今日は「気前のいいぶどう園の主人」という題にしました。そこで、「気前のいい人」とはどのような人かなと考え見ました。そこで私が思い出したのが、上野のアメ横の販売人でした。 わたしは、高校受験の帰りにはじめてアメ横に行きました。その時の活気を忘れる事が出来ません。高いところに立ったお兄ちゃんが、手の上に、気前よく、次々におまけを重ねていくのです。 そして、最後は「え~い。持ってけドロボウ。」と言うと、次々にお客さんが手を挙げて「買った」と言ってお金を出すのです。 その気前の良さに、圧倒された経験をしましたが、神様はもっと気前のいいお方です。私たちを愛してくださり、最高の物を、気前よく与えてくださるお方です。
今日の中心の御言葉は15節です。
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」
今日の聖書の箇所は、ぶどう園ではたらく労働者のたとえ話です。 ここには、朝の6時から働いた人と、9時から働いた人、12時から働いた人、午後の3時から働いた人、そして5時から働いた人の5種類の労働者のことが書かれています。 このたとえ話は、何か特別な話しではなく、このようなことは、パレスチナではある時期によく起こったそうです。 パレスチナでは、ぶどうが熟すのが、9月頃です。そして、その後すぐに雨期に入るので、雨が降る前にぶどうを取り入れなければ、ぶどうが腐ってしまいます。そこで、収穫期には一刻を争うので、人手が必用で、たとえ一日に一時間しか働けない人も大歓迎されたのです。
さて、一日の仕事が終わりました。ぶどう園の主人は、まず、5時から来た人から賃金を支払いました。労働者が見守っていると、5時から働いた人たちが、何と1デナリオンもらいました。1デナリオンというのは、一日分の給料です。 次に、最初に雇われた人たちが、やって来ました。彼らは計算をしたに違いありません。一時間で1デナリオンであれば、12時間働いた労働者達はいくらですか?12デナリオンという計算になります。 しかし、彼らが受け取った金額は、5時から働いた人たちと同じ1デナリオンでした。 そこで、彼らは主人に不平を言いました。
10~12節
「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
そこで、ぶどう園の主人は、13~15節でこう言います。
「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
このたとえ話から3つのことを学びたいと思います。
(1)イエス・キリストの警告
イエス様は、このたとえ話を通して、いくつかの警告を与えています。
①ユダヤ人に対する警告
ユダヤ人達は、自分たちが神様から選ばれた選民であるというプライドがありました。しかし、それは、神様がユダヤ人を通して、全ての人々に祝福を与えるために、まず、ユダヤ人を選ばれたのです。 それは、神様が、アブラハムを選ばれた時に、創世記12:1~2おっしゃられた御言葉に表されています。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」
しかし、ユダヤ人達は、そのことを忘れて、自分たちこそがアブラハムの子孫だと言って、誇り、ユダヤ人以外の異邦人を軽蔑していたのです。 しかし、イエス様は、このたとえ話を通して、最初に選ばれたユダヤ人も、後から救われた異邦人も同じ祝福の中に置かれているのだから、異邦人を裁いてはいけないということを警告しておられるのです。
②ペトロに対する警告
19:27「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
ペトロは、ここで言っている通り、イエス様に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」(マタイ4:19)と言われた時、すぐに、網を捨てて従いました。ペトロは、一番最初に、何もかも捨ててイエス様に従ったのです。そこで、ペトロは人間的な計算をしてしまいます。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
このたとえは、そのように、使徒たちが自分たちは一番最初からイエス様に従って奉仕をしてきたのだから、神の国では、他の人たちよりも多くの報いを受けることが出来るだろうという思い上がりを防ぐために語られたのです。
