今朝は、川上恵衣ちゃんと詩音くんのお証しを感謝します。今証しにあったように、二人とも体調があまり良くありませんでした。しかし、恵みに満たされて、恵衣ちゃんは、帰りの車の中でほとんど寝ていましたが、起きるとすぐに賛美をしていました。
詩音くんは、帰ってから体調を崩したので、みんなで松波ホサナでチラシ配布をするとき、チャペルで留守番をすることになりました。けれども、みんなが帰ってきたとき、詩音くんは、外に出て、駐車場の雪かきをして、お友達の来るのを待っていたそうです。
わたしたちが、聖霊の恵みに満たされるとき、私たちの心の中に、賛美が生まれます。そして、心から主にお仕えすることが出来るのだということを、二人から教えられました。
今日の説教は、「霊の導きの従って」という題をつけましたが、この「霊の導きに従って」という言葉が、15節と25節のに度出てきます。
15節をご覧下さい。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
25節
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」
「霊の導きに従って」・・・。これは、私たちクリスチャンが、「神の神殿」として用いられ、神の霊に満たしていただくために非常に大切な秘訣です。自分の願いや、自分の考えによって歩むのではなく、霊の導きに従って歩ませていただきましょう。
そのために、今日は、ガラテヤ5:16~26から3つのこと学びたいと思います。
(1)御霊によってできる
私たちクリスチャンは、聖書の御言葉に従って生きていく者でありますが、聖書の一番大切な教えは愛です。けれども、私たちは本当に、神様を愛し、人を愛する生活をしようとするとき、自分の愛のなさ、力のなさを感じてしまいます。
そして、多くのクリスチャンが、「できない。できない。できない」と悲しい告白をしていまうのです。
しかし、神様は、実行不可能なことを私たちに命じられているのでしょうか。
そうではありません。
15節をご覧下さい。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
霊の実を結ぶ道を歩むためには、神様からいただいた聖霊の導きに従って従って歩む以外にありません。
聖書の教えに従おうとするなら、自分の力や努力によってでは、決して行うことはできません。多くのクリスチャンが「できない。」と言っているのは、それを、自分の力でやろうとするからです。
私たちが、聖書の教えに従って、愛を行おうとするなら、聖霊による意外にありません。聖霊に導かれるとき、私たちは神様の御心を知ることが出来、キリストの心を心とすることができます。そして、聖霊に満たされるなら、聖霊の力によって、決して自己中心な欲望に負けることはないのです。
クリスチャンは、御霊によって、神様を愛し、隣人を愛することができます。
クリスチャンは、御霊によって、神様の御心を行うことができます。
そして、クリスチャンは、御霊によって、神様の御栄光を現すことができるのです。
マルコ9:23
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」とあるとおりです。
何と素晴らしい祝福でしょうか。
しかし、私達の現実はどうでしょうか。神様の御心を行いたいと思っていても、失敗してしまったという経験を誰もが持っているのではないでしょうか。
それでは、どうして失敗してしまうのでしょうか。
パウロは、その質問にはっきりと応えています。
17~18節
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」
私達の、失敗の原因は、霊に従って歩むべき事を、肉によって行おうとするところにあるのです。
生まれながらに持っている肉の欲と、霊に従う思いとを一緒に持っていると、霊と肉との戦いが始まります。その結果、自分の欲望を行うことも、神様の御心を行うこともできなくなってしまって、自分が何をしているのか分からなくなってしまうのです。
それは、御霊と律法に関しても同じ事が言えます。「霊に従って歩む」とは、すべてを神様に信頼し、より頼んで生きる生き方です。
それに対して、律法というのは、自分の力で生きようとする生き方です。ですから、この二つは決して両立しないのです。
肉によって生きるのか、御霊に従って歩むのか。
律法に表されているように、自分の力で生きるのか、御霊に信頼しより頼んで生きるのか、どちらかが問われているのです。
そのような、クリスチャンに向かって、パウロは、はっきりとこう言っています。
16節
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
私達たちは、何を求めているのでしょうか。肉の心でしょうか、それとも、御霊だけに満たしていただくのでしょうか。その洗選択をするのは、あなた自身です。
私たちが「神様、わたしの心にお入りください。今まで、わたしの心の中心に、わたしが座っていたことをお許し下さい。今、あなたに、心の王座をお委ねいたしますから、わたしを導いてください。」と霊に従って歩むことを決断することです。
そのように祈るなら、イエス様は、喜んで私たちの心の中に入って下さり、共に歩んでくださるのです。
そうすると、私達は、もう迷う必要はありません。生きる目標がはっきりします。
そして、私たちが霊の導きに従って歩むなら、私たちが自分の力によって出来ないことも、御霊によって出来るのです。不可能を可能にしてくださる聖霊に満たしていただきましょう。
(2)肉の業が結ぶ実と霊の結ぶ実
パウロは、霊によって歩むことの大切さを、二つの実の譬えによって説明しています。
まず、肉の業が結ぶ実です。
5:19~20をご覧ください。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
ここに15コの肉の業による実が書かれています。これを4つに分類することができます。
1番目は、「姦淫、わいせつ、好色、」 です。これは、生に関する罪で、家庭や社会を破壊してしまう罪です。
2番目は「偶像礼拝、魔術、」 で、宗教に関するもので、真の神様への信仰と礼拝とを破壊するものです。
3番目は「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、」 で、人との関係に関する罪で、教会の交わりや人間関係を破壊してしまいます。
4番目は、「泥酔、酒宴、」 これは、快楽に関する罪で、自分自身を破壊してしまうものです。
そして、最後に「その他このたぐいのものです。」 と書かれています。
こんな自己中心な肉の生活を続けている者が、キリストにあって新しく生まれた者にふさわしい訳がありません。
どうして、私達の心の中に、このような実を結んでしまうのでしょうか。それは、肉にとどまり続けているからです。私達が、どこにつながっているかで、その実は決まります。
