今日は、「お父さん、お父さんありがとう。守ってくれてありがとう。ありがとう。」と賛美をしていただきましたが、私たちこそ、このようにお祝いをしていただき本当にありがとうございます。壮年会を代表してお礼を申し上げます。そして、このような足りない者を父親にしてくださった神様に心から感謝したいと思います。
今日の中心の御言葉は、23節です 「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
今日の聖書の箇所は、有名なタラントンのたとえです。 イエス様は、この時、すでに十字架の死が近づいていることを意識しておられました。 そして、ご自分が世を去られた後、弟子たちに福音宣教の使命を委ねて、そのために与えられた賜物をどのように用いれば良いのかを、この譬えを通して伝えたかったのだと思います。まず、14~15節をご覧ください。 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
1タラントンというのは、6千デナリオンです。1デナリは、労働者の1日分の給料ですから、約100年分の給料に相当する大変な額です。 財産を預けられた者のうち、5タラントンと2タラントン預けられた者は、そのタラントンを用いて一生懸命に商売をして、5タラントン預けられた者は、更に5タラントンを、2タラントン預けられた者は、更に2タラントンをもうけました。 ところが、1タラントンもうけた者は、そのお金を減らさないようにと考えて、土の中に埋めてしまったのです。
やがて、主人が帰ってくると、まず、5タラントンもうけた者が、主人に近づきました。20節「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』」
するとその主人は21節でこう言います。「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
続いて、2タラントンもうけた者が、主人の前に進み出てこう言いました。「次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
すると主人は、同じように23節でこう言われます。「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」 と言って、5タラントンと2タラントンもうけた者には、さらに「たくさんのもの」を任せたのです。
この譬えから3つのことを学びたいと思います。
(1)すべての人に、豊かな賜物が与えられている
1節をご覧ください。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
ここに、「それぞれ力に応じて」とあります。それぞれに与えられた賜物は違いますが、すべての人に「それぞれの力の応じて」大切な賜物が与えられているのです。ローマ12:6~8わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
ここに「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と書かれています。それぞれの賜物は違いますが、それぞれに大切な賜物が委ねられているのです。 それだけでなく、私たちが生まれつき持っている才能や、時間、健康やお金など、元を正せばすべてが神様から与えられたものです。それを総計すると、巨額の財産になります。 ある人は、「わたしは1タラントンしか与えられていないから、何もできません。」と言います。これは、1タラントンが当時の人々にとって、どんなに巨額な金額であったかを知らないからです。これと同じように「わたしには何も特別な才能はありません。」と言う人がいます。確かに、5タラントン与えられた人に比べると、特別な才能はないかも知れません。しかし、どんな人にも1タラントンの才能は与えられているのです。普段、神様からの賜物だと気付かないものでも、よく考えてみれば、大きな価値を持っていることを発見できます。 今日は、父の日ですが、普通の家庭では父親が働いて、母親が家事をしますが、ある経済学者が、家事を計算したそうです。3食のご飯を作り、掃除洗濯、子どもの世話など一つ一つに給料を払うとすると、大変な金額になると聞きました。 そのように、一人一人は賜物は違いますが、すべての人に豊かな賜物が与えられているのです。 ですから、私には「何もできない」という消極的な考えは捨てましょう。そして、「私には、こんなにもたくさんのものが与えられている。」と考えてみてください。そこから、賜物が与えられていることへの感謝が生まれます。そして、その賜物を用いて、奉仕する力もわいてくるのです。
