今年の山形南部教会の年間成句を読んでみましょう。ローマの信徒への手紙12章12節
「希望をもって喜び、苦難に耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」
2013年は希望の年です。それでは、私たちにとって希望とは何でしょうか。今日の詩編71編5節前半に「主よ、あなたはわたしの希望。」とあります。神様こそが、私たちの希望です。
今日の中心の御言葉は、5~6節です。
「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」
今日は、詩編71編を読んでいただきましたが、この詩編は、年老いた人の祈りです。好むと好まざるとにかかわらず、人は年を取り、力が衰えていきます。そのような、人生の中で、私たちが何に希望をもって生きていくかということは、大きな課題です。そのことをはっきりと示してくれるのがこの詩編です。
この詩編を3つに分けてお話しをしたいと思います。
(1)恥をかかない希望に溢れた人生
1~2節 「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。」
1節の後半に「恥に落とすことなく」とあります。 ユダヤ人は、恥を恥とする民族です。ユダヤ人は、律法を重んじて、その律法に反することをすることに対して恥ずかしいことだと思っています。 今でも、律法学者がいて、ユダヤ人がその律法に違反していないかを監視していますので、人の目をいつも気にして生きています。
それは、ユダヤ人だけではなく、日本人も同じです。ジョナサン・ベネディクトは、「菊と刀」という本の中で、欧米の人たちは、「罪の文化」に生きていると言っています。彼らは、神様と自分との関係を重んじて、神様の前に罪を犯していないならば、人に何と言われようが、責められることはないと考えます。けれども、人がいくらいい人だ正しい人だと言ってくれたとしても、神様の前に罪が示されるならば、自分は罪人だということを認めて、悔い改めるのです。 しかし、ユダヤ人や日本人は、「恥の文化」に生きていて、神様との関係よりも、人との関係を重んじるというのです。たとえば、「長いものには巻かれろ。」という言葉があるように、悪いということが解っていても、みんなとの関係を気にして、歩調を合わせてしまうのです。また、「赤信号みんなで渡れば怖くない。」という言葉がありますが、みんなが悪いことをしているのだから、自分も罪を犯しても大丈夫だということになってしまうのです。また、それとは逆に、それは正しいことだということが解っていても、周りの人との関係を気にして、正しいことを行うことが出来ないのです。昔「村八分」という制度がありましたが、村のしきたりと違うことをしてしまうと、「村八分」にされてしまうので、いくら自分の主張が正しいと解っていても、なかなかそれを言うことが出来ないのです。だから、日本では、「親に恥をかかせるようなことはするな。」「恥をかくくらいなら死んだほうがましだ。」と言われてきたのです。 あなたにとって、一番恥ずかしいことは何でしょうか。 人にとって恥ずかしいと思うことは随分違います。お化粧一つにしても、お化粧をしていないと裸で歩いているようで恥ずかしいという人もいれば、逆に、厚化粧をしなければ、恥ずかしくて、外に出られないという人もいます。 また、しわだらけの貧乏な母親を恥じて、それを隠して結婚した青年もいます。わたしは、そんなこと気にしないで、苦労してきた母親を胸を張って紹介すれば良いと思いますが、その青年に取ってみれば、恥ずかしいことだったのです。 あなたにとって、一番恥ずかしいことは何でしょうか。容姿でしょうか。家柄でしょうか。それとも、学歴でしょうか。 しかし、それらのことは、どうでも良いことで、本当に恥じなければならないことが2つ聖書には記されています。
一つは、罪です。私たちの心の汚れ、内面的な卑しさです。ジョンウェスレーは「罪のほか恥ずべきものは何もない。」と言いました。私たちが他のどんなものを恥じたとしても、この罪を恥としないなら、それは、最も恥ずかしいことです。神様は、私たちのどんな隠れた罪もご覧になります。その神様の前に、罪を告白し悔い改めて、恥じることのない人生を歩ませていただきましょう。
もう一つは、こんな罪深い、わたしを愛し、わたしのために十字架の上で血を流して下さった、神様を恥じることです。神様は、きよく、恵と愛に満ちたお方です。この素晴らしいお方を恥じることほど、恥ずかしいことはありません。パウロは、ローマ1:16でこう言っています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
と言っています。 罪を恥じ、神様を恥じない生活こそ、神様に対して恥をかかない希望に溢れた生活です。
(2)確かな救いの希望
3節「常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。」
神様は、私たちの「常に身を避けるための住まい、岩」です。私たちの「大岩、わたしの砦です。」 なぜ、そうはっきりと言うことができるのでしょうか。 一つは、神様が、私たちを神様に似たものと造られたからです。創世記1:26~27 「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
神様は、人を神様に似たものとして造られました。それは、姿形が似ているというのではありません。人間だけに神様の霊を与えて下さり、神様と交わることが出来るようにしてくださったのです。だから、人間だけが、神様と交わりが出来るのです。このように神様に祈ったり、賛美したり、礼拝を献げるて交わりが出来るのは、どんな被造物にも与えられていない、人間だけに与えられた特権です。だから、すべての人が、特別で、素晴らしいのです。 イザヤ書43:4には新改訳では、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。」と訳されています。人間はどんな人も一人一人が、高価で尊い存在として造られました。私たちは、神様が造られた最高傑作なのです。
次ぎに、神様は、「常に身を避けるための住まい、岩」と言えるのは、私たちの救いのためにひとり子を惜しまずに与えて下さったからです。 ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神様は、私たちを愛して下さり、ひとり子をこの地上に送って下さいました。そして、その救い主は、私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨てて下さったのです。そして、そのイエス・キリストを信じる私たち一人一人を神の子として下さり、永遠の命を与えて下さったのです。 その、イエス・キリストを信じる信仰こそが、私たちの人生の土台「岩」です。 イエス様が、弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというか。」と聞かれたことがマタイ16章に書かれています。その時に、シモン・ペトロがこう答えます。マタイ16:15~18(P32)「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、18節でこう言われます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
