クリスマスおめでとうございます。 今日読んでいただいた聖書の箇所には、イエス・キリストの父親になったヨセフのことが書かれています。
今日の中心の御言葉は、24~25節です 「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
ヨセフには、マリアといういいなずけがいました。
ユダヤには、3段階の結婚の順序がありました。 一番目は婚約で、たいていの場合、子供のころに、両親か専門の仲人さんによって決められました。 二番目は「いいなずけ」です。これは、子供が大きくなって、幼いころに取り決められた婚約を承認することです。この時に娘が結婚をする意志がない場合は、その約束を破棄することが出来ました。けれども、ひとたびいいなずけになると、絶対に解消することは出来ませんでした。そして、そのいいなずけの期間はだいたい1年でした。 三番目は結婚式です。これはいいなずけの期間が終わったときに行われました。
マタイによる福音書には、「母マリアはヨセフと婚約していたが」と書かれていますが、 ルカ1:27には、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」とマリアがヨセフのいいなずけになっていたことがはっきりと書かれています。 ですから、ヨセフとマリアは、この時、幼いころ婚約をしただけではなく、すでに「いいなずけ」になっていた事が分かります。
(1)ヨセフの苦難からの勝利への信仰
そのようなときに、不思議なことが起きたのです。
18節をご覧ください。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」 ここに「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と説明されていますが、この時には、ヨセフには、何の説明もされていませんでした。ですから、今私たちがそのことを知らされるのと同じです。ヨセフは本当に当惑してしまったのではないでしょうか。 マリアが妊娠したということは、日毎に明らかになっていきます。 この時、ヨセフはふたつのことをすることが出来ました。 一つは、当時の律法によると、姦淫の罪を犯してしまった女は、石で打ち殺されなければなりませんでした。しかし、ヨセフはマリアを心から愛していましたから、そんなことはとても出来ません。 もう一つは、離縁状を渡して、ひそかに縁を切るということでした。ヨセフは、そうすることがマリアにとって一番良いことだと思って、そうしようと決心をしたのです。
ヨセフは、この時、どんなに悩んだことでしょう。ヨセフには神様の御心が理解出来ませんでした。苦汁の選択という言葉がありますが、まさに、ヨセフはそのような選択を迫られたのです。 19節には「夫ヨセフは正しい人であったので」と書かれています。この「正しい」という言葉は、神様との関係において正しい人という意味です。それなのに、このような悩みがあったのです。 苦しみの中で、一番辛いのは、その苦しみの意味が分からないというこではないでしょうか。こんな悪いことをしたから、このような苦しみがあるというのであれば、仕方がないと割り切ることも出来るかもしれません。また、この苦しみによって、こんな結果が生まれるという目標のようなものがあれば、苦しみにも耐えられるかもしれません。けれども、どうして苦しまなければならないのか分からない、何のために苦しんでいるのか理解出来ないことほど辛いことはありません。 私たちも、神様を信じたからといって、悩みがなくなるわけではありません。いや、イエス様がこの世で「苦難の僕」として悩まれたように、私たちにも悩みが襲ってきます。 「夫ヨセフは正しい人であった」 私たちが、神様の御前に正しい歩みをしているときにも、やはり、苦しみや悩みが襲ってくることがあります。けれども、私たちは、恐れることはないのです。何故なら、神様が全てのことをご存じだからです。また、イエス様が、十字架上で全ての重荷を負って下さり、勝利をされて、3日の後によみがえられたからです。ヨハネによる福音書16章33節(P201) 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
「わたしは既に世に勝っている。」とありますが、イエス様は私たちの全てをご存じのお方です。そして、全ての苦難に勝利を得られたお方です。 私たちは、どんなに大きな悩みの中にあっても、また、神様の御心が分からないようなときにも、この勝利の主を信じて、主にある平安の中を歩ませていただきましょう。
