今日澤田恵利花姉の証しをお聞きする今年が出来感謝です。 澤田恵利花ちゃんは、2年生の時に、松本麻椰ちゃんと川上恵衣ちゃんと一緒にバプテスマを受けました。教会員みんなの前で、信仰告白をして、洗礼層で、洗礼を受けた時の感動を今でも忘れることが出来ません。 今日の聖書の箇所は、そのバプテスマを例えにして、聖潔について書かれている聖書の箇所です。
今日の中心の御言葉は11節です。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
まず、1節をご覧ください。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」
これは、先週学んだ5:20のみ言葉に対する反論です。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」 ここに、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
とありますが、どんなに罪を犯しても、その罪が恵みによって赦されるのであれば、その恵みが増し加わるように、罪を多く犯し続けたほうが良いのかという質問です。 パウロは、それに対して、2節で「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」と強い口調で答えています。私たちは、イエス・キリストの十字架によって、罪に死んだ者です。その私たちが、どうして、罪を犯し続けることが出来るでしょうと言っているのです。
ハイデルベルグ信仰問答の問64に、このみ言葉に対して「この教えは、人間を、無頓着な不遜なものに、するのではありませんか。」という質問があります。そして、それに対して「そういうことはありません。なぜなら、まことの信仰によって、キリストに接がれた者が、感謝の実を結ばないということは、あり得ないからです。」と答えています。 「罪に対して死んだわたしたち」
死というのは一回限りの決定的なものです。私たちは、イエス・キリストを信じた時、罪に死んだのです。そして、木にたとえると、罪という木は切り倒され、キリストという幹に接ぎ木されたのです。渋柿は、接ぎ木をされないと渋柿のままです。しかし、一度甘柿に接ぎ木されると、その時から甘柿を結ぶようになります。 そのように、私たちも罪という木から、キリストに接ぎ木されましたから、私たちは、肉の業による実ではなく、御霊の実を結ばれるように作りかえられたのです。
それでは、私たちは、どのようにして罪に死に、キリストによって生かされた生活をすることができるのでしょうか。 そのことを、今日の聖書の箇所では、バプテスマを例えに語っています。
私たちの教会でも、バプテスマ式を行います。私たちの教会では、浸礼という体全体を水に浸すのと、滴礼という頭に水を注ぐ二つの方法があります。どちらも、イエス・キリストを信じる信仰を神と人との前で言い表す大切な信仰告白の儀式ですが、ここで言われているのは、体全体を水に浸す浸礼のことを言っています。あのバプテスマは、水につかって全身を水に浸す時、キリストと共に死ぬことを表しています。そして、水から上がる時、よみがえりのキリストの復活の命によって新しい人生が始まるのです。 あのバプテスマを思い起こしながら、今日のみ言葉を読んでみましょう。
(1)バプテスマ死を表す
1~11節には、死、十字架、葬りなど死に関連する言葉が、16回も出てきます。「死」というのは、古い自分に死ぬという意味で、大切な思想を表しています。3節には「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」
とありますが、キリスト・イエスによって結ばれるために、バプテスマを受けた、わたしたちは皆、また死にあずかるためにバプテスマを受けたのだと言っています。 ここに書かれているように、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けるということは、罪に対して死ぬことを表しています。罪に死に罪から解放されるということは、人間の理解ではとうてい考えられないことです。ただ、イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ成されることです。 イエス様は、私たちの罪のために十字架で死なれました。その十字架に、私たちの罪も釘づけられたのです。そして。イエス・キリストが十字架で死なれたのと同じように、私たちの罪も釘づけられ、死んだのです。 また4節の前半では「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と、死んだだけではなく葬られと書かれています。それは、死の確かさを表しています。
この罪に対する死について、カルヴァン主義では、圧迫節が主張されています。それは、罪がイエス・キリストの十字架によって押さえつけられていて、何かのサタンの誘惑や攻撃によって、再び罪を犯してしまうという考え方です。 それに対して、ジョン・ウェスレーは、根絶説を説きます。イエス・キリストは十字架で完全に死なれたので、そのイエス・キリストの死にあずかる時、罪は根こそぎ取り除かれて、完全に死んでしまうのだという考え方です。 私たちは、後者の「根絶説」という立場を取っています。 「死」というのは、中途半端なものではなく、完全なものです。それと同じように、イエス・キリストの十字架による聖潔の業は、完全なものなのです。
そのことが、6~7節にはこう書かれています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」
わたしたちの罪は、イエス・キリストの十字架と共に死に、わたしたちは罪に支配されることはありません。そして、イエス・キリストの十字架によって、もはや罪の奴隷ではなく、罪から解放された者とされるのです。
(2)バプテスマは復活を表す
4節後半~5節「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
バプテスマは死を意味するとお話ししてきましたが、その死は、死に終わるのではなく、「わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあるように、新しい命に生きるための死です。 さらに、4節に 「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、」
とあるように、「栄光ある」命です。栄光というのは、神の全能の力のことです。神様の栄光と恵みによって、イエス・キリストが復活されたように、同じ栄光をもってわたしたちを復活させて下さるのです。 そして、5節には「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
とあります。 「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、」