私達が、生まれながらの肉という悪い木にとどまり続けるなら、わたしたちは良い木を結ぶことは、決してできません。
しかし、私達は、イエス様が、十字架で死なれたように、私達の生まれながらの肉も十字架で殺されたのです。そして、イエス・キリストの復活の命に接ぎ木されたのです。
だから、私達は、霊の実を結ぶことができるのです。
22~23節をご覧下さい。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
まず、「霊の結ぶ実は愛であり、」 とあります。全体は愛という実です。そして、その愛の実には、3つのうるわしい実が結ばれるのです。
1番目は、「喜び、平和、」です。これは神様との関係で結ばれる実です。神様に結ばれる時、私達の心と生活の中に、決して耐えることのない、喜びと平和が与えられます。
2番目は、「寛容、親切、善意、」で、人との関係において結ばれる実です。
3番目は、「誠実、柔和、節制です。」 この3つの実は、自分との関係において結ばれる実です。
そして、「これらを禁じる掟はありません。」 そればかりか、霊の結ぶ実は、愛ですから、その愛は律法を全うするものなのです。
それでは、どうすれば、このようなうるわしい実を結ぶことができるのでしょうか。
イエス様は、ぶどうの木の譬えでこうおっしゃいました。
ヨハネ15:5
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
イエス・キリストという幹につながることです。
私達は、自分の努力や、自分の力では決してこのような実を結ぶことができません。 けれども、今年の御言葉Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とあるように、聖霊を心の中心にお迎えし、しっかりとつながっているならば、必ず、豊かな実を結ぶことができるのです。
(3)霊の導きに従って前進すること
25節
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」
今まで、お話をしたように、肉と霊とは、完全に対立します。霊の業の結果は、滅びですが、霊の導きに従って生きるなら、その結果愛と永遠の命をいただくことができるのです。
そこで、私達がしなければならないことは、徹底的に、御霊によって歩む続けることと、徹底的に肉なるものを捨て続けることです。
24節にこうあります。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」
イエス様は、私達の罪のために十字架に付けられました。その十字架に私達の、肉の業(自我)も十字架に付けられたのです。そして、それらを十字架に付けたままにしておかなければならないのです。
ルカ9:23(P122)
「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
ここに「日々」とあります。一度救われたから大丈夫、一度聖霊に満たされて聖潔られたから大丈夫というのではありません。
神様が、私達に求めておられるのは、「日々」自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従うことです。
そこでパウロは、25節で
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」と言っているのです。
私たちも、そのように、日々、肉の欲を十字架に付け、聖霊に満たしていただいて、霊の導きに従って前進しましょう。
そうするなら、22~23節にある「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とある、愛という豊かな霊の実を結ばせていただくことができるのです。
その実は、すぐに見ることができないかも知れません。しかし、自分を捨て、霊の導きに従って生き続けるなら、必ず、時が来れば、豊かな実を結ぶことができるのです。
ケズィック・コンベンションで、村上宣道先生が、話された岡山のある姉妹の証しです。
この姉妹の家に、ある時一人の女性が転がり込んできました。見るからに、病気でやつれきっている様子でした。実は、以前にご主人と関係があった女性で、主人を頼ってやって来たのです。
ご主人は、困ったものの追い返すことも出来ず、奥さんに「お前はクリスチャンなんだから、困っているこの人の面倒をみなさい。」と言うのです。仕方なく引き取って世話をすることになりました。ところが、この女性、ほとんど寝たきりで、食事も上げ膳据え膳なのですが、感謝するどころか、不平を言い、悪態をついてばかりでした。
ある時、いつものように腹ばいになって、背中をもんでもらいながら、奥さんの顔をしげしげと見て、「見れば見るほどブサイクな顔ね。これじゃ、あんなの亭主が浮気をするのも無理はないわ」と言ったのです。
さすがの姉妹も我慢が出来なくなり、教会に走っていき、先生にこれまでのことを話したのです。先生は、「わかりました。その方を知っている施設にあずかってもらうことにしましょう。これ以上我慢をしたら、あなたの方がだめになってしまうからね。」と言いました。姉妹は、「じゃあお願いします。」と言って帰ろうとしたときです。
牧師がひと言「ただ、その人もイエス様の愛されている大切な人だからね。その人のためにもイエス様は十字架にかかられたことを忘れないでね。」と言ったのです。姉妹は、帰る途中で、そのことを思いでして、「自分は、あの人もイエス様に愛されているなんて思ったことがない。あの人は好きになれないけれど、イエス様の大切な人なら、私も大切にしよう」と決心をしたのです。
それから、何か嫌なことを言われても「ハイ、ハイ」と答えて、出来る限り、親切をつくして介護をしました。その女性はわざと怒らせようとするのですが、変わらずにニコニコ奥さんが対応するので、「どうして、そんなに親切なの。私のことが憎くないの。」と言いだし始めました。
その時です。この姉妹は両手をついて「あなたはイエス様に愛されている大切な人なのに、粗末にしてごめんなさい。」と謝ったのでした。その女性は驚いて、「許してもらわなければならないのは、この私です。わたしもあなたのようなクリスチャンになりたてから祈ってちょうだい。」と言ったのです。二人は祈り合い、この女性はすっかり変わり、やがて、ご主人も変わったのです。この姉妹は、霊の導きに従って、豊かな愛の実を結んだのです。
最後にもう一度、15節と25節を読みましょう。
15節をご覧下さい。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
25節
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」
霊の導きに従い、豊かな霊の実、キリストの愛の実を、私たちの心の中に、私たちの生活の中に見せていただきましょう。
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