あるお金持ちがいました。同じ教会の貧しい未亡人が病気になって入院をしていたので、お見舞いに行きました。病が重く、寝たきりになっているその未亡人に金持ちはこう言ったそうです。「どうです。そういつまでも病気で苦しんでいるよりも、いっそう早く天国に行きたいと思いませんか。」
するとその未亡人は、しばらく考えて「そうかもしれません。しかし、神様からご覧になれば、あなたのようにお金で、神様と人とに仕える人が必要なように、私のように、お金もありませんし、病気で動くことはできませんが、お祈りで仕える人も必要ですから、わたしを生かしてくださっているのだと思います。ですから、私は病床で、毎日必死にみなさんのために祈っています。」と答えたそうです。
お金持ちが、多くの献金を献げることも素晴らしいことです。しかし、それ以上に、みんなのためにとりなしの祈りを献げた、未亡人の祈りはどんなに神様に喜ばれたことでしょうか。 私たちには、それぞれ与えられた賜物があります。その賜物を用いて、神様と人とお仕えしましょう。
(2)賜物は用いることが大切
神様から与えられた賜物を豊かに用いて、主のために喜んで奉仕をさせていただきましょう。 パウロは、教会をキリストの体に譬えています。体の各部分は働きは違いますが、それぞれがなくてはならない大切な働きをしています。 しかし、教会の働きを見てみると、そのような責任が一部の人に集中してしまっています。それは、他の人が、それぞれ置かれた立場の奉仕を積極的にしようとしないからです。多くの人たちが、自分に賜物が与えられているにもかかわらず、「私にはできない。」と思い込んでいます。これでは、1タラントンを預けられた人と同じです。26~27節で、「主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」
と言われたように、「怠け者の悪い僕だ。」と神様から叱られてしまうのではないでしょうか。私たちには、神様が付いておられます。「小さな者ですが、信仰があれば神様がさせてくださる。」と信じて、積極的に奉仕をさせていただきましょう。 このような人が一人でも多くなれば、教会は大きく成長していくのではないでしょうか。 5タラントンもうけた者と、2タラントンもうけた者は、それぞれ新たに5タラントンと2タラントンを設けました。「倍増」の恵みです。
先日、ウェスレアン・ホーリネス教団の全体委員会が行われました。その中で、2020年に向けて、50の教会、5000人の信徒が与えられるようにというビジョンが与えられ、そのことについて熱く語り合いました。現在は、40の教会、1700人の信徒です。ですから、10の教会を生み出し、それぞれの教会が、倍増の恵みに与らなければなりません。
そして、その鍵を握っているのは、1タラントンを預けられた人だと思います。1タラントンを預けられた人が、それを土の中に埋めてしまったら、1タラントンのままです。いや、その1タラントンまでも取り去られてしまいます。しかし、1タラントン預けられた一人一人が、その1タラントンを用いて、もう1タラントンもうけたらどうでしょうか。それぞれの教会が、倍増の恵みに与ることができるのです。 たとえ、小さな賜物でも、それを用いて生き生きと働く教会こそが、成長する教会の秘訣です。
そして、タラントンを預けられた者にとって、大切なことは、小さなことに忠実であるということです。20節でも23節でも同じことが言われています。「『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
ここで、5タラントンもうけた者にも、2タラントンもうけた者にも、同じ褒め言葉を贈っています。ですから、神様はそのもうけた金額を問題に仕手おられるのではないということです。その量ではなく、その動機が問題なのです。
ここに「忠実な良い僕だ。よくやった。」とお褒めの言葉をいただいていますが、その理由がその後に書かれています。「お前は少しのものに忠実であったから」とあります。少しのものに忠実であることが大切なのです。
昨日、ギデオン協会の山形支部の総会が行われました。山形南部教会からは、齋藤寛行兄が山形支部の支部長をしておられ、国井 博兄が会計をしておられます。来年の8月には、ギデオンの全国大会が山形で行われますので、ぜひ、お祈りをお願いします。 ギデオン協会の山形支部の総会は今年で38回を迎えました。38年もの間、この山形の地で忠実に、学校や病院やホテルで、聖書配布が行われてきました。そして、特に去年の大震災の後は、被災地で聖書配布が行われました。聖書配布というのは、地味で目立たない奉仕ですが、神様はその忠実な奉仕を用いて、蒔かれた御言葉の種が、必ず成長して花を咲かせ、実を結ぶと信じています。 そのような忠実な働き手によって、神様の御業は進められるのです。
