今日は、3月11日東日本大震災が起きてから、ちょうど一年が過ぎました。被災者やその家族、関係者に主の慰めと平安がありますようにしばらく黙祷の時を持ちましょう。
未曾有の大震災から、1年が過ぎましたが、この一年間、言いようのない苦しみや悲しみの中にありました。そして、まだまだ解決されていない問題が山積みですが、神様の恵みも数えることができます。
多くのクリスチャンのボランティアが世界中から被災地に来られ、愛の奉仕と、祈りが積まれてきました。また、そのような出来事を通して、福音が伝えられてきました。 最近では、「東北・希望の祭典」が行われました。実行委員長の田中先生から、報告をお聞きしましたが、一日目は、1800人、二日目は4000人、そして三日目は5000人の人たちが、集われたそうです。 一つの集会で、一万人以上の人が集った集会は、東北では初めての出来事です。神様が、素晴らしい御業を初めておられるような気がします。
ウェスレアン・ホーリネス教団でも、去年の6月から、岩沼市でのMSR+のボランティアが続けられてきましたが、今年に入って、MSR+岩沼チャペルと名前を変え、毎回礼拝が行われるようになりました。 また、3/18には、韓国のイエダ復興支援コンサートが行われます。被災地の復興支援のために、みんなで応援に出かけましょう。 そして、5/9には岩沼市の仮設住宅の集会所で、三浦綾子読書会の、演劇と講演会が行われます。 心から、主に仕え、神様の愛が一人でも多くの人たちに伝わるようにと願っています。
今日の中心の御言葉は、11~12節です。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
律法学者やファリサイ派の人々が、イエス様を何とか陥れようと、論戦をいどみましたが、イエス様は、見事にその質問にお答えになり、彼らは何も言い返すことができませんでした。 そこで、イエス様は、群衆や弟子たちを集めて大切なことをお話になりました。
今日の聖書の中には、律法学者やファリサイ派の人々の間違いが書かれていますが、この律法学者やファリサイ派の人々の姿を反面教師として、3つのことを学びたいと思います。
(1)行いの伴わない信仰ではなく、行いの伴う信仰を
2~4節 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」
律法学者やファリサイ派の人々は、会堂に行くと「モーセの座」に座っていました。このモーセの座というのは、会堂の一番偉い人が座る席だと言われています。 ガリラヤのコラジンで、石造りの大きな椅子が発掘されたそうですが、その立派な椅子が「モーセの座」であったと言われています。 要するに、ファリサイ派の人々や会堂では、上座に着いて、自分たちこそがモーセの後継者であり、権威ある者だと誇っていたのです。 彼らは、そのモーセの座に座って、律法を解き明かしてはいましたが、それを実行をしてはいませんでした。 そこで、イエス様は、3節で「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」と語られたのです。
こんな笑い話を聞いたことがあります。天国に行くと、ウィンナーが、2本重なったようなものが、たくさんあったそうです。 その人が、天使に「いったいこれは何ですか」と聞くと、これは、律法学者やファリサイ派の人々の唇です。彼らは、口では律法の言葉を語っていましたが、行いが伴わなかったので、唇だけが天国に入ることができたのです。
これを聞いて、私はドキッとしました。私も講壇から御言葉を取り次いでいますが、どれだけそれを行っているだろうかと問われたのです。そして、その時に聖書の御言葉を行うことができない者であることを認めて、その罪を悔い改めました。そのようにして、今日もイエス様の十字架の赦しによって、今日も講壇に立たせていただいていることを感謝します。
ヤコブは、ヤコブの手紙の中で、行いのない信仰の空しさをこう語っています。ヤコブ2:14~17「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
また、ヨハネは、Ⅰヨハネ3:18でこう言っています。
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」
私たちは、自分の力では、聖書の御言葉を行うことができません。しかし、そんな私たちの罪のためにイエス様は、十字架に架かって下さったのです。そればかりか、よみがえられたイエス様は、私たちの心の中に共におられて、私たちに御言葉を行う力を与えて下さるのです。聖霊の満たしをいただいて、御言葉を行う者へとさせていただきましょう。
(2)形式化した信仰ではなく生きた信仰を