とあります。わたしたちがイエス・キリストの死にあずかる・・・十字架にかかるということは出来ませんが、イエス様がわたしたちの罪のために十字架にかかられたように、わたしたちの罪を十字架につけ、自我に死に、罪に死に、古い自分に死んで、キリストの十字架の死にあずかるなら、そのような人は、そのキリストの復活の姿にもあやかる事が出来るというのです。 このような徹底した死によって、キリストのように復活の命にあずかる事が出来るのです。
そのことが8~10節に書かれています。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」
バプテスマを受けた時、沈んだままではありません。そこから、もう一度顔を上げてそこから新しいクリスチャンとしての歩みが始まるように、古い自分に死んで、新しい復活の命をいただいたのです。その復活の主によって、罪に打ち勝って聖潔られ、死に打ち勝つ永遠の命が約束されているのです。
1899年、オランダの子孫であるボーア人の南アフリカ共和国と、イギリスが戦争をしました。 ある時、イギリス軍の小部隊が、ボーア人に突然陣地を襲われました。ボーア人は、無防備なイギリス軍に対して雨あられのように攻撃を仕掛けてきました。 戦闘の始めに傷ついた、兵隊たちは、ボーア軍とイギリス軍の間に放置されたままで、逃げることも助けることも出来ません。そのまま放置しておけば、みんな残らず死んでしまうような状況でした。 何とか、敵と戦い、負傷した兵士を助けようとしますがどうしようもありませんでした。その時です。一人の兵士が、白い布を取り出して、自分の体を傷つけて、真っ赤な血で、一本の線を書いたのです。それを見ていたもう一人の兵士が、彼の意を悟って、同じように自分の体を傷つけ、もう一本の血の線を交差させました。そしてその旗は、竿の先につけられ、適地に向かって降り続けられたのです。 すると、弾丸は止み、戦場に一時の平和が訪れたのです。この間に、放置されていた負傷兵は助けられ、彼らは全員助け出されたのです。 血染めの十字架を、ボーア人の心を動かしたのです。
この旗が、兵士の血によって書かれたように、イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架にかかって下さいました。その十字架にこそ、救いがあります。そして、キリストの十字架にこそ、死に打ち勝ち、罪に打ち勝つ力があるのです。イエス・キリストの十字架を信じる時、もはや、わたしたちは死に向かっている負傷兵ではありません。死から救われ、新しく生きることが出来るのです。
(3)バプテスマは結び合わされることを表す
3~5「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
ここに「あずかる」「あやかる」「共に」「一体になって」という言葉が出てきます。これらの言葉には、共通の意味があります。それは、わたしたちが、十字架と復活の主と結び合わされるといういう意味です。 そして、主とわたしたちが一つになるために、イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架でその肉を裂いて下さったのです。わたしたちは、簡単にイエス・キリストと一つになると言うことを考えますが、そのために、十字架で清い神の独り子であるイエス・キリストの肉が裂かれ、尊い血潮が流されたことを忘れてはならないのではないでしょうか。
接ぎ木されたいばらの話しです。 荒野にいばらが生えていました。そこへシャベルを持った、庭師がやってきました。庭師がそのいばらを見つけると、そのいばらを丁寧に掘り始めました。すると、そのいばらがひとりごとを言いました。「この人は、何をしているのだろう。この人は、私が価値のないいばらであることを知らないのだろうか。」 しかし、庭師はそのいばらを手入れのゆきとどいた庭園に持って行くと、美しい花と花の間に丁寧に植えました。いばらはまたこう言いました。「あの人は何という失敗をしでかしたのだろう。私のようないばらを、こんな美しいバラの花の間に植えるなんて・・・。」 しばらくして、庭師は鋭いナイフを持ってきて、そのいばらの幹に、バラの芽を接いだのです。 やがて夏がやって来ると、そのいばらの木から、美しいバラの花が咲いたのです。 その時、庭師はいばらにこう言いました。「お前の美しさは、お前自身から出たものではない。私がお前に注入したものだ。」
このいばらのように、私たちがキリストと結び合わされる時、キリストがわたしのうちに宿り、キリストの命にあずかり、キリストの持つ全ての祝福を受け継ぐ者とされるのです。心からの感謝と賛美の花を咲かすものでありたいと思います。
11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
先週の月曜日、KMさんのお見舞いに行ってきました。末期ガンと言われ手術をして、抗がん剤の治療中です。顔は一回り小さくなり、この先どうなるか解らないような状況ですが、前と変わらず、素晴らしい証しを聞かせてくださいました。 Mさんがガンになったために、家族みんなが訪ねてくれ、家族が一つになって感謝ですと、メールで送られてきた孫の写真を見せてくださいました。また、放蕩息子のような息子が、農業を始め、この春から父のために祈りたいと言って、教会に通うようになったこと、など家族にこの苦しみを通して素晴らしい御業が成されていることを証してくださいました。 そして、山形の家族のことや、そしてMさんの知っている山形南部教会の教会員の名前をあげて、「あの人はどうしていますか」と聞いてくださいました。その姿で、いつも山形南部教会にいる兄弟姉妹のために祈ってくださっていることがよく分かりました。 そして、先週みなさんに書いていただいた寄せ書きをお渡しすると、「私のために、日本中の人、海外の人も祈られている。私ほど、幸せ者はいません。」と言ってとても喜んでおられました。ガンの末期で、体が衰えていく中で「私ほど幸せ者はいません。」と言える信仰は、本当に素晴らしいと思いました。
その証しをお聞きし、聖書ローマ12:12「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」を読み、讃美歌515番を歌って、祈りましたが、本当に聖会のような素晴らしい一時でした。
Ⅱコリント4:16にある「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」、というみ言葉のような姿に、私はお見舞いに行ったのですが、かえって、励まされ、恵まれて帰ってきました。
どうして、そのように生きることが出来るのでしょうか。それは、イエス・キリストと結ばれて、キリストと共に生きておられるからです。 わたしたちも、罪に死に、キリストに結ばれて、主と共に生きるお互いとさせていただきましょう。
11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
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