今日は、岡 恵美姉の証しを感謝します。神様が、大切なお取り扱いをくださって、新しい歩みへと導いてくださることを感謝しています。
昨夜、サッカーのアジアカップが行われ、1-0で日本がオーストラリアに勝って優勝しました。日本は大変な戦いを、戦い抜いてきましたので、歓声が上がり、選手や監督、サポーターも抱き合って喜んでいました。
私たちも、この世の戦いには、様々な戦いがありますが、最後は「共におられるイエス・キリストの十字架」によって勝利が約束されています。その神の霊に満たされて、主に向かって心からほめ歌を歌いたいと思います。
今日の中心の御言葉は、18節、19節です。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
今朝は、エフェソ5:6~20を読んでいただきましたが、ここには、悪い時代のことにに心を満たされていた人と、霊に満たされた人の姿が、対象的に書かれています。
(1)悪い時代のことに心を満たされていた人
15節
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」
ここに「今は悪い時代なのです。」とありますが、この時のエフェソの教会の人達は、どのような時代を生きていたのでしょうか。
エフェソという町は、エーゲ海の東岸にある小アジアの町の一つで、貿易港として栄えていました。その地方の人々はほとんどが商人で、社交性に富み、海上貿易の好景気によって彼らは豊かな生活をしていました。
また、このエフェソの地は、ぶどうの産地でありました。多くのぶどうが作られ、市場には、ぶどうか山積みにされていました。そのような地域ですから、当然そこにあらわれるのが、お酒です。
そこに集まる人達は、酒を好み、酒盛りが行われ、酒による乱行も毎晩のように行われていました。また、飲む、打つ、買うという3つの代表する悪行か、鎖のようにつながって行われていました。
そして、町の真ん中には、酒神バッカスが、あのギリシャの女神アルテミスと張り合うように、まつられていました。
そして、エフェソの多くの人々が、酒を飲み快楽を求めることによって、心を満たそうとしていたのです。
そのような環境の中にあるエフェソの教会の人々に対して、19節でパウロは「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」と言っているのです。
お酒というのは、確かに、嫌なことや、苦しみや悲しみを忘れさせてくれるかも知れません。また、一時的な喜びや楽しみがあるかも知れません。けれども、人間の心の本当に深いところを満たすことは出来ないのです。
もちろん、それは、酒だけではありません。この世の暗闇の業や、悪い時代のもので、私たちの心を満たそうとするなら、「それは身を持ち崩すもと」だというのです。
だから、そのような空しいもので心を満たすのではなく、もっと素晴らしい、永遠に変わらないもので心が満たされることを求めなさいと言っているのです。
(2)霊に満たされた生活
18,19節
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
ここに「むしろ、霊に満たされ」とパウロは、勧めています。
この「霊」というのは、三位一体の御霊のことです。ということは、私たちを造って下さったお方です。また、私たちの救いのために、十字架にかかって死んで下さるほどに私たちのことを愛して下さっているお方です。そのお方によって心か満たされたらどうでしょうか?