律法学者やファリサイ派の人々は、外見だけは敬虔そうに見せかけていました。 そのことが、5~7節に書かれています。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」
「聖句の入った小箱」というのは、羊の皮でできた羊皮紙に、出エジプト13:1~16、申命記6:4~9、11:13~21の聖句を書いたものを、動物の皮で作った黒い小さな箱に入れたものです。律法学者たちは、それを目立つように大きくして、人の目につくようにしたのです。 「衣服の房」というのは、民数記15:37~41に基づいて、衣の四隅に付けた房です。これは神様の命令を思い出して、それを守るようにさせるためのものでしたが、彼らは、その衣の房も、目立つように大きくしたのです。 律法学者やファリサイ派の人々は、律法の精神を守るよりも、律法を形式的に守ることによって、自分の信仰が、他人の信仰よりもすぐれていることを誇っていたのです。 イエス様は、そのような形式的な信仰を痛烈に批判されています。
形式化した信仰は、絵に描いた餅と同じです。何の役にも立ちません。しかし、御言葉を信じて、御言葉に生かされる時、それは、大きな力になり、素晴らしい御業をなして下さるのです。
被災に遭ったある方が、御言葉に生きる祝福について証しを書いておられます。 東日本大震災が起こった時、この姉妹は、宮城県沿岸部にある女川町立病院で実習をしていました。この姉妹とお母さんは教会に避難して、他の兄弟姉妹と一夜を過ごしましたが、通信手段が途絶えしまい、お兄さんとは、音信不通になってしまいました。 翌日、新聞で沿岸地域に、大津波が押し寄せたことを知り、「もしかして、お兄ちゃんは津波に流されたかも」と不安が一気に押し寄せてきました。 その日の夜、ロウソクが灯る教会のホールの中で、一人でギターを弾き始めました。すると、一人一人と賛美に加わり、みんなで心から神様を賛美しました。 その賛美の中で、先生から、一つの御言葉が与えられました。
Ⅰペトロ2:6 「聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
その御言葉を聞いた時、「神様はすべてのことを必ず益に変えてくださる。今自分がすべきことは、ただ神様を信頼し、ゆだねることだ。」とはっきりと示されたのです。 「これを信じる者は、決して失望することはない。」この御言葉を握った時、この姉妹の心にある不安がなくなりました。次の日曜日には、何の心配もせずに、喜んで礼拝をささげることができたのです。 その日の夜です。一人の姉妹から「市役所で衛星電話が仕えるよ。」と教えてもらい、この姉妹はお母さんと一緒に市役所に行きました。長い行列ができていましたが、並んでいる間に神様が「これを信じる者は、決して失望することはない。」
「大丈夫、必ずつながるよ。」とこれから起こることを教えて下さいました。そして、順番がきて、お兄さんの携帯電話の番号を押しました。 すると、その電話先には、元気なお兄さんがいたのです。そして、その日のうちに再会することができたのです。
この姉妹にとって、「これを信じる者は、決して失望することはない。」というこの聖書の御言葉は、単なる文字ではなく、生きた神の言葉でした。御言葉を信仰を持って、握る時、それは、力となり、主の素晴らしい御業を見ることができるのです。 そして、この姉妹だけではなく、多くの被災を受けたクリスチャンが、生きた信仰をもって、大変な試練を乗り越えておられるのです。 どうでしょうか、私たちの信仰が、形式化した信仰に陥っていないでしょうか。 私たちも形式化した信仰ではなく、生きた信仰をもって、歩ませていただきましょう。
(3)高慢な心ではなく、人に仕えるへりくだった心を
8~10節「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」 ここで、イエス様が、「『先生』と呼ばれてはならない。」
「地上の者を『父』と呼んではならない。」 「『教師』と呼ばれてもいけない。」 と言われているのは、「先生」や「父」や「教師」という職業に就いてはならないとっているのではありません。
ある教会で、お話をしていると、みんな「先生」と言い合っているのを聞いて笑ったことがありました。そこにいるのは、牧師がいて、学校の先生や、幼稚園の先生がいました。そして、若い女性がいましたが、彼女は教会学校の先生をしていました。そして、そこには年輩の女性もおられましたが、その姉妹はお花の先生をしておられたのです。そこで、みんな先生ですねと大笑いをしてしまったのですが、イエス様は、そのような先生、教師と呼ばれるような職業に就いてはならないと言っておられるのではありません。
