今日の中心の御言葉は14節の御言葉です。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
(1)羊飼いに与えられた平和の知らせ
今から約2000年前のことです。ベツレヘムの郊外の小高い丘で、静かな夜、羊飼いたちが、羊を守るために野宿をしていました。すると、真っ暗な闇の中に、主の栄光が周りを照らしたのです。羊飼いたちが恐れていると天使がこう言いました。10~12節までを読んでみましょう。
「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
このように、天使が告げると、天の大軍が加わって、神様を賛美しました。14節
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながら天に帰って行きました。
この天使の賛美の中に、地には平和、御心に適う人にあれ。」とありますが、御心に適った人とはどのような人でしょうか。
10節に「今日ダビデの町に、救い主がお生まれになった。」とあります。イエス様は、全人類を罪から救い出して下さるためにお生まれになったのです。
この救い主の誕生は、旧約聖書の時代から、イスラエルの民が何千年も前からずっと待ち望んで来たことでした。その素晴らしい出ごとが起ころうとしているのです。 この時、天使は、当時、イスラエルを植民地にしているローマの王様にこの素晴らしい出来事を伝えることも出来たはずです。 また、エルサレムの宮殿に赴き、人々に尊敬されている、身分の高い祭司にまず伝えることもできたにちがいありません。 けれども、最初に救い主の誕生の知らせを聞き、救い主を礼拝するという特権に与かったのは、卑しい労働階級の人々だったのです。この羊飼いというのは、当時、裁判で証言をする資格さえないほど身分の低い人々でした。 どうして、この大切な素晴らしい知らせが、羊飼いたちに最初に伝えられたのでしょうか。 それは、彼らが、心の貧しい人だったからです。
イエス様は、山上の説教で、こう言われました。マタイ5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」 心の貧しい人とは、どのような人でしょうか。それは、自分の貧しさを知っている人です。自分の弱さや足りなさを知って、神様に依り頼む人。また、自分が罪人であることを知って、救い主を心から必要としている人のことです。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」 私たちも、羊飼いのように、自分の弱さや足りなさを知り、神様を心から信頼しましょう。また、自分の罪を認めて、救い主を待ち望みましょう。そのような、心の貧しい人こそが、御心に適う人で、そのような人に、真の平和が与えられるのです。
水は、低い所に流れます。それと同じように、神様の恵みも低い所に流れるのです。貧しい人たちは幸いである。自分の弱さや足りなさ、罪深さを認めて、どこまでも低くなり、神様の救いと恵みを求めましょう。
キリストは全ての人のために命を捨てられたのです。ですから、どんな人でも、キリストが命を捨てるほどに高価で尊い存在なのです。心を貧しくして、主を信頼し、救い主を心の中にお迎えしましょう。そこにこそ、真の平和があります。 世界で最初のクリスマスは、貧しい羊飼いに伝えられました。そして、今、私達にもこのクリスマスの喜びを聞いているのです。何という素晴らしいことでしょう。それは、私達に与えられた最高の祝福です。
(2)いと高きところから与えられた平和
11節をご覧ください。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
ここで、天使は、救い主のしるしは、「布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりご」
であると言っています。16節にも「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」とあります。 ここにあるように神のひとり子であるキリストは飼い葉桶のなかに寝かせられたのです。 先日、ホサナの礼拝で、好美牧師がみんなどこで生まれたと聞きました。すると、雄歩君が「マ~ちゃんから」と答えました。確かに、お母さんから生まれてきたのですが、どこで生まれたのと聞くと、好美牧師は、家で生まれたそうですが、他の子どもたちは、みんな病院と答えました。 赤ちゃんが、生まれる時、非常事態でない限り、家や病院で、きれいな暖かい場所で生まれてきます。 増して、イエス様は、いと高き神の子ですから、大宮殿の中の金や銀で飾られたゆりかごのなかでお生まれになることもできたはずです。いや、世界で最高のゆりかごでもイエス様には充分なものではなかったはずです。それなのになぜイエス様は、暗くて、汚くて、冷たい飼い葉桶に寝かせられたのでしょうか。
それは、いと高き神の御子が、私たちを救ってくださるために、一番低い、暗いこの世に平和を与えてくださるためです。
フィリピ2:6~11
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
イエス様は、罪を一度も犯したことのない、聖い神の子です。そのお方が、私たち救ってくださるために、暗いこの世に来てくださったのです。
