今日は、お忙しい中、ある方は遠方から召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。
今日の中心の御言葉は、25節です。「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
このみ言葉は、山形南部教会の納骨堂の隣りにある、国井家の墓に彫られている聖書のみ言葉です。このみ言葉が表しているのは、死というのは、私たちの終わりではなく、十字架にかかられたイエス・キリストが、罪と死に打ち勝ちよみがえられたように、私たちに永遠の命を与えて下さるお方であることを表しています。
ヨハネ11:1~16には、マルタとマリアがイエス様の所に人を送って「ラザロが病気なのです。」と知らせたことが書かれています。 その後、愛するラザロは病気のために死んでしまいました。 それなのに、イエス様がラザロの所に行ったのは、ラザロが死んでから4日も経ってからのことでした。そのことが17節に書かれています。
「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」
ラザロが墓に葬られて4日も経ったということは、ラザロの完全な死と、生き返る望は全くなくなってしまったことを表しています。この「4日」というのは、人間的に言うと絶望を表しています。 私たちの人生にも「もう絶望だ」と感じることがあります。しかし、生きていさえすれば99%は駄目でも1%くらいは、可能性がありますし、希望があります。 けれども、死んでしまったら、人間の力ではどうすることもできません。「葬られて既に四日もたっていた。」
という言葉は、そのような人間にはどうすることも出来ない絶望をあらわしているのです。
しかし、イエス様は、そのような絶望のただ中に、来てくださるお方なのです。そして、死を打ち破り、よみがえられたイエス様は、私たちのどんな絶望と思われることをも打ち破り、希望を与え、御業を成してくださるお方なのです。
そのイエス様を迎えたのが、マルタでした。20節 「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」 この20節にもマルタとマリアの性格が良くあらわされています。
ルカ10:38~42には、イエス様が来られた時、マルタが一生懸命接待をし、マリアは、イエス様の足もとに座って、御言葉に聞き入っていたことが書かれています。マルタは、ここでも活動的な人でした。そして、マルタが、じっとしているマリアに腹を立てると、イエス様は、41~42節で「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 と戒められるのです。
この時もマルタは、イエス様が来られると聞くと、すぐに立って出迎えに行きました。マルタはじっとしていられなかったのです。 このマルタの姿を通して、今日は、主の御声を聞かせていただきたいと思います。 この聖書の箇所を3つに分けて、御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)マルタの不信仰
マルタは、イエス様を信頼し、イエス様が来られたことを聞くと、すぐに出迎えましたが、この時にマルタはいくつかの失敗をしてしまいます。ここでは、3つのことを見てみたいと思います。
①場所についての不信仰
マルタはイエス様に会ったとたんに、その本心を話し始めました。21節「マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
これを言い換えるとこういう事だと思います。「イエス様、わたしたちがラザロが病気だとお知らせした時に、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか?もう少し早く来てくださっていさえすれば、弟は死ななくてすんでいたでしょうに。」
マルタは、イエス様が癒す力を持っていることは信じていました。しかし、マルタはイエス様が、場所を越えて働かれるお方であることは、信じることが出来なかったのです。 ちょうど、お医者さんが、病院からやって来て、治療をするように、イエス様が、その場に、やって来られれば癒されても、そこに来なければ駄目だと考えてしまったのです。
マルタは、ヨルダン川の向こう側で御業をなしておられるイエス様は、ベタニアでも働かれるお方であることを知るべきでした。 神の子であられるイエス様は、場所を越えて、どこでも御業を成してくださるお方なのです。
②時についての不信仰
21節「 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
とイエス様を非難したマルタでしたが、それでも、信仰を失ったわけではありませんでした。22節をご覧ください。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
と言っています。 これは、本当に素晴らしい信仰だと思います。 死という人間ではどうすることもできない絶望を前にしても、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 とイエス様に一筋の希望を見いだしているのです。
その信仰を見られたイエス様は、23節でという素晴らしい約束を与えてくださいます。それは、「あなたの兄弟は復活する」という約束です。 ところが、マルタはここでも、不信仰による失敗をしてしまいます。24節「マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。」
