今日は、川上英子姉のお証しを伺うことができ感謝です。 今朝、家族でディボーションの時を持ちました。リビングライフの聖書の箇所は、使徒言行録9:36~で、そこには、タビタ(訳して言えばドルカス「かもしか」)という女の弟子のことが書かれています。そのタビタについて「彼女はたくさんの良い行いや、施しをしていた。」と書かれています。この記事を読みながら、二人のことを思い浮かべました。一人は、川上義也兄のお母様タダヨさんを信仰に導いた、天に召された歌丸愛子姉妹のことです。この姉妹は、与える人で多くの人に愛をもって仕えた姉妹です。そして、もう一人が川上英子姉です。先週の転入会式の時にも、本来ならば、私たちが食事の準備をしてお祝いをしなければならないのですが、ご自分で教会員全員に食事を振る舞ってくださいました。 ところが、そのタビタは病気のため死んでしまうのです。みんなが悲しみ祈っていると、ペトロが「タビタ起きなさい。」と言いました。すると彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がったのです。 死というのは、絶望を意味します。たとえ、どんなにつらい事が起きたとしても、生きていれば何とかなる。しかし、死んでしまったら終わりだと言います。しかし、私たちの神様は、死から命を与えてくださいるお方です。
今日の中心のみ言葉は、18節です。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
先週、アブラハムのの信仰について学びました。アブラハムは、律法を守る行いによって義と認められたのではなく、また、割礼によるしるしによって義とされたのでもなく、ただ、主を信じる信仰によって義と認められ、信仰の父として祝福をいただいたことを学びました。
そして、今日読んでいただいた、13節以下には、そのアブラハムの信仰の素晴らしさが、具体的に書かれています。
13節に「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」
と書かれていますが、アブラハムは、信仰によって、ユダヤ人の信仰の父としてだけではなく、世界のすべてのクリスチャンの「信仰の父」とされたのです。しかも、それはアブラハムだけではなく、昔から神様から選ばれたすべての聖徒が、祝福の源として用いられてきたのです。
13節の前に太字で、「信仰によって実現される約束」と書かれていますが、信仰の祝福について3つのことをお話ししたいと思います。
(1)無から有を生み出す信仰
17節 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」
口語訳聖書では 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」 と訳されています。
アブラハムは、もともとカルデヤのウルの出身で、偶像の中に生きている者でありました。そのように、無に等しい者であったにもかかわらず、神様は彼をそこから呼び出して、召し出されたのです。 そして、神様は、アブラハムに多くの国民の父となるという約束を与えられました。創世記12:1~3「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
このような素晴らしい約束が与えられたにもかかわらず、アブラハムとサラの間には子どもが生まれず、この世的に考えると、出産が全く不可能な年齢になってしまいました。 しかし、神様は全能のお方です。「存在していないものを呼び出して存在させる神」「無から有を呼び出す神」です。約束通りに、イサクを与えられたのです。創世記21:1~5「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。」
アブラハムが百歳になって、子どもが生まれるとは、人間的には不可能なことです。しかし、神様はこれが、人間の業によってなされたものではないことを明らかにするために、百歳のアブラハムとサラの間に子どもを与えられたのです。これは、まさに無から有を生み出す神様の御業です。
サーカスを見に行ったことがありますか。 サーカスの中で、トラやライオンが、火の輪をくぐる演技があります。動物学者によると、動物は毛で覆われていますから、火を本能的に嫌うそうです。毛に火が付くと焼け死んでしまうからです。 では、なぜ、あのライオンやトラは火の輪をくぐることが出来るのでしょうか。調教師によると、いくら訓練を積んでも動物は、火に突進することはできないと言いました。では、そのような動物に火を飛び越えさせるものは何でしょう。 それは、主人に対する信頼です。動物は、火に向かう前に主人の目を見るそうです。そして、主人を信じてあの火の輪をくぐり抜けるのです。 私は、それを聞いて、本当に感動をしました。動物でさえ、主人を信頼して火の輪をくぐることが出来るのであれば、まして、神様は決して間違いのない方です。その方をしっかりと見つめて、火のような試練の中でも飛び込んでいくことが出来るのではないでしょうか。17節 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」
神様は、無から有を生み出すことの出来るお方、死者に命を与えることが出来るお方です。そのお方を信頼して、私たちの人生を歩み出させていただきましょう。
(2)望み得ない時になおも望みを抱く希望の信仰
18~19「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」
アブラハムの信仰の素晴らしさは、どのような状況の中でも、「希望」を失うことがなかったということです。 アブラハムは、百歳になって、サラの胎が不妊であることを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかったのです。18節「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
人間的な望みは、もはや尽き果ててしまっていても、神様の「あなたの子孫はこのようになる」 という約束に希望を持って信じたのです。そして、その結果彼は「多くの民の父となりました。」とパウロは言っています。
しかし、創世記のアブラハムの生涯を見てみると、4:18~19に書かれているように単純で、純粋なもの出なかったことが解ります。
創世記15:5では、 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 という約束を信じています。
ところが、16章では、自分たちに子どもが生まれないので、サラがその後継者が与えられるようにと、アブラハムに女奴隷のハガルの所に入るように命じ、アブラハムとハガルの間に、イシュマエルが生まれたことが書かれています。
創世記17章で、再び神の声がかけられ、続いてサラを多くの国民の母とすると約束されると、アブラハムは笑い、サラも笑っています。 創世記17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」 18:10~12「彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」
