今日は、松波チャペル感謝記念礼拝です。二年前イースターに開所式を行った、松波チャペルが今日の松波ホサナ、イブニングワーシップで、礼拝が最後になります。この二年間与えられた恵みを覚えて、心からの感謝を主にお献げしましょう。
今日の中心の御言葉は20節です。
マタイ17:20b。
「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
17章1~13節には、イエス様が、神様との交わりの中で、太陽のように光り輝く変貌山の出来事が記されています。
山の上でイエス様は、モーセやエリアと出会い、イエスさま御自身も光り輝いて、まさに天国をかいま見るような素晴らしい経験をされたのです。
ところが、その頃地上では、大変な事が起きていました。
イエス様と3人の弟子たちとが山から降りると、一人の男が、弟子たちに自分の息子の病気を治して欲しいと頼みに来ましたが、弟子たちはその病気を治す事が出来ずに大変な騒ぎになっていました。
この御言葉から3つのことを学びたいと思います。
(1)弟子たちの不信仰
イエス様が、その病気を癒されると、弟子たちは、ひそかにイエス様のもとにやってきて「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出す事が出来なかったのでしょうか。」と聞きました。
16節をご覧ください。
「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
弟子たちは、この時、てんかんの子供の病気を治すことが出来なかったのです。どうして弟子たちはそれが出来なかったのでしょうか。
その事について17節でイエス様は、弟子たちの信仰を嘆いておられます。
「イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
マタイによる福音書10章1節には、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」 とあるように、この時弟子たちは、悪霊を追い出す権威が与えられていたのです。それにもかかわらず、弟子たちは確信をもってその権威を用いようとしなかったのです。
イエス様が、弟子たちにこの権威を与えられていなかったのであれば、弟子たちは悪霊を追い出せなくても仕方がなかったでしょう。けれども、彼らは実際に、悪霊を追い出す力が与えられていたのです。神様から、権能を授かっていても、それを信じて用いようとしないのは不信仰です。
私たちにも、神様は、様々な賜物を与えてくださっています。しかし、その信仰を用いようとしないならば、それは、不信仰です。
そして、その不信仰な姿を見て、17節で、弟子たちの不信仰を嘆かれたように、
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」 と嘆かれるのではないでしょうか。
けれども、17節の御言葉は、これで終わっていません。その後のイエス様の言葉に、非常に慰められるのではないでしょうか。
17節後半をご覧ください。
「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
悪霊を追い出す権威が与えられていたのに、不信仰によってそれを用いることの出来なかった弟子たち、てんかんの子供を癒すことが出来なくて、醜態をさらしてしまったのですが、その弟子たちにイエス様は「お前はもう駄目だ」とは言わずに、弟子たちの信仰を戒められた後で、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 とおっしゃったのです。
そして、弟子たちがイエス様のところに連れて行くと、18節には
「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。」と書かれています。
私たちの信仰は、本当に不信仰で、弟子たちのように失敗の連続であるかも知れません。けれども、私たちも、この弟子たちのように、救われていない人や病んでいる人をイエス様のもとにお連れすることは出来るのではないでしょうか。
そして、遣わされた私たちがどんな失敗をしてしまっても、最後は、遣わされたイエス様が最終的な責任をとってくださるのです。その主イエス様が、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 と招いておられます。
「その子」とはみなさんにとって誰でしょうか。愛する家族でしょうか。親戚でしょうか。友人でしょうか。ご近所の方でしょうか。「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい。」とイエス様は、語っておられるのではないでしょうか。この主イエス様の御言葉に従って、これからも周りの病んでいる人、まだ、救われていない人達を一人でも多くイエス様のもとにお連れさせていただきましょう。
そして、21節には✝の印が書かれていますが、ここには、
「(†底本に節が欠落 異本訳)しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」
と書かれています。
「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」
私たちは、自分の力で神様の御業を行う事は出来ません。しかし、全能の神様に祈るなら、神様御自身が人知を超えた素晴らしい御業を成して下さるのです。