(2)ヨセフは御言葉に従う信仰
ヨセフが、ひそかに離縁をしようという苦汁の決断をしたとき、主の天使が夢に現れて言いました。20~22節「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」 ここで、天使はまず「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と言います。そして、マリアは聖霊によって身ごもったこと、マリアが生む男の子をイエスと名付けなさいということ、この子は自分の民を罪から救うものであるという御告げを告げました。 ヨセフは、主の天使からこのことを聞いたとき、どうしたでしょうか。疑えばいくらでも疑うことが出来たにちがいありません。自分の知らない間に不貞をはたらいたのだと思います。それに、夢の中で天使の声を聞いたのですから、悪い夢を見たと思うことも出来たと思います。とにかく、常識ではどう考えても納得のいかないことでした。 そして、ヨセフは、神様の御言葉を信じて従うか、それとも、それを拒否してひそかに離縁をするのかという大変な決断を迫られたのです。
そして、本当に素晴らしいことに、ヨセフは神様からの御言葉を信じて受け入れたのです。その結果、素晴らしい救い主の誕生を迎えることが出来たのです。
ヨセフは、この時真剣に神様の御言葉を信じて従ったのです。それは、2つのことから分かります。 1つは、ヨセフが天使に言われたとおり、その子の名前を「イエス」と名付けたことです。 どうでしょう。親だったら自分の子供の名前ぐらい自分でつけたいと思うのではないでしょうか。私の子供が生まれたとき、うちの父が、「こういう名前にしたらいいんじゃない」とたくさんの名前のリストを送ってくれました。けれども、私は自分の子供の名前ぐらい、自分で付けたいといって、家内と相談して名前を付けました。親には、そのような思いがあると思います。 けれども、ヨセフはただ、天使が告げたとおりに、「イエス」と名付けたのです
もう一つは、25節「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。」ということです。結婚をすれば、妻と関係をもつということは、当然のことです。また、それは大きな祝福ですが、ヨセフは男の子が生まれるまでそれをしませんでした。それは、どうしてですか。それは、マリアの中にいる子供が、聖なる神の子、救い主であるということを信じたからです。ここにヨセフの神様に対する従順な信仰をみる事ができます。
このようにして、イエス様は誕生したのです。もし、ヨセフが御言葉に従うことがなければ、このクリスマスの出来事はなかったかもしれません。それくらい、神様の御言葉に従うということは大切なことなのです。
今年のクリスマスは2012年のクリスマスです。そして、後一週間で新年を迎えますが、これからのキリスト教会が祝福されるかどうかは、ここにかかっていると思います。私たちが神様の御言葉に聞き、従っていくならば、必ず神様は私たちを祝福して下さいます。 そして、それは個人的な祝福も同じです。本当に神様から祝福をいただきたいなら、まず、神様の御声を聞くことです。そして、御言葉をいただいたならば、その御言葉に従うことです。
そのために、日々のディボーションが大切です。神様の御声を聞くということは、神様の御言葉である聖書を毎日読み、それを良く黙想して従って行くならば、神様は必ず一人一人の生活を祝福してくださいます。
先程、及川武さんのお父様が、毎日1日に3章聖書を読んでおられたとお聞きして素晴らしいなと思いました。1日に3章読むと一年で、旧新約聖書を通読することが出来ます。そのように私も聖書に親しむ者でありたいと思わされました。
イギリスの有名な説教者チャールズ・スポルジョンは、伝道旅行に出かけ、スコットランドのある田舎のホテルに泊まったとき、テーブルの上に一冊の聖書が置いてあったそうです。その聖書を、電気をつけて読もうと開いてみると、その聖書は虫が食った、上から下まで光の通る小さな穴が開いていたのです。スポルジョンはそれを見て、大変感動して、「主よ、わたしもこの虫のようにしてください」と祈ったそうです。
わたしたちも、聖書を、この虫のようによく読むものとさせて頂きたいと思います。
ヨセフは、神様の御言葉に従い、救い主をお迎えしました。私たちも神様の御言葉に従い、クリスマスの祝福をいただくものとさせていただきましょう。
