今週の月曜日と火曜日にMSR+のボランティアが行われ、市民農園の名札作りをしました。その時に、小さなゴーヤの苗をいただいて帰りました。早速、ホームセンターに行ってプランターと土を買ってきました。 まず、その土にEMを千倍にうすめた水をかけて、その土に支柱を立てて、網をかけました。うまくいくと、ゴーヤのツルが伸びて、緑のカーテンのようになって、たくさんゴーヤがなるそうです。ゴーヤができたら教会に持ってきますので、楽しみにしてください。 小さなゴーヤの苗でさえ、自分で手をかけると愛情がわいてきますが、それは、人に対しても同じです。人を愛し、人に仕える時に、その愛情は豊かになってきます。
今日の中心の御言葉は40節です。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
この聖書の箇所には、最後の審判について書かれています。 再臨の主イエス様は、終わりの日に、栄光を帯びてこの地上に来られます。そして、全世界を裁かれるのですが、ここでは、羊と山羊を分ける羊飼いにたとえられています。31~33節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
羊と山羊とはよく似ているので、普通、ユダヤでは同じ群れの中に混じり合っていました。けれども、必要な時には、羊飼いは、羊と山羊とを分けたのです。そのような、日常生活のたとえを用いて、大切な世の終わりの裁きについて教えられたのです。 羊飼いは、羊を右に、山羊を左に分けました。そのように終わりの日には、イエス様が裁きの座について、ある者を右に、ある者を左に、より分けられるのです。
この最後の審判から、3つのことを学びたいと思います。
(1)この小さな者を愛する愛
34節「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」
右側にいる人たちは、神様の救いの計画にあずかっているもので、イエス・キリストを救い主と信じた人です。このような人に対しては、「世の初めから」計画しておられたように、神の民とされるのです。エフェソ1:11「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
そして、右側にいる人たちに、イエス様はこう言われます。35~40節お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
けれども、イエス様にそのように言われても、選ばれた人たちは、少しもそれに気がつきませんでした。 良く友達に親切にしてもらうと、「借りができた」、親切にすると「貸しができた」と言う人がいていつまでも覚えている人がいますが、本当の愛は、一方的に注がれるもので、いつまでも覚えておくようなものではないからです。 しかし、彼らが行った善い業は、イエス様を信じるものにされた者で、すなわち、わたしに対してなされたものであると言われているのです。
私たちには、直接イエス様に対して善い業を行うとしたら、きっと最善を尽くしてお迎えするに違いありません。たとえば、イエス様が目の前に現れて、お腹が空いたので何か食べさせて欲しいと言ったらどうでしょう。自分の食べるものを減らしてでも、イエス様に食べていただくのではないでしょうか。また、イエス様が喉が渇いたとおっしゃったら、遠いところからでも水を持ってきて飲んでいただきたいと思います。また、イエス様が裸であったら、自分の来ている服を抜いてでも、イエス様、これを着てくださいと着ていただきたいと思います。 また、イエス様が病気だと聞けば、お見舞いに行くでしょうし、イエス様が牢にいると聞けば、危険を冒してでも、イエス様にお会いしたいと思います。
しかし、それが「この最も小さな者の一人」だったらどうでしょうか。その人が、取るに足りない、人に見向きもされないような人だったらどうでしょうか。そこで、私たちの愛が問われます。日常生活の中で、どんな小さなことに対しても、また、どんなに小さな人に対しても、イエス様に対してするのと同じように、愛を持って行いなさいと言うのです。
その具体的な例が、創世記18:1~15節に書かれています。 ここには、アブラハムが知らない3人の旅人をもてなしたことが書かれています。ところが、その一人は、主御自身であり、後の二人は主の御使いだったのです。そして、その3人の旅人をもてなした時に、アブラハムは14節で 「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
という約束をいただいたのです。
私たちが出会う一人一人に心から仕える時、それは、イエス様にしたことと同じなのです。
山室軍平という救世軍の指導者は有名ですが、その山室軍平を導いた、吉田清太郎さんの証しです。 吉田喜代太郎さんは、Ⅰコリント13章の愛の賛歌にが愛唱聖句で毎日のように半年くらいこの聖書の箇所を読んでいました。Ⅰコリント13:4~7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
そして、吉田喜代太郎さんは、ここに書かれているような愛の人になりたいと祈るようになりました。 そんなある日、当時一文無しで苦学をしていた、山室軍平に出会ったのです。彼は、イエス様をもてなすように、愛を持って山室軍平をもてなしました。宿のない彼に宿の世話をしてやり、食べ物のない彼と一緒に食卓を囲みました。 この山室軍平は、のちに日本救世軍の指導者となり、キリスト教伝道、社会福祉事業で活躍し、内村鑑三、賀川豊彦と共に、世界に知られるようなクリスチャンになりました。また「民衆の聖書」という全集をはじめ数々の信仰書を残して、今でも多くの人に愛読されています。 あの時には、吉田喜代太郎さんは、山室軍平が、こんなに偉大な人になるとは全然知りませんでしたが、彼の愛の忠実な行いが、キリスト教の大伝道者を育てたのです。40節 「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