この「終わりの日に復活する。」という信仰は、ユダヤ人が持っていた信仰で、この復活の思想は、一般的に行き渡っていたのです。 確かに、私たちは、終わりの日に、新しい天と新しい地に入ることが出来ます。 けれども、それと同時に、今、イエス・キリストを信じる信仰によって、復活の命に生きることが出来るのです。 マルタは、復活を遠い未来のことと考えていました。けれども、今、イエス様が与えようとしておられる恵みに気がつかなかったのです。
Ⅱコリント6:1~2(P331)「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」 とパウロは言っています。 今、神様は、私たちをイエス・キリストを信じる信仰によって救ってくださいました。そして、今、私たちは復活の命をいただいて、永遠の命の中に生かされているのです。 神様の復活の命は、遠い未来に与えられるものではなく、主イエスを信じた今、与えられているのです。
③全能の主への不信仰
39節「イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。」 ここで、マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言っています。
マルタは、「イエス様は、死人をよみがえらせることがおできになるかも知れません。しかし、4日もたって、においもしていますから、いくかイエス様でも、無理のです。」とイエス様の力の大きさを制限してしまっているのです。
私たちも、イエス様の御業を、私たちの不信仰によって制限してしまうことはないでしょうか。 イエス様は、罪人を救うことの出来るお方です。けれども、腐ってしまって臭いがするような罪人は、救うことが出来ないと考えてしまうことはないでしょうか。 また、自分自身を見て、いくらなんでも、こんな罪深い者は、イエス様でも赦してくださらないだろうと、自分を攻めて苦しんでおられるお方がいらっしゃらないでしょうか。けれども、それは、サタンのささやきです。サタンは私たちにそのような不信仰によって、神様から引き離そうとしているのです。
マルタの不信仰について、見てきました。マルタは、その場所にイエス様がいなかったからと言って不信仰になり、もう少し早く来てくだされば助かったでしょうにと不信仰になり、死んで4日もたったら、いくらイエス様でも無理ですと不信仰になってしまったのです。そして、その姿は、まさに、私たちの姿ではないでしょうか。 そのような、不信仰なマルタに向かって、イエス様は、素晴らしい御言葉と、約束を与えられます。
(2)マルタに与えられた約束
25~26節「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
25節でイエス様は、ご自分のことを「わたしは復活であり、命である。」
とおっしゃいました。 イエス様こそが、復活であり、命です。 イエス様は、死に対して勝利され、死という人間にはどうしても越えられない絶望を超越して、栄光をあらわされるお方なのです。 イエス様は、この御言葉通りに、全人類の罪のために十字架にかかられましたが、罪に打ち勝ち、死に打ち勝たれて三日目によみがえられたのです。 イエス様こそが、復活であり、命です。
バックストンは、イギリスの大銀行家の子息として育ちましたが、1890年に宣教師として、来日して島根県の松江で伝道しました。 彼は私利私欲をすべて捨てて、キリストの愛を伝えました。そのバックストンのキリストの愛のメッセージによって多くの人々が罪を悔い改めて、次々に救われていきました。 そんなある日のことです。本国のイギリスから、親が亡くなったという電報が届きました。バックストンはすぐに帰りたいと思いましたが、飛行機もない時代のことです。簡単に帰ることは出来ません。ただ、「どうして、すべてを捨てて、主に従ってきたのに、親の死に目にも会えないのですか」遠い日本の地で悲しみをこらえるしかありませんでした。 そのような時に、バックストンは、自宅の庭にでました。すると、冬には、葉も花もなく枯れていたようなバラに、葉が茂り、みごとな花が咲いていたのです。その美しい花に、復活の命を思い起こしました。 そして、その庭に以前掲げた看板に、こう書いていました。「We Live in Eternity」(我らは永遠の中を生き続けるのだ。) バックストンは、親の死に目にも会えませんでした。しかし、この言葉によって、今、自分も親も、復活の命によって神様の永遠の御座の中に生かされていることを確認することが出来たのです。そして、この恵みを伝えるために自分は日本に来たことを思い出して、もう一度奮い立つことが出来たのです。 その時に、バックストン先生にとって、先生を通して救われた魂の一人一人が、多くのバラがその庭に咲いているように、「誇るべき冠」のように感じられたというのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 イエス・キリストを信じる信仰は、死をも打ち破る勝利の力です。今、どんなに枯れているバラのように見えても、復活の命によって、美しい葉を茂らせ、花を咲かすことが出来るのです。そのような祝福が、私たち一人ひとりに与えられているとは何という恵みでしょうか。
