イースターおめでとうございます。 まず、悲しいお知らせをしなければなりません。児童伝道で日本のみならず世界で用いられていた、内越言平先生が、昨日の早朝午前6時16分に天に召されました。 言平先生は、天国に行ったのだから「ハレルヤ」と主を賛美しなさいとおっしゃるのでしょうが、やはり、この世でのお別れは寂しいものです。
最初に、内越言平先生に日本キリスト教団のCS教師研修会で御用をしていただいたのは20年前のことです。涙を流しながら「お友達が神様の愛を必要としています。どうか教会学校の教師を辞めないで下さい。」と熱く語られたことを忘れることができません。
そして、そのお友達の救いに対する情熱は変わることがありませんでした。 また、ちょうど、一年前に、被災地の教会をまわられ、私たちの教会にもお訪ねくださって、私の足を洗ってくださいました。言平先生に教えられたことは多く、これからもご指導をいただきたいと思っていましたので、本当に辛く悲しい別れでしたが、私たちには、また天国でお会いできるという希望があります。 今日はイースターです。イエス様は、私たちの罪のために十字架に架かって下さり、三日の後によみがえられました。そのイエス様は、イエス・キリストを信じる私たちにも、永遠の命を約束してくださっているのです。
今日の中心の御言葉は、19節です。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
ここに「あなたがたに平和があるように。」とあります。口語訳聖書や新改訳聖書では、「あなたがたに平安がありますように」と訳されています。 これは、ヘブル語ではシャロームという言葉で、挨拶に使われる言葉です。 シャローム「あなたがたに平安がありますように」今日は、この御言葉を中心に3つのことをお話ししたいと思います。
(1)不安と恐れを持つ人に与えられる平安
19節の前半に「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。
週の日の初めの夕方、とありますから、日曜日の夕方です。その3日前の金曜日にイエス・キリストは十字架につけられたのです。 弟子たちは、ユダヤ教の指導者たちによって、イエス様が十字架につけられましたから、今度は弟子である自分たちが捕らえられ殺される番だと身を潜めて、家の中に隠れて鍵を閉めていたのです。 そのような、恐れと不安の中に、イエス様は来られました。 そして、真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架で傷ついた手とわき腹をお見せになられました。全人類の罪のために十字架に架かられたイエス様は、確かに三日の後によみがえられたのです。 このイエス様に出会った時、20節には「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」と書かれています。不安や恐れが、喜びに代えられたのです。 イエス様は、罪と死に打ち勝ちよみがえられました。そのイエス様は、私たちの不安や恐れの真ん中に来てくださって、シャローム「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださり、不安と恐れを喜びに代えてくださるのです。
私は、今年のイースターを迎えて、去年気仙沼にボランティアに行った時のことを思い出していました。あの時の気仙沼は、地震と津波で大変な状況でした。 あの時、クリスチャンの印刷会社の阿部さんの家の泥だしや、壁や床の掃除をさせていただきましたが、その横にある川の中に、車や船や家までも流されていました。そして、気仙沼は重油が流れて火災が起こり、町中が焼けて焼け野原になっていました。 けれども、そのような中で、毎朝早天礼拝が行われ、神様を讃美し、御言葉をいただいたのです。 そして、祈祷会には福島から、後藤正継先生が来てくださり、Ⅰコリント10:13(P312)から御言葉を取り次いでくださいました。その時の御言葉をお読みします。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
そのような時を過ごしながら、よく、想定外という言葉が使われますが、その想定外の試練の中にも、主が共におられるということを知ることができました。 また、気仙沼第一聖書バプテスト教会は、新聞の一面に載るほど有名になりましたが、あの教会は東日本大震災の津波で流されてしまい、残ったのは土台と洗礼荘だけでした。けれども、その後で、韓国やシンガポールのボランティアの方々が瓦礫の撤去をして、十字架が立てたのです。そして、多くの方々がその教会の跡地に立てられた十字架の所に集まって、讃美や祈りが捧げらる人は後を絶ちません。 確かに、教会は流されてしまいましたが、イエス・キリストを信じる信仰はなくなることがありませんでした。イエス様が十字架にかかられてよみがえられたように、あの場所にもよみがえりの主が共におられるのです。
確かにイエス様はよみがえられて、わたしたちと共におられます。そして、弟子たちや被災地の方々だけではなく、私たちにも不安や恐れの中にある時に、私たちの心の真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださるのです。
(2)失敗と罪を犯した者に与えられる平安
イエス様が十字架にかかられた時、弟子たちは、大変な失敗を犯し、取り返しのつかない罪を犯してしまいしました。 ペテロは、三度も「イエスを知らない」と裏切ってしまいました。また、他の弟子たちもイエス様が十字架に架けられた時、クモの子を散らすように逃げてしまいました。 また、弟子のトマスは、イエス様がよみがえられたと聞いて25節でこう言っています。「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