この御言葉は、私たちにも語られている御言葉ではないでしょうか。 人と比べて、自分の方が多く奉仕をしているとか。熱心に奉仕をしていると思い上がって、主に対してつぶやかないように気を付けなければなりません。 また、長い間教会にいる人の中に、教会を自分たちの物のように思って、何でも自分の思い通りにしようとする人たちがいますが、それは、大きな間違いです。教会はイエス・キリストを頭とするかも神の教会です。 ですから、主のためにどんなに多くの奉仕をしたとしても、また、どんなに熱心に奉仕をしたとしても、私たちは、なすべき事をしただけですと告白しなければならないのです。ルカ17:10に「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
主に心からお仕えして、それが終わったならば、へりくだって、主に栄光を帰す者とさせていただきましょう。
(2)神様の一方的な恵み
14~15節「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」
このたとえ話の中で、6時から働いた者も、9時から働いた者も、12時から働いた者も、3時から働いた者も、そして5時から働いた者も同じように、一デナリオンいただいているということは、私たちに取って、本当に大きな慰めではないでしょうか。そして、神様が私たちに与えてくださる一方的な報いとはなんでしょうか。
ローマ6:23「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
私たちは罪人ですから、罪を持ったままでは、天国に行くことは出来ません。「罪が支払う報酬は死です。」 しかし、神様は、一方的な恵みとして、私たちの独り子であるイエス様を与えてくださいました。そして、そのイエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架に架かってくださいました。そのイエス様を信じるだけで、すべての罪が赦されて、永遠の命が与えられるのです。 それは、いつでもです。イエス様を信じるのに遅すぎることはないのです。
私たちが、人生の中でいつ救われたとしても、気前のいい神様は、一方的な恵みを与えてくださるということです。 幼い頃から、親と一緒に教会に来ていた人も、感動しやすい青年時代に救われた人も、分別ざかりの壮年も、また子育ての忙しい中で救われた婦人も、日かげの傾く老年期に救われた信仰に入った人たちも、すべての人が、神様の御前には高価で尊いのです。 ラビの言葉に「ある者は一時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る。」とあります。そして、それは、決して遅すぎることはありません。全ての年齢層に与えられている神様からの一方的な恵みです。
ヨハネの黙示録に記されている聖なる都には、12の門があります。 東の門は、日の出の方向を向いていて、ここからは、新しい人生の暁にいる人たちが入ってきます。そして、西の門は、日没の方向を向いていて、ここからは、老人が入ってきます。そのように12の門が用意されて、様々な年齢層の人たちに、その門が開かれているのです。 そして、その入る時期は違っていても、その門をくぐる人たちは、神様の御前にかけがえのない尊い人たちなのです。
1980年11日~23日まで、ビリー・グラハムのクルセードが、アメリカのネバダ州ラスベガスのコンベンションセンターで行われていました。 その翌日、そのネバダ州にあるMGMグランドホテルに火災が起きたのです。炎は瞬く間にホテル中に広がり、死者は84人にもおよびました。救助された人たちは、次々にコンベンションセンターに運ばれてきました。 ビリー・グラハムは、昨夜まで福音を語っていたセンターに駆けつけて、被災者たちを慰め、励ましていました。その時です。1人の女性が涙をためて、ビリー・グラハムのところにやって来たのです。「私は、昨夜、最後の集会に参加しました。私はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れなければならないと強く感じましたが、それを決断することが出来ませんでした。今、あの大火災からかろうじて救われて、決断の時を失うべきではないと深く反省をしています。ここでイエス・キリストを私の救い主として告白していいでしょうか。」 こうして、彼はイエス・キリストを救い主として、その日に受け入れたのです。
イエス様を信じるのに、遅すぎることはありません。しかし、もしその日を逃してしまったら、大変なことになってしまいます。 私たちの神様は、5時から働いた男にも、最初から働いた人と同じ給料を与えてくださる「気前のいい主人です。」 みなさんが、人生のどの部分を歩んでおられるかは知りませんが、いつでも、どこでも、救いのみとは開かれています。手遅れになる前に、イエス・キリストを信じて、「気前のいい主人」から、永遠の命の約束をいただこうではありませんか?