このように、アブラハムが神様を信じたとは言え、人間的な不信仰な方向に走っています。 それなのに、どうして、パウロは、ローマ4:8で「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」と言っているのでしょうか。
それは、アブラハムの信仰生活には、様々なことがありましたが、一言で言うなら、ローマ4:3「聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」 「」は創世記15:6の御言葉の引用ですが、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という一言に表すことが出来るからではないでしょうか。
確かに、アブラハムの生涯には、人間的な方法に走ることも、神様からの約束を笑ってしまうような不信仰もありました。しかし、そのような失敗をする度に、悔い改め、 「アブラハムは神を信じた。」とあるように、全能の神様を信じる信仰に立ち返り、どのような状況の中でも、希望を失わなかったのです。
このアブラハムの姿を見ると、私たちも安心をしませんか。アブラハムが完全無欠の信仰の人であったならば、私たちとはかけ離れた信仰ということになってしまうと思います。しかし、アブラハムも私たちと同じ人間だったのです。人間的な方法で事を成してしまったり、不信仰をいだいて神様の約束を笑ってしまうようなことがあったのです。しかし、その都度悔い改めて、もう一度、「アブラハムは主を信じた。」とあるように信仰に立ち返ったのです。 私たちも、失敗をしてしまいます。人間的な方法で事を成してしまって、神様の御業を妨げてしまうこともありますし、神様の約束を信じられなくて、笑ってしまうようなこともあるかも知れません。しかし、それでも、大丈夫なのです。そこで、悔い改めて、全能の主を見上げるならば、そこに希望があります。そして、その希望は決して失望に終わることはないのです。
(3)約束を実現させる方への信仰
20~22「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」
アブラハムにとって、信仰が問われる決定的な出来事が起こります。 そのことが創世記22章に記されています。
2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
年を取ってからの子どもはかわいいと言いますが、アブラハムとサラにとって、このイサクは、神の約束の子です。もし、この子にもしもの事があったら、アブラハムに与えられた約束は、これで途切れてしまうのです。 神様は、その大切なイサクをモリヤの山に登って「焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 と命じられるのです。信じられないような命令です。 しかし、アブラハムは神様の約束を信じて、イサクを連れてモリヤの山に向かったのです。 途中で、イサクに「わたしのお父さん」「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 と聞かれた時、どんなに心が痛んだことでしょうか。 そして、神様が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に乗せたのです。 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとって、息子を屠ろうとしたのです。
すると、11~12節には 「そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」と書かれています。 どうして、アブラハムにそのようなことが出来たのでしょうか。約束が与えられ、百歳まで待ち続けて与えられた、たった一人の子どもです。その子どもを、神様の命令とは言え、小羊のように祭壇に屠るとは、どう考えてもできることではありません。 しかし、アブラハムは、長い信仰生活の中で、人間的な方法や不信仰を悔い改めて、神様に従う中で、神様を信じる信仰こそが、最善であることを心から信じたのです。アブラハムは、神様は、愛するイサクをよみがえらせることの出来るお方であることを信じたのです。 そして、その絶対服従を表した時に、アブラハムの信仰による義が神様の目に認められたのです。 私たちの信じている神様は、死から命を与えて下さるお方なのです。それは、アブラハムだけに与えられた約束ではありません。私たちイエス・キリストを信じる者すべてに与えられた約束です。23~25節をご覧ください。「しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
神様は、全人類の罪の贖いとして、独り子であるイエス・キリストを十字架にかけれました。しかし、それで終わりではありませんでした。わたしたちが義とされるために、復活されたのです。神様は、死を命に変えて下さるお方です。 そのお方を信じて行くならば、アブラハムがイサクを捧げるように命じられた時、なぜこのようなことを命じられるのか全く解らなかったように、今は解らなくても、必ず神様は必ず最善の道を備えて下さるのです。
「エマオのキリスト」という有名な絵があります。この絵を書いたのは、レンブラントという画家です。彼は、人々が望む絵を描いて大金持ちになり、家族と共に何不自由なく暮らしていました。 ところが、その幸せはある日突然こわれてしまいました。愛する妻が亡くなってしまったのです。レンブラントは筆を折り、失意のどん底にいました。悩み苦しんでいた彼は、ある日神に出会いました。復活された主と出会ってからは、死が終わりではないということを悟り、この有名な絵が出来たのです。 この絵がアムステルダムの博物館に展示された時、多くの人がその絵の値段を聞きました。しかし、彼は「この絵は、妻の死を通して、まことの命とは何かを経験しながら描いた絵なので、値段で評価することは出来ません。」と答えました。絵を完成させた後、彼は「私は偉大な命の奥義を悟って、この絵を描いた」と告白しました。 レンブラントは、幸せだった時には、主に出会うことは出来ませんでしたが、妻が世を去り、人生のむなしさと挫折感に打ちのめされた途上で、復活の主に出会うことが出来たのです。
私たちにも、そのようなむなしさや挫折感が襲ってくるようなことがあるかも知れませんが、復活の主は今日も私たちと共におられます。その復活の主を信じて、どこまでも、主に従う者とさせていただきましょう。 アブラハムの信仰を通して、3つの事を学びました。(1)無から有を生み出す信仰(2)望み得ない時になおも望みを抱く希望の信仰(3)約束への信仰
私たちの神様こそが、無から有を生み出し、希望を与え、約束を成し遂げて下さるお方です。そのお方を心から信じて、恵みの中を歩ませていただきましょう。
18節「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
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