律法学者やファリサイ派の人々のように、「先生」と呼ばれることによって、高慢にならないように警告しておられるのです。 しかし、人間は弱い者で、先生と呼ばれているうちに、本当に自分が他の人より偉い者だと思い込んでしまい、自分が権威ある者であるかのように思い上がって、人を裁いてしまうのです。
人間はそのような罪深い者です。だから、イエス様は、あえて、そうならないように戒めているのです。 本当に権威を持っておられるお方は、父なる神様だけです。ですから、いかなる人でも、「先生」「父」「教師」と呼ばれることを喜ばないで、謙遜に父なる神様に仕えなければならないのです。
神様は、人を平等に造られました。ただ、それぞれに賜物や能力は違いますが、それらすべての者は神様が与えて下さったものです。だから、その賜物を、この人の賜物は、素晴らしいがこの人の賜物は劣っているなどと決して比べてはならないのです。社会では、人に優劣をつけますが、神様の前には、優劣はありません。一人一人が、かけがえのない高価で尊い存在なのです。 そして、その中でも、一番偉い者は、人に仕える、へりくだった人です。
11~12節「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
自分の罪を認め、心から悔い改める人。また、自分の弱さや足りなさを認めて、主の前にへりくだって助けを求める人こそが、神の国では一番偉い人なのです。 なぜなら、神の子であるイエス様が、一番低い十字架に架かられて救いの業を成し遂げられたからです。 低いところに、神様の恵みは注がれます。そして、低いところに主の御業がなされていくのです。
昨日の朝日新聞に、被災地を励まし続けた「アンパンマンのマーチ」のことが書かれていました。 「そうだ、うれしいんだ いきる、よろこび たとえ、むねのきずがいたんでも」 と誰もが知っているフレーズですが、この「アンパンマンのマーチ」子どもだけではなく、多くの人たちが励ましを受けてきたというのです。
やなせたかしさんが、アンパンマンを最初に出版したのは1973年、テレビで放映される15年も前のことでした。 アンパンマンは、みなさんもご存じのように、あんぱんの顔をしたアンパンマンが、いじわるなバイキンマンを子どもから守る物語です。アンパンマンは、強くもかっこよくもありません。 得意技のアンパンチでやっつけても、バイキンマンは逃げて帰るだけ、おなかがすいて弱っている子どもがいると、自分の顔をちぎって食べさせて、自分はヨレヨレになってしまいます。やなせさんは、そんなアンパンマンを「世界最弱のヒーロー」と呼んでいます。仮面ライダーやウルトラマンなど「世界最強のヒーロー」が人気の時代に、やなせさんは、それとは全く逆の「世界最弱のヒーロー」を登場させたのです。 最初、原稿を受け取った編集者には、「こんな本、一冊にして下さい」と言われたそうです。また、読者からは「顔をちぎって食べさせるなんて残酷だ」「幼い子どもが読むには教育上問題だ。」と批判の声もありました。 けれども、子どもたちの反応は違いました。5年くらいすると、幼稚園や保育園では奪い合いになるくらい人気の絵本になりました。 やなせたかしさんは、「自己犠牲なくして人は救えない」という精神で、これを書き続けたと言われています。 そして、1988年にテレビの放映が決まると、この「アンパンマンのマーチ」が主題歌として作られたのです。 この主題歌は、放送開始以来、双子の姉妹「ドリーミング」によって歌われてきましたが、あの震災の日、津波に襲われた、宮城県名取市にコンサートに向かう途中だったそうです。そのようなこともあって、この一年間、何度も被災地でコンサートが行われたのです。そして、この歌が多くの被災者の慰めとなり力となったのです。 やなせさんの「自己犠牲なくして人は救えない」という言葉が心に残りました。そして、最大の犠牲を払って、この世に救いの道を開いてくださったのがイエス様です。
フィリピ2:1~8をお開きください。 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
イエス様こそが、十字架の死という最大の自己犠牲を払って、全人類に救いの道を開いて下さったお方です。イエス様こそが「世界最弱のヒーロー」となってくださったのです。 今、受難節を迎えていますが、イエス様の十字架を見上げましょう。そして、イエス様に倣って、私たちも、自己犠牲を惜しまずに、人を愛し、人に仕える者とさせていただきましょう。
11~12節「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
神様の求めておられる人は、偉い人ではなく、仕える人、高ぶる人ではなくへりくだって主の前に立つ人です。 この神様の前に誠実に歩む者とさせていただきましょう。
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