今日は、小寺 義兄のお証しを感謝しています。義くん去年の1月からMSR+岩沼チャペルの常駐して、ボランティアをしてくださっていますが、このボランティアの働きを通して、神様が生きて働いておられ、真実な方であることを毎回毎回知らされています。 4月14日の岩沼チャペルの開所式に行かれた方もおられますが、同じ日に早股では「朝どり」がオープンして向日かおりさんをお招きしてオープン記念礼拝が行われました。そして、あの日から毎週土日に、朝どりで産地直送の販売が行われています。 このように、岩沼に岩沼チャペルができたことも、「朝どり」の建物が出来たことも神様の奇跡だと思います。神様は真実なお方で、今も生きておられ御業を進めていてくださっています。 そして、今日は礼拝の後、教会総会が行われますが、神様は真実なお方で、山形南部教会にも素晴らしい御業を成して下さることを信じています。
今日の中心の御言葉は、4節のみ言葉です。
「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
マルチン・ルターは、ローマの信徒への手紙3章についてこう言っています。「ここに記されていることに注意せよ。これはこの書簡、否、聖書全体の中心とみて良い。最も重要な部分である。」 パウロは、それほど重要なこの章の始めに、ユダヤ人の特権とその特権が与えられたにもかかわらず、神の言葉に従わない不信仰を言いあらわしています。
先週は、ローマの信徒への手紙2:17~29からみ言葉から、パウロはユダヤ人が一方的な恵みとして与えられた律法と割礼を、自分の誉れのために用い、異邦人に対して誇り、軽蔑していた罪について学びました。 そのユダヤ人の罪に対して、パウロは3:1~9ではいくつかの質問を予想して、それに答えています。その質問を3つに分けてみ言葉を取り次ぎます。
(1)ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の利益とは何か。 1~2節「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」
神様は、イスラエルを選ばれ律法と割礼をお与えになられました。しかし、2章後半にあるように、彼らは、その律法に背き、守ることが出来ませんでした。また、割礼もただ選民としての誉れとして、異邦人の前に誇るしるしにしか過ぎなかったのです。 第1番目の質問は、そのような、ユダヤ人によって、律法や割礼が無意味なものになっているのではないか。という質問です。 これは、救済史(救いの歴史)に係わる重要な問題です。つまり、神様がイスラエルを選ばれたのは無意味なことだったのかという重要な質問です。
それに対するパウロの答えは、2節で「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。」
と言った後で、最も中心的な祝福は、「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」と語っています。この律法というのは、当時、旧約聖書としてまとめられていましたから、この律法というのは、旧約聖書全体だと言うことができます。 そして、この聖書は、ユダヤ人にとって単なる教えや法律ではなく、神様からの約束です。そして、この旧約聖書は、救済史であり、特に預言書はメシア預言でありました。旧約の時代のユダヤ人たちは、やがて救い主があらわれる、メシアを待ち望んでいたのです。 ですから、パウロにとって、イスラエルが選ばれたということには重要な意味がありました。それは、イスラエルにメシアが与えられるという預言が委ねられていたということだからです。
そして、それは、今の私たちクリスチャンにも同じことが言えます。神様は、私たちに大切な神の言葉である聖書を委ねて下さいました。そして、その聖書にこそ、私たち救い主イエス・キリストのことが書かれているのです。
ハドソン・テーラーが、ある時水夫たちを前に、こう語ったそうです。「諸君は羅針盤をどこに置くか。これを操縦席の一番前に備え付けて、その船の方角を見るではないか。今、神の言葉が人生の羅針盤である。毎日これを眺めて、前途の方針を確かめないでよかろうか。」 このように、私たちも神様から委ねられた聖書のみ言葉を大切にして、いつも聖書を読みながら、人生という大海原を進ませていただきましょう。
(2)ユダヤ人の不真実は、神の真実を無にしない
3~4節「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
2番目の質問は、「ユダヤ人の中のある者たちが、2節にあるように、メシアの約束に不真実であり、せっかく神様が、救い主であるイエス・キリストを遣わされたのに、そのお方を拒否してしまったのだから、神様との契約は、もう廃棄されたのではないか。」という質問です。