(3)奉仕をする者の動機
6~7節「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」
ぶどう園の主人が5時頃に、市場に行ってみると、一日中そこに立っていた人たちがいました。その人達は、どのような気持ちで、そこに立ち続けていたのでしょうか。 彼らは、働きたくなくてブラブラしていたのではなかったと思います。力も才能もあったに違いありませんが、雇ってくれる人がいなかったのです。その姿を見て、ぶどう園の主人は、気の毒に思い、仕事を与えたのです。 この5時から雇われた人たちは、どんなに嬉しかったことでしょう。もう、日暮れまではあと一時間、もう仕事をもらうことはできないだろうとあきらめかけていたのではないでしょうか。 その時に、ぶどう園の主人がやって来て、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」というのです。嬉しくて、飛び上がるような気持ちでぶどう畑に行き仕事をしたのではないでしょうか。そして、ぶどう園の主人は、そのように喜んで働いている姿を見て喜んだに違いありません。
ある人が「神の前には、すべての奉仕が美しい価値を持つ。」と言いました。 私たちが、行う奉仕、それは、目立つ奉仕もありますが、人目に付かない、もしかしたら、誰も気がつかないような奉仕もあります。しかし、神様はすべてをご存じです。「神の前には、すべての奉仕が美しい価値を持つのです。」
大切なのは、奉仕の料ではなく、その質です。どれだけ、神様と人とに対する愛です。
豊かな人から何万という贈り物をいただくことは嬉しいものです。 けれども、たとえ、お金をかけなくても、子どもたちからもらう、心のこもったカード一枚は、何よりの宝です。神様は。その奉仕の量の多少にかかわらず、私たちの献げた奉仕のすべてを喜んで受け入れてくださるのです。
あのレプタ2つをささげたやもめがそうでした。神殿で金持ちがたくさん献金をささげる中で、あのやもめはたったレプタ2つしかささげることが出来なかったのです。けれども、イエス様はその心を見られて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」
とおっしゃったのです。神様は心をご存じです。そして、私たちが真心からささげる献げものを喜んで下さるのです。
私たちも信仰生活の長さや、それぞれに与えられた賜物、ささげてきた奉仕など、それぞれが違います。しかし、それらの量が大切なのではなく、どのような動機で、神様に仕え、人に仕えてきたかが問題なのです。 私たちが、救われた喜びに満たされて、また、神と人とに仕えることの出来る喜びに満たされて、心から私たちの奉仕を献げさせていただきましょう。
この物語の労働者を、はっきり二つに分けることが出来ます。 最初の人たちは、ぶどう園の主人と契約を結んでいました。2節「主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」
彼らは、賃金のために働き、彼らの不満があらわすように、彼らの関心は、仕事をしてできるだけたくさんのお金を得ることでした。 しかし、後から雇われた人たちは、契約をしたわけでもなく、ただ、働きたくて働いたのです。賃金とか、支払いとか、契約とか、約束とか言う物はなく、ただ働かせてもらうことが嬉しくて、後のことは主人に任せていたのです。
ここに基本的な違いがあります。 クリスチャンの第一の関心はお金の報酬ではありません。 ペトロの質問は、19:27「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」でした。 しかし、私たちクリスチャンの働きは、働く喜びのため、神と人とに仕える喜びのためです。
16節にはこうあります。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
この世で多くの報いを受けているものが、神の国で一番低い者とされるのは、その人がこの世の報いだけを求めているからです。 それとは逆に、この世で貧しいものが、神の国では偉大な人となる場合もあります。その人は、神様に救われたことを喜び、神と人とに喜んで仕えたからです。 報酬を求める者はそれを失い、報酬を忘れるものが、これを得ることが出来るのです。 神と人とから報酬や賞賛を受けるためではなく、神様から選ばれた喜びに満たされて、心から神様のために働かせていただきましょう。