私は、最初新会堂候補地の許可が降りなかった時、祈りが足りなかったことを示されました。そこで、悔い改めて、祈りによって神様の御業を見せていただくようにと示されたました。
この2年間は祈る事を教えられた2年間でもありました。もし、すんなり市の許可が降りていたら、こんなに祈る事がなかったと思います。しかし、この2年間を通して、自分の力で伝道するのではなく、主により頼み、早天祈祷会や連鎖祈祷会、半徹夜祈祷会などで熱心に祈ることによって、神様の御心をその都度示していただき、多くの恵みをいただいてきました。
「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」
自分の力によるのではなく、神様に依り頼んで、祈りによって、主の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
(2)からし種一粒ほどの信仰
イエス様が、この子供から悪霊を追い出されると、弟子たちはひそかにイエス様のもとに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と聞きました。
それに対して、イエス様は20節でこう答えておられます。
「イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
イエス様は、ここで、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
とおっしゃいました。からし種一粒というのは、もっとも小さいものを表す言葉です。そして、山を動かすというのは、文字通り山を動かすというのではなく、この弟子たちの手に負えなかった「大きな困難」をあらわしています。もし、彼らにからし種一粒ほどの信仰があるなら、「大きな困難」も山が動くように解決されるのです。
信仰というのは、量が問題なのではなく、質が問題なのです。「信仰が薄い」というのは、量的に少ないことをあらわしているのではなく、質の濃さが足りないことをあらわしているのです。つまり、半信半疑の信仰です。そのような半信半疑の信仰では、何の役にもたちません。
神様がそうさせてくださるなら、どんなことでもできると無条件に信じるという純粋で単純な信仰こそが、本当の信仰なのです。
聖書の中には、そのような「からし種一粒ほどの信仰」によって、山を動かすような、不可能を可能にした人達のことがたくさん書かれています。
oアブラハムのことを考えて下さい。あの「信仰の父」と呼ばれているアブラハムは最初、カルデヤのウルという町で、たった一人の真の神を信じている人でした。まさに、からし種一粒ほどのアブラハムの信仰を祝福の基として用いられたのです。
oまた、あのダビデも、7人兄弟の末っ子で、羊飼いをしていた子供に過ぎませんでした。でも、神様はその信仰を見られて、イスラエルの王として用いられたのです。
o5000人を養って、残りのパンを集めると12籠に一杯になった奇跡は、一人の少年が、5つのパンと二匹の魚をささげたことから始まりました。
oまた、マタイによる福音書18章3節でイエス様は、
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言っておられます。幼子のように、たとえ小さくても、純粋で活きた信仰こそが大切なのです。
そして、そのようなからし種一粒ほどの信仰があるならば、
「この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」とおっしゃるのです。
今日は、松波チャペル記念感謝礼拝ですが、先程、映像やお証しを通して2年間を振り返ってたくさんの恵みを数えました。
一番素晴らしい事は、2年間という限られた期間でしたが、教会のない山形東地区に松波チャペルが建てられ、そこで礼拝が行われ、ホサナで児童伝道が行われ、伝道をすることが出来たことです。
そして、この二年間、神様は不思議なほど、多くの助け手を送って下さいました。
三浦綾子読書会の森下辰衛先生、オンヌリ教会のHAPPY TOGETHER、MEBIGの山 哲平先生。そして辛島道也先生、黒木安信先生、吉田先生ご夫妻の率いる北海道教区宣教チームなどをお送りくだり、多くの特別伝道集会が行われました。また、小西優子先生に来ていただき、賛美イブニングワーシップも行われました。
去年の夏は猛暑でしたが、オンヌリ教会宣教チームの方々と一緒に、脱水症状にならないようにとペットボトルに水を持って、チラシやマグネットを配りました。
また、去年は特別に、北海道教区宣教チームや神学生も送って下さってチラシ配布が行われました。
また、地域に根ざした教会を目指して、老人ホームに慰問にも行かせていただきました。そして、去年の夏に行われたパソコン教室。キッズ・ブラウンの英会話教室も始まりました。そして、秋には松波フェスタが行われ、100人以上の方々が集われました。
クリスマスイブ礼拝も行われました。山形南部教会の歴史の中でこの2年間ほど、外に向かって伝道をした年はなかったのではないでしょうか。
マタイ17:20b。
「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
神様は、この2年間私たちのからし種一粒ほどの信仰を用いてくださって、山形東地区に御言葉の種を蒔いてくださいました。残念ながら、この2年間では、刈り取りの時を迎えることは出来ませんでしたが、やがて時が来ると蒔いた種は必ず成長し、豊かな実を結ぶことを信じて、なお御言葉の種を蒔かせていただきましょう。