パウロがこう考えるのも当然です。神様は、最後の手段として一人子であるイエス・キリストをこの地上に送られ、全人類のためにあの十字架で命を捨ててくださったのです。それにもかかわらず、ある者は信じましたが、ユダヤ民族としては、イエス・キリストをメシアとしては受け入れませんでした。 このような場合、普通ならば、その不真実な者との関係は切られても当前です。 しかし、そうではありませんでした。4節でパウロはこう答えています。 「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
4節の始めに「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」とパウロはいっています。 この「真実」という言葉は、ギリシャ語では「アレーセース」という言葉が使われています。この言葉は、神様の変わることのない真理とまことを表す言葉です。人は全て偽り者であるとしても、神様は真実な方です。 そして、その真実な恵みは、ユダヤ人だけではなく、異邦人にまで及んだのです。パウロは、ローマ11:29でそのことをこう言っています。 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
私たちが、どんなに背いて偽りものであったとしても、神様の真実は決して変わることはないのです。 そのことを、はっきりと表すためにパウロは、4節の後半で、「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と詩編51:4を引用しています。 詩編51:1~9 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」
この詩編は、2節に「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
と書かれているように、ダビデがウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯した時、神様の御前に罪を告白し、ゆるされた時の詩です。罪を犯し、それを何とか隠そうとしたダビデでしたが、預言者ナタンによって罪を示され時、自分の罪深さを認めたのです。その時に、ダビデの罪は赦され、神様の真実が明らかにされたのです。 このように、人は罪深い者ですが、神様は真実で正しい方で、神様の正義は決して、廃棄されるようなことはないのです。それどころか、イエス・キリストの十字架の血潮によって、「雪よりも白く」聖潔てくださるお方なのです。
ウガンダのエンテベという街に、リディアという少女がいました。リディアの父親は地域の大きなキリスト教会の牧師で、クリスチャンのリーダーと言われていました。 しかし、リディアが17歳の時、衝撃的な事件が起こりました。尊敬していたあの父親がエイズで死んだのです。後で父親がが浮気をして、病気にかかったということが後で解りました。母親にもエイズが感染し、その一年後に亡くなってしまったのです。リディアの心はずたずたに傷つき、父に対しても神様に対しても怒りで一杯になりました。 そのようなリディアを父の友人であった牧師夫婦が、養子として迎え入れてくれました。その牧師夫妻の愛に包まれて、リディアは聖書をむさぼり読むようになりました。聖書を読んでいるうちに、どうしても父親を許せない自分の罪、父親に対する憎しみを示されたのです。その自分の罪を示された時、自分にも神様の赦しが必要なんだ、私も父親と同じ罪人なんだと気づき、涙が止まりませんでした。そして、心から罪を悔い改めた時、不思議なことがおきました。どうしても取り除くことができなかった父親に対する怒りと憎しみが、心の中から消えていったのです。 やがて、リディアは成長し、聖書をアフリカのいろいろな言語に翻訳するウィクリフ宣教会のミニストリーに導かれ、各地を回るようになりました。 すると、同じようにエイズで苦しんでいる人たちとたくさん出会ったのです。そこで、リディアは、自分も同じような苦しみを味わっていますから、自分自身が経験した苦しみと、その罪のために十字架にかかって下さった神様の愛を、それらの人々と分かち合うことが出来、多くの人々をキリストに導くことが出来たのです。
4節「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
神は真実な方です。たとえ、私たちが神様に背き、許せないような罪を犯したとしても、神様の愛は変わることはありません。そして、イエス・キリストの十字架の血潮によって、その罪を赦し、聖潔てくださるお方なのです。
(3)神の真実が現されるために、罪を行って良いのか
5~8「 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」
ここには、共通する2つの質問が書かれています。一つは、5節「怒りを発する神は正しくないのですか。」という質問です。 そして、もう一つは、「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。」という質問です。 わかりやすく言うならば、神は真実な方で、どんな罪を犯しても赦して下さるお方であるなら、どんなに罪を犯してもいいじゃないか。どんなに罪を犯しても神の怒りから逃れられるのではないかという質問です。
