先週の水曜日は、灰の水曜日と呼ばれ、受難節が始まりました。
今日の中心の御言葉は37~40節です。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
ファリサイ派やサドカイ派の人々は、何とかイエス様を陥れようとして、悪意に満ちた質問をしましたが、イエス様は、それに対して見事にお答えになりました。そのような姿を見ていた一人の律法学者が進み出て、このような質問をしました。36節の後半をご覧ください。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
この質問は、ユダヤ人にとって、重大な関心事でした。 なぜならば、ユダヤ人達は、律法を守ることによって神の国に入ることが出来ると信じていたからです。 律法の中心は、モーセの十戒ですが、そのモーセの十戒は、248の消極的な戒めと365の積極的な戒め、合計613にも細分化されていましたので、そのうちのどれが一番重要かということは律法学者にとって大変重要な問題でした。
そして、この質問は、私たちクリスチャンにとっても非常に大切な質問です。聖書は66巻あります。その中には大切な教えが溢れています。けれども、どの教えが一番大切なのでしょうか。どの御言葉に立つかで、その人の生き方までもが変わってくるのではないでしょうか。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という律法学者の質問に対してイエス様はこうお答えになりました。それが、今日の中心の御言葉です。
37~40節「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
この御言葉を中心に、お話しをしたいと思います。
まず最初に、なぜ、この律法学者は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」、 と聞いたのに、イエス様は二つの戒めを答えらたのでしょうか。
37~38節イエスは言われた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。これは、申命記6章4~5節の引用です。また、39節で 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 と答えておられます。
これはレビ記19章の引用です。 なぜ、どれが第一でしょうかと質問されたのに、2つの戒めを答えられたのでしょうか。二つとも甲乙つけがたかったからでしょうか。そうではありません。私たちが神様から愛され神様を愛するという縦の関係の信仰と、私たちが神様から愛をいただいて、その愛をもって互いに愛し合うということは、決して切り離すことの出来ないものだからです。
それは、金貨の裏と表のような関係です。金貨の表には神様を愛する愛が、金貨の裏には人と人とが愛し合う隣人愛が刻まれているのです。そして、どちらが欠けてもそれは不完全なものです。ですから、イエス様はあえて二つの戒めを答えられたのです。そして、この戒めは二つであって一つの戒めです。
この最も大切な戒めから、3つのことをお話ししたいと思います。
(1)第一の戒め
37~38節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
まず、この御言葉から知らされることは、私たちが神様を愛する前に、神様が私たちを愛してくださっているということです。
神様は、私たちを造って下さった唯一の神様です。ですから、親が子を愛するように、神様は私たちのことをかけがえのない大切な存在として愛して下さっているのです。 そして、この戒めが書かれている申命記というのは、出エジプトの後のことが書かれています。ですから、この唯一の神は、エジプトで奴隷として使われていたイスラエルの民を救い出して下さったお方です。
それと同じように、神様は、罪の奴隷であった私たちを救い出して下さったお方です。それも、あの出エジプトの時に、イスラエルの家の門に小羊の血が塗られたように、イエス様は、私たちの罪のために十字架で尊い血潮を流して下さったのです。 私たちを造って下さった神様は、私たちにひとり子を与えて下さるほどに愛しておられます。 その神様の愛にお答えして、あなたがたも
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と命じられるのです。
これらの言葉を、現在の言葉に変えるなら、知、情、意の全てを尽くして、神様を愛しなさいということです。 救世軍の創設者のウィリアム・ブースがこの御言葉から4つのことを言っています。①神様のことをいつも考えること 私たちは、愛する人がいると、いつもその人のことを考えます。そのように、明けても暮れても神様のことを考えなければならないということです。②神様のために労苦をいとわない 人は、愛する者のためなら労苦をいとわないものです。
そのように、私たちも神様のために労苦を惜しまない者でなければならないというのです。③神様に喜んでいただくこと 人は、愛する人を喜ばそうとします。そのように、神様を喜ばせる生活を送ることが大切です。④神様と語り合うこと 人は、愛する人と語り合いたいものです。
ある、結婚式のカウンセリングで、あるカップルが、寒い冬の日に、バス停で、夜中中二人で話していたと聞きました。「寒かったでしょう」と私が聞くと、「いいえ、それが二人でいると寒くないんです。時間も忘れて話していました。」と当てられてしまいました。
愛するといういうことは、そういうことではないでしょうか。だから、私たちも神様を愛するなら、神様と語り合い、神様との交わりを楽しまなければならないのです。
神様を愛するとは、①神様のことをいつも考えること ②神様のために労苦を惜しまないこと ③神様に喜んでいただくことを私たちの喜びとすること ④神様と語り合うこと そのようにして、私たちは、全身、全霊をもって、神様を愛する者でありたいと思います。
(2)第二の戒め
39節 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
隣人愛というのは、この世での愛の実践です。神様に愛され、神様を愛する私たちは、隣人を愛する者でなければなりません。 私たちを、最高の作品としてお造りくださった神様、私たちの救いのためにひとり子をお与えくださいました。そのイエス様は、十字架で命を捨ててくださるほどにあなたを愛しておられます。その神様の愛をいただいた私たちは、さらに進んで、隣り人を愛する者へと変えられていくのです。
ルカ10章では、善きサマリア人のたとえの中で、強盗に襲われて倒れたユダヤ人を助け、隣り人になったのは、異邦人と軽蔑され、いつもけんかばかりしていたサマリヤ人でした。私たちの隣り人とは、私たちの愛する人や仲のいい人ばかりではなく、口も聞きたくないような、時には自分に敵意を持っているような人なのです。
イエス様は、御自分を裏切って逃げてしまうような弟子たちを、「この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)と書かれています。 また、あの十字架上で「父よ、彼らをお赦ください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ:34)と御自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをされたのです。
イエス様にとって、隣り人とは、自分を裏切って逃げてしまう弟子たちであり、自分を十字架につけてしまう人々でした。それでも、イエス様は、御言葉に、『隣人を自分のように愛しなさい。』にあるように最後まで、隣り人を愛し抜かれたのです。
私たちも、この神様の愛に満たされて、『隣人を自分のように愛』 するお互いとさせていただきましょう。
(3)ダビデがメシアを主と呼んでいる
イエス様の完璧な答えに、ファリサイ派の人々は、もう何も言うことができませんでした。 すると、逆にイエス様の方から、彼らに質問をしました。
42節 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
この質問は、ファリサイ派の人々のメシアに対する考え方が間違っているということに気付かせるためのものでした。 ファリサイ派の人々は、「ダビデの子です」と答えました。 彼らにとって、メシアはダビデの子孫であり、ダビデのように王として、異邦人の手から自分たちを解放してくれる人物であると信じていました。 すると、イエス様は、こうおっしゃいました。
43~45節
「イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
この『』は、詩編110編1節の引用ですが、ダビデは、メシアを主と呼んでいるので、メシアは単なる人間としての子孫ではないと言われたのです。 つまり、イエス様は、メシアはファリサイ派の人々が考えているような、人間としてのダビデの子孫ではなく、神の子であると言われたのです。 そして、ダビデのような地上の王国の王ではなく、霊的な神の国の王であるということを明らかにされたのです。 イエス様の、このような鋭い論鋒に対して、ファリサイ派の人々は、一言も反論することができませんでした。
この章には、人間の知恵を超えた、イエス・キリストの知恵のすばらしさが示されています。コロサイ2:3「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 そして、イエス様に反論するものは、やがて滅びに陥りますが、イエス様に聞き従うものは、救いの道を歩むことができるのです。
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