聖書の中の人物も、用いられた人は、少しのものに忠実な者でした。
アブラハムもヨセフもモーセも忠実に主の仕えた人たちでした。そして、イザヤもエレミヤも忠実に主の御言葉を預言したのです。
ダビデは、最初は、羊飼いでしたが、その羊飼いの働きを忠実に、命がけで行いました。その結果、あのペリシテ軍の大男のゴリアトを倒すことができたのです。そして、その忠実なダビデを、神様はイスラエルの民として用いられたのでする また、イエス様は、少しのことに忠実な人でした。イエス様は30歳まで、ナザレの町で大工をしていました。その時のことは詳しくは記されていませんが、ピリピ2:6~8で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と書かれているところを読むと、あのナザレの時代も忠実に大工の仕事をしていたことが分かります。
「『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
私たちも、少しのことに忠実でありたいと思います。そうするなら、主はさらに多くのものを管理させようと、私たちを喜んで用いてくださるのです。
(3)賜物を用いる者は、更に豊かになる
28~29節 「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
5タラントンもうけた者には、怠けていた僕の1タラントンも与えられました。 イエス様は、この譬えの結論として、29節で「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 と言われています。 すべての人は、神様から大切な賜物を与えられています。そして、それは、大きな可能性を持っているのです。
日本に最初に福音が伝わったのは、1549年フランシスコ・ザビエルが来日した時でした。その後、キリスト教は爆発的な勢いで、日本中に広がっていきました。 それから、20年後の1570年から8年間、カブラルという宣教師が日本宣教の総責任者として滞在しました。カブラル宣教師は滞在中、このような手紙を残しています。「わたしは、日本人ほど傲慢で、貪欲で、不安定で、偽善的な国民を見たことはありません。」
ところが、フランシスコ・ザビエルは、カブラルとは全く逆の手紙を残しているのです。彼はこう書いています。「日本人は、私が出会った民族の中で、最も優れている。彼らは一般的に良い資質を持ち、悪意がなく、交際していて非常に気持ちが良い。」 日本人が20年の間に、そんなに変わってしまったのでしょうか。そうではありません。ザビエルとカブラルの見方が違っていたのです。ザビエルは、日本人に大きな可能性を見ていましたが、カブラルは、日本人に可能性を見いだすことができなかったのです。 そして、ザビエルが日本に来て20年の間は、イエス・キリストを信じる人が大勢起こされましたが、カブラルが来てからの8年間は、ほとんど救われる魂が起こされなかったのです。
このザビエルとカブラルの見方の違いは、宣教師や牧師のあり方を教えてくれるだけではなく、父親や母親の姿を教えられるのではないでしょうか。 両親が、どこまでも、子どもを愛し、信じ続けていくなら、必ず子どもは育っていきます。でも、どこかで、もう駄目だとあきらめてさじを投げてしまったら、そこで、その子の成長は止まってしまうのではないでしょうか。 神様が、どこまでも愛し続けてたように、信じ続けてくださったように、その子を愛し信じ続けることです。
神様は、すべての人に賜物を与えておられます。そして、その賜物には大きさの違いがあっても、かけがえのない大きな可能性のある賜物です。そして、その賜物が、私たち一人一人に与えられているのです。そのことを信じましょう。1タラントン預けられた僕が、「自分には何もできない。」と思って、その大切な1タラントンを土の中に埋めてしまったように、私たちに与えられている賜物を土の中に埋めてしまったら、何の役にも立ちません。それどころか、その賜物までも取り去られて、歯ぎしりをすることになってしまいます。 私たち、一人一人に与えられている賜物は、素晴らしい賜物です。そして、その賜物には無限の可能性があるのです。その可能性を信じて、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
そして、やがて主の御前に立つ時、20節や23節にあるように、 「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と言われるような、歩みをさせていただきましょう。
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