それは、最高の喜び、最大の恵みです。そして、決して失われることのない永遠の宝です。
パウロは、Ⅱコリント4:7でこう言っています。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
パウロは、自分のことを壊れやすい、弱く、もろい土の器に例えていますが、パウロが土の器であったら、私はいったい何だろう?神の器か、葉っぱの器でしょうか。とにかく、私たちがどんなに弱く、もろくても、私たちの内に、霊が満たされるとは、何という恵みでしょうか。
私たちは、パウロが勧めているように、この世のもので、心が満たされる生き方ではなく、霊に満たされる生活を求めていきましょう。
そして、このエフェソ5:6~20節には、霊に満たされた人となるために3つのことが命じられています。
①光の子として生きなさい
まず、光というのは、暗闇にある物を明らかにします。
10~13節をご覧下さい。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」
どうでしょうか。悪いことをする人は、暗闇を好みます。できるだけ、人目を避けて人に知られないように悪いことを行います。
けれども、それらの罪を、神様は全部ご存じなのです。そして、どんなにうまく隠しても、やがて、光にさらされて、明らかにされる時がやってくるのです。
私たちは、光の中を歩んでいるでしょうか。
わたしたちがいつ、神様の光に照らされても良いように光の中を歩ませていただきましょう。
そして、素晴らしい恵みが、8節に書かれています。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
ここで、パウロは自分の努力や意志で、光の子として歩みなさい。と言っていません。そんな人間の努力や意志は、本当に弱く、もろいものであることをパウロは知っていたのです。
そうではなく「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」
と言うのです。
ここには、努力して、難行苦行を積んで「光になりなさい」とは、書いていません。「光となっているのです。」と書かれています。ここに、素晴らしい恵みが表されています。
「私たちは、以前は暗闇の中を歩んでいました。けれども、イエス様は、そんな罪深い私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったのです。そのイエス・キリストを信じる信仰によって、もうすでに「今は主と結ばれ、光となってる」のです。
なぜなら、イエス様御自身が、まことの光だからです。
イエス様を信じる私達の心の中に、「まことの光である」イエス様御自身が生きておられます。だから、私たちはもうすでに、光となっているのです。だから「光の子らしく歩みなさい。」と言っているのです。この主と結ばれている恵みによって、光の子らしく歩ませていただきましょう。
②心からほめいなさい
18~19節
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
今日も、山形南部教会の賛美チームが、素晴らしい賛美をささげてくれました。そして、賛美は、一番主ににふさわしいものだと思いました。なぜなら、霊に満たされた人は、主に向かって心からの賛美をささげるからです。
19節
「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
「詩編」とは、楽器の伴奏による旧約聖書の詩編の歌唱のこと。
「賛美」とは、新約聖書の中にもたくさんある、当時のキリスト者が作った歌。
「霊的な歌」とは、神様を賛美する様々な種類の歌です。例えばワーシップソングもそうですし、プレイズダンス、琴の賛美、ギターの賛美、ピアノプレイズなど、神様にへの賛美には、いろいろな種類があります。
そのような、豊かな賛美を「主に向かって心からほめ歌いなさい。」と勧めているのです。
霊に満たされた人は、心から主を賛美する人です。
ダビデは、ペリシテ軍から、神の箱を取り戻して、オベド・エドムの家からダビデの町に運びあげた時に、「肥えた雄牛をいけにえとしてささげ、主の御前で・・・力のかぎり踊った」(Ⅱサムエル記6:14)と書かれています。それを見ていた、ダビデの妻、ミカルは一国の王ががそんな格好で踊るなんて、格好悪いとさげすみますが、それでも、ダビデは心から力の限り踊りながら、主を賛美したのです。
また、エルサレム入場の時、弟子の群れは、声高らかに、神を賛美しました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところに栄光。」(ルカ19:38)
ところが、それを、聞いていたファリサイ派の人々が、弟子達を叱ってくださいと批判しました。それに対してイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」と言われました。
心からの賛美は、人を感動させ、何よりも神様に喜んでいただくことができます。
私が、高校時代、良くクラス毎に讃美歌の合唱をしました。私の先輩のクラスに、一人だけ、何度練習をしても、音を外してしまう人がいました。ところが、その先輩は、賛美が大好きで大きな声で賛美をするのです。
勿論、目立ちますし、ハーモニーは不協和音のようになってしまうのです。でも、その先輩が一生懸命歌っている姿を見ていると、なぜか、感動して、聞いている人達に涙が浮かぶほどでした。
賛美というのは、上手下手はありません。心から、賛美するする心を神様は喜んでくださるのです。