今年は、3月11日に東日本大震災が起きて、地震や津波だけではなく、原子力発電所の事故などで、日本が試みられた時代でした。 宮城復興支援ボランティアで、一軒一軒津波の臭い消しのために、EM(有用微生物軍)を散布させていただきました。 その時に、ボランティアセンターのある岩沼市下野郷で、ある方の家をお訪ねしました。その時に一緒に行ってくださった町内会長さんが、「この人は、震災の時大変だったんだ。」とその方のことを話してくださいました。 実は、この方は、消防士をしておられて、震災が起きた次の日救出のために出かけられたのです。次の日は雪が降りましたが、その雪の中を、救出のために、泥だらけの瓦礫の中を、一列になって探し回ったというのです。 最初は、生きた人を救い出し、次に遺体を瓦礫や泥の中から、何人も見つけ出したことをお聞きしました。 そして、町内会長さんは「だから、この人の家に足を向けて寝られないんだ。」と言っておられました。
この話しをお聞きしながら、イエス様の姿を思い浮かべました。 そして、泥まみれになって人を救い出したあの消防士のように、イエス様は、飼葉桶に寝かせられ、人の苦しみや試練をすべて経験され、すべての人の罪の身代わりに十字架に架かって死んでくださったのです。 そればかりか、三日の後によみがえられて、今も、私たちと共にいて、私たちを愛し、私たちにまことの平和を与えてくださるお方です。
(3)平和の福音を伝えた羊飼い
すると、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って急いでベツレヘムへ行きました。そこで、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝かしてある乳飲み子を捜し当てたのです。
羊飼いが、救い主にお会いした時、どんなに嬉しかったことでしょう。羊飼いたちは、天使が語ったことを人々に話しました。そして羊飼いたちは、心からの、神をあがめ賛美をして、心からの礼拝を献げたのです。 これが、最初にクリスマスに献げられた礼拝です。 マタイ2:11には、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」と書かれています。東方の博士たちは、宝の箱を開いて、黄金、乳香、没薬という宝物を献げましたが、貧しい羊飼いたちには、何もささげるものはありませんでした。 しかし、羊飼いは、イエス様の御降誕の時、一番最初に礼拝を献げたのです。この真心からの礼拝を、神様は、何よりも喜ばれたのではないでしょうか。
今日も、クリスマスの礼拝を献げるために、雪の降る寒い中、愛する方々が来られています。 小国フォルケ・ホイスコーレから、武先生ご夫妻、また、宮城南部復興支援ボランティアセンターから木内先生ご夫妻が来られています。 そして、ここにおられる一人一人が、主の御降誕を覚えて、礼拝を献げています。この礼拝ほど、神様が喜ばれることはありません。どんな贈り物よりも、どんな捧げ物よりも、礼拝にまさるものはありません。
そして、羊飼いたちが、イエス様にお会いして、その帰り道のことが、20節に書かれています。
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
天使が、羊飼いに告げたことは、すべてその通りでとした。そこで、羊飼いたちは、神様を心から礼拝し、賛美をしながら帰って行ったのです。 私達も、今日クリスマス礼拝をささげ、それぞれの場所へ帰っていこうとしています。私達が帰る場所、それは、神様が遣わしてくださる場所です。その帰り道で、神様をあがめ、心から賛美して、この御降誕を一人でも多くの方々にお伝えしましょう。
今日も、大雪になりましたが、昔、イギリスでの事です。雪の降りしきる、ある日曜日のことでした。一人の少年が、いろいろなことで悩んで、教会の後ろの席に、暗い顔で座っていました。いつもは、隣の町の教会に行くのですが、大雪のためお母さんに勧められて、その町の、小さな教会に行ったのでした。 その会堂には、わずか10数名、それに牧師がいないので、長老の一人が牧師に代わって説教をしました。もちろん、組織だった説教らしい説教ではありませんでした。でも、一人一人に向かって一つの聖書の御言葉を真剣に語りかけたのです。それは、イザヤ書45章22節です。「地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」 ここに、「わたしを仰いで、救いを得よ。」とありますが、この長老は、繰り返し繰り返し、「神を見上げなさい。」「神を見上げなさい。」と語りかけました。この御言葉にこの少年は、心捕らえられたのです。そして、この時に十字架にかかってくださったイエス様を心の中に受け入れたのです。 この時に、彼の人生が変わりました。それまでは自分のことや、回りの状況を見つめて、心が暗くなっていました。ところが、この時から神様を見上げて心が喜びで満たされたのです。 彼は、その喜びを他の人にも伝えるようになりました。そして、やがて牧師になり、イギリス全土のリバイバルのために用いられたのです。そればかりか全世界に福音を伝え、また多くの本を書いて人々をキリストに導いたのです。彼こそが、あの有名なスポルジョンです。 それは、あのときに神様を見上げたときから始まったのです。
最後に14節を読みましょう
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
私たちは、クリスマスを迎えました。そして、この礼拝の場から、それぞれの場所へ帰ろうとしています。その場所で、羊飼いたちが帰りながら、平和の福音を述べ伝えたように、私たちも、「地には平和御心に適う人にあれ。」と平和を持ち運ぶお互いでありたいと思います。