今日の中心の御言葉は13節です。 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
イエス様は、天国に入る備えについて、花婿を迎える「十人のおとめ」の譬えを用いられました。 当時、ユダヤ人の結婚式は、まず、花婿が夜、友人と一緒に花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。そして、そこで結婚の儀式が行われ、それから、自分の家に連れて帰って、そこで祝宴が行われるのが普通でした。 この時、花婿の来る前に、先ぶれの男が家に行って、『花婿だ。迎えに出なさい』
と言うと、花嫁の友人がそろって花婿を迎えるのです。 そして、結婚式の準備に時間がかかると、花婿が真夜中になって帰ってくることもありました。
イエス様は、そのような結婚式の状況を思い浮かべながら、譬えに用いられています。 十人のおとめがいました。それぞれ花婿を迎えるためにともしびを持って待っていました。そのうち、5人は愚かなおとめで、5人は賢いおとめでした。 愚かなおとめと賢いおとめの違いが、3節と4節に書かれています。 「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」 このともし火というのは、ランパスと呼ばれて、今のランプの語源になったものです。ランパスは木製の燭台で、油壺がついていて、その中に植物性のしんを入れてそのしんに火を灯すようになっていました。
愚かなおとめたちは、そのともしびは用意していましたが、油の用意はしていませんでした。 そして、賢いおとめたちは、そのともしびと一緒に、壺に油を用意していたのです。 ところが、待てど暮らせど花嫁はやってきません。とうとう真夜中になってしまいまい、みんな眠気が差して、眠り込んでしまいました。
すると、突然、先ぶれの男がやってきて、『花婿だ。迎えに出なさい』という声が聞こえたのです。おとめたちは、起きて、自分のともしびを持って、花婿を迎える準備をしました。 ところが、愚かなおとめたちは、自分の油がなくなりかけていることに気がついて、賢いおとめたちにお願いをします。8節 「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
ところが、9節で 「賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 と言って断られてしまいました。そこで、愚かなおとめたちは、店に行って、自分の分を買いに行くと、その間に花婿がやってきてしまったのです。
愚かなむすめが帰ってくると、戸が閉まっていました。そこで、愚かなむすめたちが『御主人様、御主人様、開けてください』 と戸をたたくと、こう言われたのです。12節「しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」
これで、この譬えは終わりですが、最後にイエス様は、結論として、13節でこう言われています。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
この譬えで、花婿というのは、再臨のイエス様のことで、十人のおとめというのは、私たちのことです。そして、壺の油というのは、聖霊の油を表しています。
この譬えから、3つのことを教えられます。
(1)人から借りることのできない物がある。
8~9節「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
愚かなおとめは、花嫁がやってきた時、あわてて賢いおとめに、「油を分けてください。」とお願いしましたが、分けてもらえませんでした。 ここを読むと、賢いおとめたちは、分けてあげれば良かったのに、何て冷たい人たちだろうと思うかも知れません。 しかし、私たちには、分けてあげられるものと、分けてあげられないものがあるのです。ここで、油は何を差しているのでしょうか。先程申し上げたように聖霊です。この聖霊は、イエス・キリストを信じるものだけに与えられるものです。そして、それは、誰にも分けてあげることはできないのです。
これはユダヤ人に対して語られている譬えです。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫だと言って、誇っていました。ところが、イエス様は、先祖が神様から選ばれた民であろうと、今あなたたちが聖霊に満たされてなければ、神の国に入ることはできないとおっしゃったのです。 信仰というのは、世襲制ではありません。一人一人が、今、イエス様を信じて聖霊に満たされているかが問われるのです。 わたしの両親は、敬虔なクリスチャンでした。両親だけでなく、兄も姉も弟も妹もみんなクリスチャンで毎週教会に行っていました。わたしは、その家族です。と言ってもそれでは、代わりにならないのです。
みなさんに、連鎖祈祷や日々のディボーションで「祈りのカード」を使って祈っていただいています。早天祈祷会では、一人一人の名前を挙げとりなしの祈りをします。なかなか、祈りが聞かれないと空しさを感じることがありますが、神様はその小さな祈りを聞いてくださって、素晴らしい御業をなしてくださるお方です。
今年のペンテコステで、斎藤幸子姉がバプテスマを受けられ、進藤達志兄が転入会を受けられましたが、それも何年も祈り続けられた答えでした。 そして、先日、素晴らしい再会が与えられました。鈴木亜紀姉をご存じでしょうか。今から、約20年前に短大時代、イエス様を信じてバプテスマを受けられました。短大を卒業して、東原幼稚園に一年勤めましたが、その後旅館の派遣社員として、箱根や神戸、横浜と転々として教会からは離れた生活をしていまいました。 ところが、去年の3/11に震災に遭い、山元町にある実家が、崖崩れで全壊してしまったのです。 そこで、今までの職場を辞めて、実家に帰って、ハローワークで仕事を探したそうです。すると、日本キリスト教団の岩沼教会付属の幼稚園で募集をしていたのです。最初は、「わたし幼稚園の先生をしていたのは、ずいぶん昔ですから」と二の足を踏んでいたそうですが、「大丈夫だから受けるだけ受けてみなさい。」と言われ、面接を受け、そこでも園長先生に大丈夫だからやってみなさいと励まされて、その保育園に勤めることになりました。そして、その保育園が教会付属なので教会に通うようになり、今は、岩沼教会に通っているのです。 そして、先日もMSR+の礼拝に来られ、共に賛美をし祈りの時を持ちました。 その時に、神様は本当に真実な方だなと思いました。一度救われた魂を、もう一度神様の元へと返して下さったのです。