(3)マルタの信仰告白
26節「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタにイエス様は、「このことを信じるか。」
と聞かれました。 その質問に対して、マルタは何と答えたでしょうか。27節 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 これがマルタの信仰告白でしたる
イエス様が、よみがえられて今も生きておられるだけではなく、イエス様を信じる者はだれでも、永遠の命が約束されています。 信仰によって、イエス様と私たちとは一つにされて、イエス様の復活と命が、私たちにも与えられるのです。 そして、その神様の恵みは、場所を越え、時間を越え、罪の大きさを越えて、すべての人にイエス・キリストを信じる信仰によって与えられるのです。
私の父が天に召されたのが9月でしたので、今年でもうすぐ4年になります。私の父のことで恐縮ですが、多くの方々に祈っていただきましたので、父の証しをさせていただきたいと思います。 父は、結婚する前にある宣教師によって信仰に導かれした。そして、母と結婚して50数年の信仰生活を北九州復興教会で導かれてきました。 その父が、4年前の4月に、胃癌のために入院をしたのです。3回くらい抗がん剤を飲んで、胃の手術の準備をいてきましたが効果がありませんでした。 そしてある日、私が父を訪ねた時、主治医の先生に呼ばれて、父の状態を聞きました。「胃の周りのリンパ節にガンが転移していて、胃の手術をすることはまず不可能です。無理に強い抗がん剤を使って苦しんで、手術を行うよりも、日常生活が行われるような弱い抗がん剤を使って、今の時を有意義に過ごした方が良いと思います。」と言われました。 それを父も母も聞いていました。ガンの告知を受けるということは、非常に苦しく辛いことだと、聞いていましたが、父は病室に帰ると、母に「僕の心は平安だよ。僕はこの時のために信仰を持ってきたんだ。」と言ったそうです。 それから、一ヶ月経って、聖ヨハネ病院というホスピスの病院に転院しました。 不思議なことに、その病院のある町は、父と母が新婚生活を始めた町でした。そこで、一ヶ月半、天に召される備えをしたのです。癌のため食物が喉を通らず、点滴だけの生活でした。 みるみるうちに、体重は減り、体力は落ちていきました。やがて、言葉が出なくなり、筆談をしていましたが、ペンも持てなくなりました。しかし、父の心の平安は代わることがありませんでした。しかし、多くの方々が、病室を訪ねてくださいましたが、いつも笑顔で会話を楽しんでいたそうです。 やがて、私たちが危篤の知らせを受けて、病室に行った時手を握りしめると、何度も手を握り替えして、感謝を表してくれました。そして、最後の日、9月6日の日曜日の早朝、母が、父の息が荒くなったと兄姉を呼んで、ベットの周りに集まりました。 そして、少しでも、励みになればと、父の愛唱歌「やすかれわが心よ」と「主よ御手もて」を賛美しました。そして、私たちの家族が最も愛している詩編23編を家族で暗唱したのです。 その時に、主治医の先生が来られて、「このように荒い息をしているのは、酸素が必要だからです。決して苦しんでいるのでも辛いのでもありません。まだ、尿が出ていますから、今日、明日は大丈夫でしょう。」といってくださって、家族がホッとして安心をしました。 その時に、父の息が、急に遅くなり、最後に大きな息を吸って天に召されていったのです。父が、人生の最後にしたのは、神様を賛美し聖書の御言葉を読んで礼拝をささげることでした。そして、家族を安心させて、天国に召されていったのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 イエス・キリストを信じる信仰は、死をも打ち破る勝利の力です。そのような祝福が、私たち一人ひとりに与えられているとは何という恵みでしょうか。
マルタにイエス様は、「このことを信じるか。」 と聞かれました。 その質問に対して、マルタは27節で マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
答えました。 これは、イエス様を救い主と告白する、立派な信仰告白です。 そして、これは、ヨハネによる福音書に記されている唯一の信仰告白です。 イエス様は、私たちにも、「このことを信じるか。」 と聞かれます。 私たちも、その問いかけに対して、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
と答える者とさせていただきましょう。 そして、マルタが、愛する兄弟ラザロのよみがえりを見たように、私たちも、私たちの、考えや常識をはるかに越えた素晴らしい御業を見せていただきましょう。
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陳 建培 澤田直子 (金曜日, 14 2月 2014 12:30)
岡先生、好美先生
母はマカオ現地時間の2月10日に天に召されました。主の憐れみと多くの方々に祈っていただき、年末の危篤状態から大晦日の日に意識が戻り、呼吸器をつけた母と筆談できたことに、大変な感謝です。更に主の栄光で、10日間ほど一般病室に移ることもできて、父と弟、親戚と話すことが出来て、悔いの無い時間を過ごしたと聞きました。
岡先生の説教に大きな慰めをいただきました。天国で母とまた会えると信じます。
感謝して、
アーメン