(3)死んで結ぶ実
ヨハネ12:24
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
イエス様がおっしゃった通り、種は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。けれども、その種が地に落ちて、死ぬと、やがて時が来ると芽がでで花を咲かせ、多くの実を結びます。
この御言葉通り、イエス様御自身が、一粒の麦になってくださって、命を捨ててくださいました。その信仰によって、全人類に救いの道が開かれたのです。
私たちの人生には、計画通りにならないことや、願い通りにならないことがあります。
今日は、松波チャペル記念感謝礼拝ですが、今日のイブニングワーシップが松波チャペル最後の礼拝になります。
どうして、祈り続けてきたのに、また2年間伝道をしてきたのに、神様は道を開いてくださらなかったのでしょうか。それは、今は私たちにも解りません。
そのようなときに、私たちは自我に死んでいるかどうかが問われます。
イエス様が、十字架にかかられる前、ゲッセマネの祈りで、
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 と祈られました。(マタイ26:39)しかし、その後でこう祈られたのです。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
イエス様にも、御自分の願いがありました。しかし、その願いを何が何でも通すというのではなく「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られたのです。
私たちにも自分の計画や願いがその通りに進まないことがあります。しかし、その時に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と主の御心に従うなら、神様は素晴らしい御業を成して下さるのです。
昨日、福島原発で、電動パイプを接続する作業が行われました。このプロジェクトの担当をされたのが、「佐藤なおよし」さんというクリスチャンの方でした。このプロジェクトが成功すると危機的状況が180度変われ可能性があるとがあります。どうぞお祈り下さいとメールが送られて来ました。多くの人の祈りの中で作業が行われ、彼は大変な危険をおかしながら、この作業を成功させたのです。
この日本の危機的な状況の救いのために、あえて、クリスチャンが用いられたことは、本当に感謝です。
このように、命がけで、人の救いのために働いておられるクリスチャンがたくさいおられます、
最後に、森 裕理さんのお証をしたいと思います。
森裕理さんは、もとNHKの歌のお姉さんとして有名ですが、昔は、劇団四季のオーディションに合格したり、数々のミュージカルの主役をこなす有名な歌手でした。
そして、当時は、この世の成功を必至になって求めていました。
ところが、ミュージカルの主役が決まって元気にレッスンをしていた時に、突然声が出なくなってしまったのです。「あっ」と言う声も出なくなって、声を失ったような気がしました。
その時に、森裕理さんは、初めて、自分の力によって頑張って、自分だけで生きていると思っていましたが、そうではなくて、神様の愛が生かしてくださっているということに気がついたのです。
その時から、自分のためではなく、神様を心から賛美するようになりました。
ところが、1995年1月17日に大変なことが起きました。阪神淡路大震災が起こり、大切な弟が亡くなってしまったのです。それは、大変な悲しみでした。けれども、そのような耐えられないような悲しみの中にも、最善をなしてくださる神様のご計画があったのです。
森裕理さんは、自分の愛する弟を失って深い悲しみの中にありましたが、今自分と同じように苦しんでいる人達のために歌を歌おうと決心をしました。
そして、その年の3月から「希望の翼コンサート」をはじめたのです。その働きは、全国に広がっていき、160回のコンサートが開かれ、多くの人を慰め、癒したのです。
被災者の人達は、苦しみのどん底の中で、なかなか心を開くことが出来ませんでしたが、森裕理さんが、弟を失ったことで、自分と同じ苦しみや痛みを知っているということで、心を開き、多くの人々が慰めと生きる力を得ることが出来たのです。
神様には、無駄なことはありません。そして、今は解らなくても、必ず最善成してくださり、豊かな実を結ばせてくださるのです。
マタイ17:20b
「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
私たちの生活の中は、様々な課題があります。大きな困難が襲ってくるかも知れません。それが、大きすぎて山のように見えて、不可能だと思うようなこともあるかも知れません。けれども、からし種一粒ほどの信仰があるならば「あなたがたにできないことは何もない。」のです。山が動くのです。
わたしたちの信仰は、からし種のような小さな小さな信仰です。しかし、神様は、その信仰を用いて、素晴らしい御業を成してくださるお方です。
私たちも「からし種一粒ほどの信仰」イエス・キリストを信じる、純粋で単純な活きた信仰をもって主にお従いしましょう。
山形南部教会は、神様がそのからし種を成長させてくださり、やがて花を咲かせ、多くの鳥を宿らせるような素晴らしい木になります。
この御言葉を信じて、神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。