トマス・フーラーという人がいました。
彼は、歌はあまり上手ではありませんでしたが、彼はこう言っています。
「わたしの声は、わたしにさえ聞き苦しい。しかし、わたしがもし、うぐいすのように歌えないなら、せめて、すずめのように嬉しい声を立てるだけでも、まるでだまっているよりはましだろう。やがて、時が来て、天の聖歌隊に加えられるときには、わたしも今とは違った美しい声が与えられることを信じる。」
ですから、私たちも、うぐいすのように歌えないなら、せめて、すずめやからすのような歌声でも、心から神様を賛美しましょう。神様は、その賛美を天使の賛美のように喜んでくださるのです。
私たちも、賛美の霊に満たされて、心から主に向かって賛美するものとさせていただきましょう。
③父である神様に感謝しなさい
20節
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
ここに「あらゆることについて」とあります。良いことも悪いことも、すべてのことについて感謝しなさいというのです。
例えば、病気になった時、それは、大きな苦しみですがその苦しみの中で、日ごろ健康を与えられていることを感謝できます。また、病気にならなければわからない人の痛みや苦しみがわかったことを感謝できます。そしてさらに、十字架にかかられたイエス様の痛みが少しでも味わうことが出来たことを感謝できます。
また、どんなことがあってもイエス様が、十字架で命を捨ててくださった、愛は決して変わることはありません。また、私たちは、いつも、あらゆることについて、全てが神様の御手の中で行われているのです。そのことを信じることが出来るならどんなことでも感謝することができるのです。
好美牧師の父親の手術のためにお祈りをありがとうございました。
胃に3センチくらいのガンが見つかり、胃の3分の2位を取る手術をしました。81歳という年齢もあり、糖尿病を患っているので、心配されましたが、手術は成功して、悪いところを全部取り除くことができました。
そして、神様はこのことを通して、素晴らしいことをしてくださいました。実は好美牧師の父親は25年くらい前に、イエス・キリストを信じ、福井県の如鷲教会で洗礼を受けました。ところが、近くに親切なエホバの証人の人がいて、だんだん教会から離れ、エホバの証人に心が引かれていったのです。
ところが、このことを通して、好美牧師が行って話しをし、「エホバの証人は輸血をしてはいけないんだよ。」輸血をすると、ヨハネの黙示録に書いている14万4千人の中に入ることはできないんだよ。」と言いました。
すると、「そうなのか。」と慌てて、「まぁ、エホバの神様も、キリストの神様も同じようなものだからな。」と言い始めたそうです。
そして、お祈りをすると、「愛する天の神様」と祈りはじめ、エホバの神様の名によってではなく「イエス・キリストの名によって祈ります。」と祈ったのです。そして、如鷲教会の先生にも訪問をしていただき、教会に立ち帰ることができたのです。
胃ガンという病気は、大変な試練でしたが、もしガンにならなかったら、そのまま、エホバの証人にとどまり続けて、永遠の命をいただくことができなかったかも知れません。しかし、神様は好美牧師の父を愛してくださって、その試練を通して、一番大切な神様のもとに立ち帰らせてくださったのです。
そのことを心から感謝しています。
そのように、私たちが「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神」を見上げるなら、いつでも、あらゆることについて感謝することが出来るのです。
Ⅰテサロニケ5:16~18(P379)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
これは、本当に有名な御言葉ですが、この後半に「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 と書かれています。
いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、そして、何よりもどんなことにも感謝することを、何よりも神様が望んでおられるのです。
山形南部教会でもコンサートを何度かしてくださった、「オリーブ」の曲に、「神様、わたしに、どんな時も感謝できる心をください。」と言う曲があります。私は、試練の中を通されるとき、苦しみや悲しみの中で、この曲に励まされまされてきました。そして、この曲のように、いつも、あらゆることについて、感謝するものでありたいと思わされています。
20節
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
今日は、神様が私たちに望んでおられる3つのことをお話ししました。
①光の子として歩みなさい。8節
②心からほめ歌を歌いなさい。19節
③父である神に感謝しなさい。20節
それでは、どうすれば、このような生き方ができるのでしょうか。
最後にもう一度、18~19節をご覧ください。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
18節後半に、答えがあります。むしろ、「霊に満たされて」です。聖霊に満たされるとき、この御言葉のように、光の子として歩むことができます。心から賛美をすることができます。そして、あらゆることに感謝できる心が与えられるのです。
どうでしょうか。私たちは、今、霊に満たされているでしょうか。
霊に満たされることを心から祈り、光の中を歩み、賛美と心からの感謝をささげる人生を歩ませていただきましょう。