私たちが出会う人は、どのような人でしょうか。どのような人であっても、神様が造られたかけがえのない大切な人です。しかも、その人のために神様が一人子を与えて下さるほどに愛しておられるのです。その「この最も小さい者の一人」を心から愛しましょう。そして、その人に仕えることによって、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(2)愛を行わない罪
それから、イエス様は左側にいる人たちにこう言われました。41~45節 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
左側にいる人たちは、イエス・キリストを信じなかった人たちです。 彼らは、このイエス様が、飢えたり、渇いたり。旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢にいた時に、お世話をしなかった人たちです。
そして、彼らは、そのことを指摘された時に、「お世話をしなかったでしょうか。」と言っています。彼らは、長い生涯の中で、そのようなことをしてきたのかも知れません。しかし、最初の人との違いは、最初の人は意識をしないで行っていたのに。彼らはそれらを意識して行っていたということです。それは偽善であって愛の行いではありません。そして、すでにこの地上ですでに報いを受けていたのです。
そして最初の人は「この最も小さな者の一人に」対してその善い業を行いましたが、彼らは「この最も小さな者の一人に」善い行いをなかったのです。 そして、イエス様は、それらの人たちに、『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』と言っておられます。
ヤコブ4:17にはこう書かれています。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」 そして、なすべき善を知りながら、それを行わない罪を犯した者は、呪われて「永遠の罰を受ける」と書かれているのです。
昔、ある戦争の真っ最中に、一人の兵隊が姿を消しました。みんなで彼を探すと、何と彼は花園で、遊んでいました。彼を軍法会議にかけたところ、彼はこう言ったそうです。「けれどもわたしは、別段人の害になるようなことをしていたわけではありません。」 なるほど、彼は、どろぼうをしていたわけでも、詐欺をしたわけでもありませんでした。しかし、多くの軍人が命をかけて闘っているのに、その大切な責任から逃れて、一人で花園で遊んでいたことが、罪でなくて何でしょうか。彼は、その罪のために重たい刑罰を受けたのです。
私たちも、クリスチャンとして、酒を飲まないから、たばこを吸わないから、賭け事をしないから、人に迷惑をかけていないからというぐらいで、立派なクリスチャンのつもりになっていてはならないということです。 私たちは、神の軍人として、「この最も小さい者の一人」を心から愛し仕えて、神様の愛を行う、愛の兵士でなければならないのです。 「この最も小さい者の一人」にしないことは、イエス様に対してしないことであり、それは、「永遠の刑罰」を受けなければならない罪であることを覚えて、心から神様と人とを愛し、仕える者とさせていただきましょう。
(3)「この最も小さな者の一人」への愛は、キリストへの愛
最後に、今日の御言葉を読みましょう。40節 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
45節 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
ここでイエス様は、「この最も小さい者の一人」にしたことは、わたしににしたことで、「この最も小さい者の一人」にしなかったことは、わたしにしなかったことだとおっしゃっておられます。
これは、どういう意味でしょうか。それは、神様と私たちとの関係を良く表しています。神様は、私たちの天の父であり、私たちは神の子どもです。ですから、「この最も小さい者の一人」の子どもにしたことは、父親である神様、イエス様にしたことと同じであるということです。 親を喜ばせる一番良い方法は、子どもを褒めて、その子どもを助けることです。 神様は、偉大な父親ですから、神様の心を喜ばせるためには、神様に造られた神の子を愛し、助けることです。 神の子である「この最も小さな者の一人」を愛し、助けることこそが、神様を喜ばせる最高の方法です。
昔、ツールのマルチンという人がいました。彼はローマの兵隊で、クリスチャンでした。ある寒い日に彼が町に入ると、物乞いをしていた人が、彼を呼び止めて、何かめぐんでくださいと施しを求めました。 マルチンはお金は持っていませんでしたが、物乞いをしている人が、真っ青い顔をして寒さに震えているのを見て、自分の擦り切れた軍服の上着をとって、二つに切って、の半分を着せてあげたのです。 その晩に彼は夢を見ました。そこは天国で、天使に囲まれたイエスさまが、ローマの兵隊の上着の半分を着ておられたのです。一人の天使が「主よ、どうしてそんな古い上着を着ておられるのですか。誰があなたにそれをあげたのですか。」と尋ねると、イエス様は、静かにこう答えられたそうです。「わたしの愛するしもべマルチンがくれたのだ。」
私たちも、報酬をあてにしないで、「この最も小さな者の一人」を助ける愛の心と生活を身につけさせていただきましょう。そして、40節にあるように、 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
と、イエス・キリストを愛し、仕える喜びにあずからせていただきましょう。
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