今年も、オンヌリ教会宣教チームの方々がいらっしゃいました。大切な休暇を献げて、それも飛行機代も自費で、大きな犠牲を払って、私たち日本人に神様の愛を伝えるために来てくださいました。 一度は、来て下さる方はおられるかも知れませんが、今回17名中、始めて来られた方は6人、後の方は、山形南部教会を愛してくださって何度も来てくださっています。ハン・ドンフンさんが一番多くて、11回目です。心から感謝と歓迎をしましょう。 そして、今日は、ウェスレアン・ホーリネス神学院から丸山順子神学生が個人派遣で来られています。丸山神学生は、社会福祉の仕事をしておられましたが、主のお招きにお答えして、全てを献げて、今献身者としての歩みをしておられます。
今日の中心の御言葉は13節です。
「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
ここに「五体を義のための道具として神に献げなさい。」とあります。「五体とは」何でしょうか。辞書を調べてみました。広辞苑によると、「身体の5つの部分、頭、両手、両足。または、頭、首、胸、手、足。」そのようにからだ全体を表す言葉です。
その「五体を不義のための道具として罪を犯してはなりません」「かえって、五体を義のための道具として神に献げなさい」というのです。
今日の聖書の箇所では、そのような信仰のことが、心の中にとどまらず実践的なこととして書かれています。キリストに結ばれた者が、どのような生活をすべきかが書かれています。 クリスチャンというのは、ただ、イエス・キリストを信じる信仰の世界にとどまることはありません。クリスチャンになると、教会で礼拝をささげ、お祈りをし、聖書のみ言葉を読みます。それは、素晴らしい事ですが、そのような霊的な所にとどまっているならば、それは、片手落ちです。そこからこの世へと遣わされていかなければならないのです。
イエス様は、山上の説教で「あなたがたは地の塩である」「世の光である」とおっしゃいました。 マタイ13~16「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
16節に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 とあるように、私たちは、この世の中で「地の塩」「世の光」として証しをしなければならないのです。 その信仰の実践について3つの事をお話ししたいと思います。
(1)不義のための器
義のための器12~13「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
わたしたちが、この世に出て行く時、大変な戦いがあります。 パウロが考えているように、私たちの体は、不義のための道具としても、義のための道具としても用いられるのです。 神様は、人を用いられます。神様の御業は、人なしには行われないのです。もし、神様が人に何かを伝えようとするならば、人の口を用いて伝えられるのです。もし、神様が人に愛を示そうとするならば、人を通してその愛の業を行われるのです。また、神様が人に元気づけ、勇気づけ、力づけようと望まれるなら、人を用いてそのようなことを行われるのです。13節の後半に「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」神様は、そのような働き手を求めておられるのです。そして、私たちの手や足、目や口、私たちの五体を用いて、素晴らしい業を成して下さるのです。
しかし、それは罪の場合も同じです。罪は、人の言葉や行いを通して、人をそそのかし、人を傷つけ、時には人を死に至らしめてしまうのです。 そこで、パウロは12~13節前半で「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。」と警告しているのです。 私たちは、神の手に握られるか、罪の手に握られるかで、全く違う者となってしまうのです。 例えば、1本の包丁を考えてください。包丁が、強盗に握られると、それは、人を傷つけたり殺す道具となってしまいます。ところが、その包丁が愛するお母さんの手に握られたらどうでしょう。それは、愛情のこもった料理を作る道具として用いられます。 私たちを神様の手に握られるのか、それとも、罪の手に握られるのか、それは、大きな選択です。そして、それを誰の手に渡すのかは、私たち自信が決断しなければならないのです。
「どうか、わたしの五体を義のための道具として、神様の栄光のために用いてくださいと祈りましょう。」 そして、それは、自己中心の道ではなく、謙遜への道です。
今週の木曜日から、昨日まで、母の80歳のお祝いに、河口湖に行ってきました。今年、富士山が世界遺産になったことで、多くの観光客が集まっていました。 富士山は日本一高い山ですが、湖に写る富士山を「逆さ富士」と言います。 律法と福音をこの富士山と「逆さ富士」にたとえることが出来ます。律法というのは、自分の力や努力で救いを得ようとしますから、富士山を登るようなものです。そして、それはこの世の人が求めている幸せとよく似ています。人は、スポーツの世界にしても、学歴にしても、出世にしても、人間の努力によって登り詰めようとしています。しかし、多くの人が、それを登ることが出来ずに、落ちこぼれていきます。