私たちは、その人の代わりに天国に行くことはできません。また、その人を連れて天国に入ることも出せきません。でも、その人のために祈ることができるとは何という恵みでしょうか。祈りによって、人が救われ、神様の元に返る素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(2)最後になって間に合わないことがある。
11~12節「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」
あの愚かなおとめたちも、前もって油を買おうと思えば買えたはずです。それなのに、用意できる時に、用意をしなくて、最後になって、『御主人様、御主人様、開けてください』と言いますが、御主人に、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』
と言われてしまったのです。 イエス・キリストを信じる信仰も同じです。今は、イエス・キリストを信じるならば天国に行く備えをすることができます。しかし、終わりの日には、もう手遅れだという日がやって来るのです。 ルカ16:19~31に「金持ちとラザロ」の譬えが書かれています。 ある金持ちと、ラザロがいました。 金持ちは、紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。 その家の門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわって、その食卓から落ちる物でお腹を満たしていました。 やがて、二人とも死んでしまい、ラザロは天国に、金持ちは地獄に行ってしまいました。金持ちが、天国を見ると、ラザロがアブラハムと一緒に食卓を囲んでいるではありませんか。 金持ちは大きな声でこう叫びます。ルカ16:24「そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
すると、アブラハムはこう答えます。25~26節 「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
そこで、金持ちは、自分の子どもたちにはこのような思いはさせたくないと思い、せめて子どもたちの所にラザロを遣わしてください。と言いますが、それも神様から断られてしまうのです。 この譬えから教えられることは、もう手遅れだという日がやって来ると言うことです。
ヘブル3:14~15(P404) 「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―― それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」
今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはなりません。 後になって、神様に、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』
と言われる前に、はっきりとイエス様を救い主として信じて、聖霊の油をいただきましょう。 それも、聖霊に満たされ続けなければならないのです。昔、イエス様を信じた、でも、今はキリストから離れてしまったでは、役に立たないのです。「壺に油を用意していた」賢いおとめのようにいつも、聖霊の油に満たされて、いつ再臨の主が来られても良いように備えをさせていただきましょう。
(3)目をさましていなさい。
13節 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
あのおとめたちが、いつ花婿がやって来るか分からなかったように、再臨のイエス様はいつ私たちを迎えに来て下さるのか分からないのです。 だから、目を覚ましていなさい。「壺に油を用意していなさい」と言われるのです。
今日、昼食後「こまくさ」の発送作業を行いますが、今月号の、巻頭言の御言葉を読んで、ドキッとしました。そこにはこう書かれています。
「死ぬ日は生まれる日にまさる」(コヘレト7・1)
どうして、こんな御言葉が、最初に書いてあるのだろうと思いましたが、内容を読んでよく分かりました。
主の聖名を賛美いたします。皆様のお祈りとご支援に心から感謝いたします。初夏の日差しが心地よくなってきました。西部特有の、夜8時を過ぎても明るい夏の夜もうれしいです。新しい命が生まれた日がどれほど祝福に満ち、喜びにあふれているでしょうか。しかし御言葉のように私も、人生を終える日に「きょうは私が生まれた日より幸いな日です」と言えるような、悔いのない人生を生かされたい、と洗礼式の日に思いました。
人生を終える時、主の再臨の日、それは、私たちが誕生した日よりも素晴らしい日です。なぜなら、救いが完成して、私たちが主の元に返る素晴らしい日だからです。その日を待ち望みながら、この世の旅路を歩ませていただきましょう。
ある宣教師が、子どもの頃、まわりに洋服を脱ぎ散らかしたまま眠ろうとすると、お母さんがやってきて、洋服をきちんとたたんで寝るようにと言いました。彼は、洋服をたたみながら、不思議に思って、「なぜ、洋服をきちんとたたんで寝なくちゃいけないの?」とお母さんに聞きました。 すると、そのお母さんは、「今晩、イエス様がいらっしゃっても、恥ずかしくないようにするためです。」と答えたそうです。 その宣教師は、その時から、いつ再臨の主が来られてもあわてなくてすむように、常に心がけるようになったそうです。
私たちの心はどうでしょうか。 再臨の主がいつ来られても良いように、整えられているでしょうか。また、聖霊の油で満たされているでしょうか。 十字架の主によって、私たちの心を清めていただき、聖霊の油に満たされて、キリストの光を照り輝かす私たちとさせていただきましょう。
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