イエス・キリストは、私たちの救い主です。そのことを信じて告白する信仰こそが、私たちの人生の「岩」なのです。
それだけではありません。「常に身を避けるための住まい、岩」であられる神様は、私たちの心を、聖霊の住まいとして下さり、成長してイエス・キリストに似たものに変えて下さるのです。Ⅱコリント3:18「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
神様は、私たちを造り、私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって救い、その血潮によって、私たちをキリストに似たものへと造り変えて下さるお方です。 だから、私たちは、この詩編の作者と共に、「主よ、あなたはわたしの希望。」 と心からの賛美をお献げしましょう。
(3)若い時から最後の日までの希望
この詩編71編は、「年老いていく人の祈り」です。今までの人生を振り返って、総括してこの詩編を書いたのです。 私たちが、年老いて、人生を振り返った時、何と言うでしょうか。 林芙美子という有名な作家は、「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠っています。楽しい華やかな時代は短くて、苦しいことばかりが多かったと林芙美子さんは言っています。そうだ。そうだ。と共感する人も多いと思います。だから、この句が今でも詠まれているのだと思います。そして、神なき人生はこのような人生だと思います。希望がありません。
しかし、この詩編の作者はどうでしょうか。彼にも、人並みに、苦しみや悲しみ試練があったに違いありません。しかし、彼の言葉には、賛美が溢れています。5~6節をご覧ください。 「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」
彼は、生まれる前から、今に至るまで、「主よ、あなたはたしの希望。」と賛美しているのです。 神様は、私たちが若い時から、年老いてからも、私たちの希望です。 この詩編の作者は、 「主よ、あなたはわたしの希望。」 と告白した後で、「主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」と主を賛美しています。
この詩編の作者にとって、神様は若い時からの希望、そこにとどまらず、母の胎にある時からの希望だったと賛美しています。 胎教の大切さが、良く語られます。生まれる前から、胎児は、音を聞き、お母さんの感情を感じていると聞きました。
わたしも不思議な体験をしたことがあります。娘が、お腹の中にいる時に、胎教に良いというので良くモーツァルトの曲を部屋で流していました。そして、出産してなかなか泣き止まないときに、その曲を流すと、急に泣き止んだのです。母親の胎にいた時からこの曲を聴いていたんだなと感動したことがありました。 そして、本当に感謝しているのは、子どもたちが生まれる前から、教会で賛美を聞きながら育ったことです。 それは、聖書にもそのことが書かれています。 たとえば、ルカ1:41~42には、マリアがエリサベトのところに行った時のことが書かれています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」
マリアがエリサベトを訪問した時、エリサベトのお腹にいる赤ちゃんが、喜びおどったのです。そして、エリサベトはマリアの胎内にいる救い主を祝福しています。 胎児の時から、神様は、私たちの希望です。
ジョン・ウェスレーの母、スザンナ・ウェスレーは、一つの家庭を教会と考えて、祈りと御言葉によって、子どもたちを育てたことで有名です。
そして、救世軍のブラムエル・ブースの母、カサリン・ブースも信仰の母として有名です。彼女は、胎教を重んじる婦人でした。ブラムエルが、胎内にいる頃から、主を賛美し、神様にその子を献げる祈りをささげました。そして、出産して、ようやく抱き上げられるようになると、改めて神様に献げ、将来ただ神様の御旨をおこなうために生きる者になるように祈りました。そして、彼に昔から最も慕っていた聖潔の教師、ブラムエルの名前をつけたのです。このようにして、救世軍二代目の大将ブラムエル・ブースは世に出ることになったというのです。
そして、その胎児から与えられた希望は、年老いて、この地上にあっては最後の一息まで、私たちの希望です。9節にも年老いてからのことが書かれています。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」
神様は、胎内にいる時から、年老いて白髪になっても、私たちの希望です。この希望である神様をしっかりと見上げましょう。そして、「歌いつつ歩まん」という聖歌がありますが、「歌いつつあゆまん。ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を。」この曲のように、「主よ。あなたはわたしの希望。」と主を賛美しつつ、この世の旅路を歩ませていただきましょう。
そして、18節で詩編の作者はこう歌っています。「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。」
「御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。」 この詩人は、自分が希望である神様を賛美しつつ歩むだけでなく、主の驚くべき御業を語り続けてきました。そして、年老いて白髪になっても、この「御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。」
と祈っているのです。 わたしも、55歳になりました。気持ちでは、55歳でゴーゴーと、これからだと思っていますが、体力は衰え、白髪も生えて来る年になりました。しかし、最後の一息まで、来るべき世代に語り伝えさせてください。と祈りつつこの使命を全うさせていただきたいと思っています。
最後にもう一度、5節の前半を一緒に読みましょう。
「主よ、あなたはわたしの希望。」
今年は、希望の年です。そして、私たちの一年の歩みを、まことの希望であられる神様が導いて下さいます。ですから、私たちがこの「まことの希望」である神様を一人でも多くの人に伝えさせていただきましょう。
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