(3)ヨセフのインマヌエル信仰
乙女マリアから、救い主がお生まれになるという、処女降誕の出来事は、奇跡的に偶然、起きた出来事ではありません。 神様の御計画によるもので、旧約聖書の預言の成就でした。22節に「主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」とありますが、これは、マタイによる福音書の特徴です。マタイは、ユダヤ人に向けてこの福音書を書きました。ですから、イエス様こそが、旧約聖書で預言されたメシアであるということを繰り返し言っています。 マタイはここで、イザヤ書の7章14節を引用しています。「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
この預言はイエス様がお生まれになる700年も前に語られた言葉です。神様は、700年も前から、救い主をお与え下さることを計画されておられたのです。そして、その御言葉どおり、神様は救い主であられるイエス様をこの地上に送ってくださったのです。23節をご覧ください。「見よ。おとめが身ごもって男の子を生む。その名は、インマヌエル」と呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ここにある「インマヌエル」という言葉も大切な言葉です。これは、「神は我々と共におられる」という意味です。 神様は、近づきがたい主権者です。けれども、そのお方がイエス様というお姿で人間の形をとり、わたしたちの間に住まわれたのです。そして、私たちの弱さや、苦しみを私たちと同じように味わってくださり、理解し、助けてくださったのです。
160編以上の童話を書いて、世界中の人々から親しまれている有名な作家ハンス・アンデルセンはみなさんもご存じだと思います。彼は、信仰の篤い母の感化を受けて素朴出単純な信仰をもっていました。そして、その信仰がアンデルセンの作品には現れています。
アンデルセンは子供のころ、家が貧しかったので、刈り入れ時になると、お母さんに連れられて、よく落ち穂拾いに出かけて行ったそうです。 これは旧約聖書のレビ記に「収穫するときは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。落ち穂を貧しい人のために残しておかねばならない。」とあることにならったことで、許されていたことでした。 ところがある日、みんなと落ち穂拾いをしていると、意地悪で有名な番人がやってきました。彼は、右手に太い鞭を持って、ものすごい顔をして追っかけて来たのです。みんなは驚いてすぐに逃げましたが、子供のハンスだけは、逃げ遅れて捕まってしまいました。 ハンスは、その時、今にも鞭打とうとするその人を見つめて、こう言ったそうです。「おじさん、ぼくを打つつもりなんですか。神様が見ていらっしゃるのに・・・・。」と叫びました。
すると、番人はハッとして、振り上げた鞭を下ろして、急にニコニコとして、「坊や、君は何という名前かね。」と優しく尋ね、おまけにお金までくれたそうです。 遠くで心配そうに見ていたお母さんは、一緒にいた人達に「うちの子は、本当に不思議な子なんですよ。だれからもかわいがられるんですよ。あの意地悪の番人がお金までくれたんですもの。」と嬉しそうに言ったそうです。
神様が共にいてくださる神様は、私たちを守り、必ず祝福してくださるのです。
ヨセフは、まさにこの「インマヌエル」の信仰、「神は我々と共におられる」という信仰を持っていたのです。 クリスマスこの日は、まさに神の子であるイエス様が、この地上に来てくださった日です。そして、このイエス様は、私たちの心の中にも、いつでも、どこでも共にいて下さるお方なのです。 このクリスマス、あのアンデルセンがそのことを単純に素直に信じたように、私たちも「神は我々と共におられる」ということを信じましょう。そして、神様の守りと祝福の中を歩ませていただきましょう。 「インマヌエル」神は我々と共におられる。 この神様は、ヨセフが苦しみの中でも勝利を与えてくださいました。そして、ヨセフはどのような時にも、御言葉に聞き従い、神が共におられるということを信じて従いました。
私たちも、このヨセフに倣って、神様の御言葉に従い、神様のお守りと祝福の中歩ませていただき、心からのクリスマスをお祝いいたしましょう。
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