しかし、福音というのは、逆さ富士みたいなものです。神の子であられるイエス様が、この地上にまで降りてこられ、十字架の死という、この世で一番低いところで、救いの業を完成されたのです。フィリピ2:6~8 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
その、イエス・キリストの十字架によって私たちは救われたのです。
イエス様がどこまでも謙って、私たちの罪のために十字架にかかって救いの業を完成してくださいました。そのように、私たちもどこまでも謙遜になって、わたしたちの「五体を義のための道具」として、神様に用いていただきましょう」
7月は、ゲリラ豪雨が、日本を襲い、各地が大きな被害に遭いましたが、昔、イギリスでも、そのような暴風雨が襲ったことがありました。 その時に、ジョン・ウェスレーの弟、チャールズ・ウェスレーが、この集会を行うべきかどうか迷って、友人のジョン・エバンスに相談しました。すると、エバンスはこう答えたそうです。「君がもし主人であるなら、その心にまかせた方が良かろう。しかし、君がしもべであるなら、主人の御心はどうかと考えて、それを実行するべきであろう。」 そこで、チャールズ・ウェスレーは、祈ってこの集会を行い、暴風雨の中、多くの人が集まって、イエス・キリストを信じる人が起こされたというのです。
謙って、わたしたちの、頭も、両手も、両足も、義のための道具として神様に用いていただきましょう。
(2)神の道具として用いられる動機
15節「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」
「恵みの下にいるのです。」とありますが、これは、イエス・キリストの十字架愛による恵みです。イエス・キリストは、十字架で命を捨ててくださるほどに、私たち一人一人のことをかけがえのない大切な存在として愛してくださっています。そのキリストの愛によって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が約束されているのです。それが、キリストの愛によって与えられている恵みです。 その愛ほど励ましとなるものは、世界中のどこにもありません。 その神様の愛の故に、よりよき器になろうと、燃えるような願いをもって出かけていった人たちがどんなに多くいることでしょうか。私たちもその一人です。 クリスチャンの生活は、もはや耐えられないような重荷を負うようなものではなく、神様の恵みの特権にあずかって、神に従って行く生活です。
デニーという神学者がこう言っています。「罪から解放するものは、束縛ではなく、聖霊の力である。聖徒ならしめるのは、シナイ山で与えられた律法ではなく、カルバリ山で与えられた愛である。」 律法は、恐怖によって罪を抑制しますが、しかし、愛は恵みの故に、心から喜んで神に従う者へと私たちを押し出すのです。
今日、オンヌリ教会から、18名の方々が来られています。その動機は何でしょうか。それは、キリストの愛故です。今回もオンヌリ教会の方々は、大きな犠牲を払って、この山形に来てくださいました。大切な休暇を5日間取るだけでも大変なことです。また、旅費も自費ですし、今回もたくさんのプレゼントをもって来てくださいました。特に今回は明日から、被災地である岩沼にサマーキャンプに出かけます。そこで、今日の午後には、早股の「朝どり」で、HAPPY
TOGETHERが行われ、明日は、瓦礫処理などボランティアが行われます。
どうして、毎年、東北の地に来てくださるのでしょうか。 今は、日韓関係が悪く、東京で行われているデモなどを見ると、今にも戦争が起こりそうな感じがします。それなのに、どうして日本なのでしょうか。 天に召された、ハー・ヨンジョ先生が、「どうして日本なのですか。」と聞かれた時、「理由はありません。片思いの愛です。」と答えられましたが、神様が一方的な愛で愛してくださったように、オンヌリ教会の方々も一方的な愛で、私たちを愛してここにおられます。その愛に満たされて、私たちもキリストの愛を言葉をもって、行いをもって伝えるお互いでありたいと思います。
13節「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」 パウロは、キリストの愛故に、五体を義のための道具として神様にささげるように進めています。 ハバルガルの書いた献身の歌が新聖歌365にあります。
「君なるイエスよ」
1 君なるイエスよ、けがれし我を 洗いきよめて めぐみを賜え。 わが日わが時 わがもの皆は 今よりとわに 君のものなり。
2 わが手は君の み業をならい、 われの歩みは み跡をふみて、 いそしみ進み、 主の御力に 常にたよりて 強からしめよ。
3 われの舌をば すくいの主の 恵みをうたう 器となして、 わが口唇くちびるに よき音ずれを 溢るるばかり 満たしめたまえ。
4 黄金こがね、しろがね 知恵も力も 献ささげまつれば、 みな取り用い、 我のこころを 宝座みくらとなして、 み旨のままに 治めたまえや。
イエス・キリストは、全てをささげて救いの道を開いてくださいました。そのことを心から感謝して、私たちも、時も、財産も、身も、魂も、一切残らず神様にお献げして、五体を義のための道具として、神様の栄光のために用いていただきましょう。
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