まず初めに2年間、松波チャペルでホサナやイブニングワーシップ、その他集会を通して神様が恵みを与えてくださったことに感謝します。
この度、あの場所での新会堂建築は出来なくなりました。しかし、それでお終いではありません。まだまだ継続中です。いや実行中と言った方が合っているでしょう。
なぜなら、私たちの目的は教会を建てることではなく、福音を宣べ伝えることだからです。
今年の年間聖句を見て、さすが神様と岡先生だと思いました。
コリントⅠ 3章16節
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
私たちの体こそが神殿であり、教会なのです。私たちが松波に立った瞬間に、そこは教会となるはずです。松波チャペルという一つの手段が無くなっただけで、目的である伝道が出来なくなったわけではありません。
では、これから私たちは何をしなければいけないのでしょうか。
簡単です、伝道を続けるのです。
その手段は人によってさまざまでしょう。
私はお友だち伝道のためにホサナの教師として立てられています。記憶に新しいですが「松波フェスタ」では壮年会や婦人会など、松波地区の人たちに松波チャペルに足を運んでもらえるように企画をしました。各会にこだわらずとも「まきば」などでの伝道があります。また、祈り、献金などで支えてくださる方も必要です。
一人ひとりが神様に何を示されたにせよ、大切なことがあります。それは、喜んでやるということです。
私の大好きな御言葉です。
ネヘミア記8章10節の後半
「悲しんではならない、主を喜び祝うことこそあなたたちの力の源である」
松波地区での伝道を振り返ったときに、大変だったとつくづく思います。
私は当初、松波ホサナに行くのが億劫でした。そこでは毎週、お友だちによる私への殴る蹴るの凄惨な(笑)現場が待っていたからです。
聖志や詩音は見て見ぬ振り。孤立無援でした。
唯一助けてくれたのは瑞紀ちゃんだけです。
カラーボールを使ったゲームをしようとすると、ルールは無視、決まって的は私となります。
あのカラーボールがもしも石だったらと思うと、ステファノの気持ちがちょっと分かりました。
では、なぜ私はそんな思いをしてまで続けているのか。
まず、神さまからの使命であるからです。
また、苦しみや悩みはありますが、それ以上の恵みがあります。
そして、ホサナのお友だちが神様を真心から礼拝し、喜んで賛美を捧げ、真剣に祈る姿を見たいからです。あの笑顔が忘れられないからです。
この3つがあるから、私は悩んでも苦しんでも喜んで伝道が出来るのです。
ただ、伝道をするというのは生半可なことでは出来ません。
私は伝道でのつまづきをきっかけにイエス様に背を向けました。
こうして立ち返った後でも、友人に伝道をすることがなかなか出来ませんでした。
私にカラーボールを投げていたお友だちは1ヶ月ほどすると、突然来なくなりました。
時々、姿を見かけることがありますが、顔は暗く、私を避けるようにして消えていきます。
私の愛が足りなかったのか、イエス様のことをしっかりと伝えられていたのか、と悩みます。
ですが最近、私がホサナの教師を始めてすぐのころに来ていたお友だちが、10ヶ月ぶりくらいにホサナに来ました。
神様は松波のお友だち一人ひとりのことを変わらずに愛してくださっていて、私が諦めていても神様は決して見捨てられないと確信しました。
若い世代が成長しているというのは、とても喜ばしいことです。赤ちゃんのころから知っている彼らが、今や南部教会の原動力として働いています。
では、彼らと同じように小さいころから教会で育ってきた私と彼らでは、いったい何が違ったのでしょうか。
それは、日々訓練されているということです。
4月からは活動休止期間ではありません。訓練期間です。
やがてやってくる新しい伝道のときまで、成長しなければいけません。
特にホサナは。ホサナ教師・スタッフは私が目標とするところの半分にも達していません。4月からビシビシ鍛えていこうと思っています。
が、私たち大人はどうでしょうか。私たち大人こそ成長し、若い世代の模範になるできなのではないでしょうか。
天に昇られた信仰の先輩たちのように、生涯十字架の道を走り続けたパウロのように。
今は眠るときではありません。目を覚まして、信仰を鍛える時期です。
私は悲しいことがあります。
それは、この山形南部教会の気持ちがバラバラになっている気がしてならないのです。
これは、おそらくイブニングワーシップで語られた御言葉だと思います。
ヨハネによる福音書17章11節
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」
イエス様は逮捕される前にこう祈り、そして今も私たちのために祈っていると思います。
色々な考えがあって良いでしょう、それがバラエティー豊かな教会になるのならば。
しかし、そのためには同じ霊で満たされ、志を一にし、祈りと賛美の声を一つにしなければいけません。
東北太平洋沖地震で津波の被害を受けた宮城県多賀城市に住んでいる友人がいます。先日、彼からのメールに「毎日決まった時間にみんなで祈ろう」とありました。
彼とは教団が違いますが、彼は祈りの輪をたくさんのクリスチャンにつなげていきたいと願っています。現在はツイッターやフェイスブックなどのSNSがあるので、この祈りは世界に波及するでしょう。現に、韓国のオンヌリ教会や世界では日本のために祈りが献げられています。
例え教団が違っても、国や人種が違っても私たちは一つになれます。
ですから、私たち南部教会に出来ないわけがありません。
今だからこそ、イエス様によって一つになりましょう。
喜びと使命を握りイエス様によって心を一つにして、十字架の道をみんなで走り抜きたいと願っています。
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