弟子たちは、このようにそれぞれ取り返しのつかない、失敗や罪を犯してしまうのですが、そのような弟子たちによみがえりのイエス様は現れて、シャローム「あなたがたに平和があるように」と語られたのです。
私たちも、イエス・キリストの十字架の血潮によって救われたにもかかわらず、失敗や罪を犯してしまいます。 私の人生を振り返ると、何度も同じ罪を繰り返してしまったり、失敗の連続で、もし、消しゴムで消せるものなら消してしまいたいことばかりです。また、コンピューターのように、リカバリーソフトがあれば、全部リカバリーして、工場出荷状態に戻せたらどんなに良いだろうかと思います。 もちろん、そんなことはできません。しかし、イエス様は、私たちの罪のために十字架に架かって下さり、すべての罪を、またすべての失敗を許して、清めて下さるお方なのです。Ⅰヨハネ1:7~9 「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
イエス様は、失敗をし罪を犯した私たちの罪のために十字架に架かってくださいました。そして、私たちの心に本当の「平和」を与えてくださるお方です。
(3)遣わされていく者に与えられる平安
21~22節「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
イエス様は、弟子たちの罪を赦され、整えて弟子たちを遣わされました。それも、自分の力で頑張れ、というのではなく、「聖霊を受けなさい。」 言われ、よみがえりのイエス様が聖霊という形で、私たち心の中に宿ってくださり、共に働いてくださるのです。
あの、三度イエス様を裏切ったペテロでしたが、イエス様は、ガリラヤ湖でペテロに現れ、三度も「わたしを愛するか」と尋ねられて全ったき赦しと使命を与えられました。 このペテロは、やがて聖霊を受け、迫害や殉教の死も恐れずに、福音を伝える人に代えられました。
また、イエス様がよみがえられた事を信じられず、イエス様の十字架のくぎ跡を手やわき腹を触ってみなければ信じないと行ったトマスにも、イエス様は、現れてくださり、十字架で傷ついた手と、わき腹とを見せられて「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 と確かにイエス様がよみがえられた事を示されたのです。
このトマスは、伝説によると、やがて遠いインドの地に福音を宣べ伝え、殉教の死を遂げたと言われています。 あのノーベル平和賞を受賞した、マザー・テレサの葬儀が、聖トマス教会で行われましたが、トマスは、使命が与えられ、聖霊に満たされて、このインドの地まで神様の愛を伝えたのです。 ペテロとトマスだけではなく、すべての弟子たちが、このように整えられて遣わされていきました。
今年、ウェスレアン・ホーリネス神学院に3人の男性が入学しました。 その中に、戸畑高峯教会の塩屋 弘先生の長男証兄がいます。 証くんは、牧師の息子として、幼いころから教会に通っていましたが、高校生になったころ、日曜日にみんなが遊びに行っているのに、自分だけはどうして、教会に行かなければならないのだろうと悩むようになりました。また、悪い友達と付き合うようになり、夜遊びをして、何度も警察に補導されたこともあったそうです。 そのような中で、大学生になった時、KGK(キリスト者学生会)との出会いが与えられました。KGKのキャンプに行って、同じ年代のクリスチャンと出会い、十字架のメッセージを聞きました。それまでも、聞いていたメッセージでしたが、その時は自分の罪が示され、こんな僕のためにイエス様が、十字架に架かってくださったのだと、罪を悔い改めてイエス様を心の中にお迎えしました。
その時から、この世の楽しみを求める生活から、イエス様を求める生活に変えられたのです。 ところが、そのような時です。彼のおじいさんは、白石鉄鋼の社長をしておられた敬虔なクリスチャンでした。 そして、ある日どこにも雇ってもらえない一人の元暴力団の青年を雇ったのです。ところが、勤務態度が悪く、無断欠勤も続きました。そこで、社員から「もう、これ以上雇っていることは無理です。」と言われ、その社員を解雇することになりました。社長自らが解雇を言い渡すことは異例なことでしたが、彼の将来のことを心配して、その日、彼に会うことにしました。ところが、逆恨みをされてしまい、殺されてしまったのです。 証くんは、その彼のことがどうしても許すことが出来ませんでした。 そのような時、九州でアシュラムが行われました。母親の優子先生に勧められて、その集会にでで、神様の前に静まる時が与えられました。聖書を読み、牧師のメッセージの中でこの箇所が開かれたのです。 復活のイエス様が、弟子たちにあらわれて、「あなたがたに平和があるように」と言われた御言葉か語られました。「あなたがたに平和があるように」嵐のように、荒れ狂っていた心の中に、何とも言えない平安が与えられました。そして、その時、祖父を殺した加害者を許すという心が与えられたのです。 そして、「そのような心を与えてくださった、イエス様にすべてをお献げします。」と献身を言い表し、今年の春、ウェスレアン・ホーリネス神学院に入学したのです。
21~22節 「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
今日は、三つの平和についてお話をしました。
(1)不安と恐れを持つ人に与えられる平安
(2)失敗や罪を犯した者に与えられる平安
(3)遣わされていく者に与えられる平安
キリストと私とが、別れになった瞬間に、すべてのことが悪くなる。けれども二つのものが一つになっている間は、すべてのことが良く、また平安である。」
よみがえりのイエス様は、わたしたちにもこう言われます。シャローム「あなたがたに平和があるように」 イエス様からこの「平安」をいただき、「聖霊」に満たされて、キリスト様の愛を一人でも多くの方々に伝えさせていただきましょう。
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