて、聖霊に満たされて、神様に用いていただきましょう。
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