それに対して、パウロは8節で、「こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」 と短い言葉ではっきりと答えています。
ローマ6:33でパウロはこう書いています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
「罪に大小はない」と言われますが、どのような小さな罪も、誰にも知られていない罪も、神の裁きを受けなければならないのです。そして、「その罪の支払う報酬は死である。」と言っています。しかし、それで終わりではありません。その後に、「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と書かれているのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪は赦され、永遠の命が約束されているのです。 しかし、ただ、自動的に罪が赦されるのではありません。「わたしたちのキリスト・イエスによる」と書かれています。キリスト・イエスが十字架で命を捨ててくださったその贖いによって、私たちの罪が赦されるのです。私たちがどのような罪を犯したとしても、イエス・キリストを信じるなら、その罪は赦されます。しかし、その時に、あの十字架を見上げてください。私たちの罪が赦されるために、神の実子であられるイエス・キリストがあの十字架で、私たちの身代わりに十字架で苦しまれたのです。神の怒りをあの十字架で一身に受けて下さったのです。その十字架の苦しみを覚える時、もう私たちは罪を犯すことが出来なくなるのではないでしょうか。 そして、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちの罪は赦され、一方的な恵みとして、永遠の命が与えられるのです。
今日は斎藤幸子さんが、御主人とお母様の看病のために欠席しておられますが、最後に、斎藤幸子さんの家族のお証しをさせていただきたいと思います。 4月18日に、斎藤幸子姉が、早天祈祷会に来られました。94歳になる御主人のお母様が、入院され、余命数日だと言われたということでした。 それだけではなく、62歳の御主人が自転車で倒れ、大腿骨が複雑骨折してしまったというのです。そして、持病を持っているので命の危険があると言われたので祈ってくださいと祈祷題が出され祈りました。神様はその祈りを聞いてくださったのです。 その日に、まず、その日に御主人の入院しておられる病室をお訪ねする機会が与えられました。そこで、「山形南部教会の岡です。前に教会に来てくださったことがありましたね。食事も一緒にしましたね。」と言うと「ウン」とうなづきました。そして、聖書ヨハネ3:16を読んで、「聖書には、イエス・キリストを信じるなら、全ての罪が赦されて、永遠の命が与えられると書いていますが、今日、イエス様を信じますか?」とお聞きしました。すると、「ウン」とはっきりとうなずいて、信仰を告白したのです。斎藤幸子さんと「いつくしみふかき」を賛美して、感謝の祈りを献げたのです。
それだけではありませんでした。4月24日(水)の夜の祈祷会が終わった後です。斎藤幸子さんのお母様が危篤状態なので、斎藤幸子さんが病院に泊まられるというので、わたしが車で病院までお送りしました。その時に、神様に導かれて、荷物を病室まで運ひました。そこは、個室でお母様が一人で寝ておられました。「お前は誰だ。」と言われましたが、この時を逃したら福音を伝えることは出来ないと思い「わたしは、山形南部教会の牧師の岡です。お母様のためにお祈りをさせていただいて良いですか。」とお尋ねすると、「ウン」とうなずいたのです。そして、ヨハネ11:25「わたしは、復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と聖書の言葉を読み、聖書に「イエス・キリストを信じる者は、永遠の命をいただいて天国に行けると書いていますが、イエス様を信じますか?」とお尋ねしました。すると、はっきりとわたしの顔を見て、「ウン」とうなずいたのです。単純な信仰告白ですが、「聖霊によらなければ、「誰も主を救い主と告白することは出来ない。」と聖書に書いていますから、聖霊がイエス・キリストを信じる信仰を与えて下さったのです。 神様は、真実な方です。人生の最後の時に、イエス・キリストを主と信じる信仰を与えて下さり、永遠の命の約束を与えてくださったのです。
最後に4節をご一緒にお読みしましょう。「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
神は、真実な方です。私たちがどのような罪を犯しても、私たちを愛し、私たちを見捨てるようなお方ではありません。その愛があの十字架に現されているのです。真実な神様に対して、私たちも清めていただき、心から主にお仕えさせていただきましょう。
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